『激突(crossroads)』-1-
ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
それを合図にして、鼓笛隊がリズムを刻み、トランペット隊が曲を奏で始めた。
よどみない、力強いメロディだ。
鼓膜が震えるほどの音響は心臓に直接響いてくる。ここが、建物に囲まれるように位置する広場だからこそ、余計と反響して聞こえるのかもしれない。
その響きは自然と、その場にいる者すべての意識を高揚させていく。
「ただいまより、開会の式典を始めます」
街の中央にある大きな時計塔。その前にある広場にて。
第30回、『園原』空軍基地航空祭、開会の式典が執り行われようとしていた。
小さなザワめきこそするが、辺りはシンと静まり返った。
そこに、いつもは耳からすり抜けて行ってしまいそうな鳥のさえずりが、妙に大きく聞こえていた。
開会の式典は、まずは、『園原』空軍基地の総監・雨峰 かんろの挨拶から始まった。
時計塔の正面に設けられた壇上に、彼女がゆったりとした足取りで上がり。頭を垂れた。
彼女の服装は軍服ではなく、灰色のスーツ。胸元に上品な紫とピンクのコサージュがよく映えていた。
ニコリと微笑むその笑顔は、規律の厳しい軍のイメージとは程遠い。まさに花のような、〝聖母〟と言った微笑みであった。
「職業、間違ってる気がせんか? あのおばはん」
ボソっと飛が呟いたので、とりあえず瑛己は小さく咳払いした。
瑛己たち327飛空隊は、そのひな壇の正面に並べられた特別招待客用の席に座が用意されていた。
そこにいるのは瑛己たちばかりではない。
並べられたパイプ椅子はざっと100ほど。座っている人のほとんどは瑛己には覚えのない顔ばかりだが、中に稀に新聞やメディアで見た覚えがあるような者も混ざっていた。
席に100人、そしてそれとは別に、彼らを囲むように式典を見守る一般の観客がいる。
数は知れない。内外から押し寄せた人たちが今、その壇を取り囲むようにここに集まっている。
上から見たら、『園原』の街の中心部分が真っ黒になっている、そんな状態なのだろう。
天気は快晴。雲一つない。
まさに航空祭のために用意されたかのような満天の蒼空である。
(空の女神が、祝福しているかのように)
そう思って瑛己は苦笑した。
瑛己にとっての〝女神〟は、この数ヶ月、あまりいい形で祝福を現してくれた事がない。
だがこの『園原』空軍基地を守る女神は違うらしい。なにせこの30年、航空祭において、たった1度も雨天で中止になって事がないというのだ。
30年×3日間。ただの1度もだ。
奇跡に近い出来事なのかもしれない。
そうこうするうちに、雨峰の演説が終わった。割れんばかりの拍手が起こった。
それはドォという轟音にも似た音で。一瞬ギョッとするものの、雨峰の人気とこの祭りの人気を改めて思い知った。
その後『園原』市長や協賛する大手企業の取締役などの挨拶が続き。
飛などは挨拶そっちのけで転寝を始めた。
「……」
瑛己は何げなく壇上の斜め後ろ……雨峰や『園原』の市長などが座っている、重役席とも言える場所に目を移し。
あ、と思った。
「……」
雨峰の隣に、腕を組んで座っている男。
軍部最高統括総司令長官・橋爪 誠。
引き締まったシャープな体と、顔立ち。
歳は兵庫と同じ。40半ば。
軍の最高の地位に最年少で上り詰めたその男。
(……)
遠目にも、空気が違うと瑛己は感じた。
彼が放つ圧力。彼がまとう雰囲気。
ただそこにいるだけ、黙して座っているだけにも関わらず、周りを圧倒する何かが彼にはある。
そばにいる者はどことなく緊張の色を濃くしているように見えた。
世間から〝鬼将〟と呼ばれる男。
空軍時代から、敵にも仲間にも恐れられ、それは今も変わらない。
(……)
瑛己の記憶の中にある橋爪 誠と、今そこにいる橋爪 誠。
少し歳をとった、だがそれだけでは埋められない何かがあった。別人のように見えた。
……もう、手の届かない人なのだと瑛己は思った。
あの日、頭を撫でてくれたあの男は。
(もう、どこにもいないのかもしれない……)
ワッという歓声が起こり、また一人挨拶を終えて壇上を降りた。
続いてまた別の人物が挨拶に向かうその最中。
橋爪に駆け寄る者がいた。
細身の、黒いスーツ姿の者。女性だ。後ろに縛った髪が揺れている。
秘書だろうか? それ以上何も思わず、瑛己はほとんど無意識にその姿を見ていた。
彼女は腰を落とし、橋爪の耳元に何かささやいている様子だった。
橋爪は一瞬険しい顔をしたが、身動き一つせず彼女の言葉を聞いていた。
やがて勤めを終えると、彼女は素早い動きでその場を去り、人の中へと消えて行った。
一瞬だけ振り返ったその顔は。
(時島さん……?)
脳裏に浮かんだのは、あの女性。
1度しか会った事はない。『湊』へきてまだそれほど経っていない頃。
『あの時見たすべての事を忘れていただきたい。それだけです』
『湊』の医務室で、瑛己に銃口を向けたあの女性。
【竜狩り士】山岡 篤に撃たれ、墜落した飛空艇と共に空の正体を知った彼の口を封じるためにやってきた女性―――。
あの人に……似ていたような気がした。
「……」
気のせいかもしれない。
確証が持てるほど、瑛己は時島と見知った中ではない。
そしてその時。
瑛己は、自分の周りに自分と同じ事を思った人間がいた事を。もちろん知るよしもなかった。
―――開会式は1時間ほどで終了した。
最終的に『園原』基地を代表して114飛空隊隊長・斉藤 流の開始の挨拶と(この瞬間、女性の悲鳴にも似た歓声が沸き起こった)。
晴天にこだまする花火、そして無数の風船の打ち上げによって、3日間の祭り開幕宣言となった。
20
開会の宣言と共に、『園原』の街はいよいよ火が点いたかのような盛り上がりとなった。
『園原』空軍114飛空隊所属・星井 湖太郎の言った通り、確かに、数日前の賑わいなどまだまだ序の口だった。
普段車が通っていた大通りも今は人でぎっしりと埋め尽くされている。
道の両脇には露店がひしめき、様々な物が売られている。
食べ物、骨董、名産などなど……珍しい物、美味しいにおいであふれ返っている。
また旅芸人の一座が芸を開いたり、子供たちが演奏をしたりもしている。
街の至る所で『蒼国』の国旗『蒼翼の鷲』が翻り、『園原航空祭』のポスターが街路灯や建物の壁など所かしこに張り巡らされていた。
そこにはでかでかと、『30回記念大会・模擬空戦は2日目!!』『『湊』ナンバーワンチーム『七ツ』来場!!』『『園原』ナンバーワン『飛天』VS『湊』ナンバーワン『七ツ』!!』と書かれており。
『『蒼国』最強チーム決定戦!!』とまで書かれた物もあった。
そんな街の大喧騒を他所に。
瑛己たちは湖にある基地の方で翌日の最終打ち合わせを行っていた。
打ち合わせは会議室のみ。今日はもう飛ぶ事はできない。
空を行き来できるのは、アクロバット隊のみ。
日に3度、基地から街の上空を抜けてここの滑走路まで。『園原』基地選抜のアクロバット部隊のみが、滑走路と空を慌しく行き来していた。
ここからではその飛行はよく見えない。どんなふうに飛ぶのか見てみたいと瑛己は思う。
アクロバット飛行……戦闘ではなく、人を魅了するための飛行技術。
それも単独ではなく編隊での飛行だ。おそらく、たくさん練習を積んだのであろう。
この施設からでは離着陸しか見えないが……3日間のうちに是非見てみたいと瑛己は願った。
会議室で明日の流れと動き、作戦などの打ち合わせ、そして最終的に各自の飛空艇の点検を済ませた頃には、もう日が傾き始めていた。
「では、明朝は0800時にホテルロビーに集合。以上。解散とする」
「お疲れ」
「お疲れさんっす」
格納庫の入り口にて。
解散の号令に、新が大きな欠伸をした。
「明日までは自由行動でいいっすか?」
「ハメ外すなよ、新」
「わきまえてますって、ジンさん。メシ行きましょう。メシ。もうペコペコっすよ。動けません」
「面倒だから、食堂までは自力で動け」
地下のモノレール乗り場へと向かう新たちを他所に。
「俺、もうちょい飛空艇見てくるわ」
「時間かかるか?」
「いや、そうでもない。ちょい待っててくれへんか?」
「わかった」
飛は格納庫の中へと戻って行った。
その様子に気がついた磐木が、瑛己に声を掛けた。
「飛はどうした」
「まだ少し飛空艇が気になるようで」
「うむ」
磐木にしては珍しく、飛の背中をじっと見つめていた。「聖」
「はい」
「よく気をつけてやってくれ」
「……え」
「明日、遅れるなよ」
それだけ言って、磐木も背中を向けた。
「……」
瑛己は何となく不思議な面持ちで、去り行く磐木の背中を見つめた。
それからしばらく、飛は格納庫から出てこなかった。
瑛己はとりあえず格納庫脇にあった自動販売機で珈琲を買うと、手近のベンチに座って飲んだ。
空は夕焼けに、赤く染まり始めている。
東の空はまだ青い。けれども西に向かうに連れて色は薄く、やがて赤く染まっていく。
夕空を眺めながら飲む珈琲は、何だか胸に染みる。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐい。瑛己はふと胸元のポケットを探った。
飛やジンならタバコが入っているその場所。瑛己のそこからは、1枚の写真が出てきた。
セピアに汚れた写真。それほど鮮明な物ではない。
けれども瑛己には、そこに映っている人物が誰かすぐにわかった。
父・聖 晴高と、橋爪 誠。
2ヶ月ほど前、『白雀』で偶然見つけた写真だ。
地図から消され、瓦礫と廃墟しかなかったあの街に、なぜかそれだけポツンと置かれていた物。
あの日以来瑛己は、ずっとこの写真を、胸のポケットに入れ続けている。
「……」
飛空艇の前で微笑む、晴高と橋爪。
瑛己はぼんやりとそれを見つめた。
橋爪は……今朝見た姿よりも少し若く、けれどもずっと穏やかな顔をしているように見えた。
原田 兵庫と、橋爪 誠。
2人は瑛己にとって、父・晴高の友人……そう思っていた。
交友の深さは知らない。
もちろん出会いのいきさつなどわかるはずもない。
ただ、瑛己が小さい頃家を訪ねてくれ、一緒に遊んでくれたのがこの2人であった。
(いや)
橋爪に遊んでもらった記憶はない。
橋爪とどういう時間を過ごしたのかはよく覚えていないけれども。
頭を撫でてくれた。それは良く覚えている。
大きな手だった。
そして温かかった。
その手に撫でられただけで、物凄く安心した覚えが瑛己にはある。
だから、瑛己にとって橋爪は「手の大きいおじさん」「手の温かいおじさん」だった。
軍の事も性格も、何もわからないけれども。
ただそれだけ。それだけで充分。
瑛己にとって橋爪は、「いいおじさん」「大好きなおじさん」だった。
「……」
12年前、父・晴高の葬儀のあの日まで。
瑛己の中でそれは揺るがず、絶対であった。
けれどもあの日。
橋爪は彼に言った。
『俺を恨め。瑛己』
あの日は雨が降っていた。
周りの人たちは涙雨だと連呼した。幼い瑛己はその日、その単語を初めて聞いて、初めて知った。
自宅に入りきらないほどの弔問客の中で。
橋爪は、少し離れた木陰にポツンと1人立っていた。
瑛己はそんな彼を見つけ、側に寄った。
何と声をかけたかは覚えてない。
ただ、しっかりと耳に焼き付いているのは。
『お前の親父を殺したのは、この俺だ』
俺を恨め。瑛己。
そして彼はそのまま、咲子に会う事もなく去って行った。
「……」
瑛己は深く、瞬きをした。
(……)
不意に、今朝見た光景が脳裏を過ぎった。
橋爪に駆け寄ったスーツの女性……。
時島、そう名乗った女性を思い出す。その姿を鮮明に思い出そうとした。
(もしもあれが、時島さんだったら……)
あの人は、空の事を知っていた。空を見た瑛己に警告を与えにきた。
(もしも)
あれが本当に、時島だったら……。
缶珈琲の残りを一気飲みした。
「……」
「おう、悪ぃ、遅なった」
飛の声に瑛己はハッとしたが、何とか顔に出るのをとどめた。
「いや」
胸ポケットに写真を戻し、立ち上がった。「行くか」
夕空は一層、赤みを増して。
雲を赤く、そして灰色に染めていく。
◇ ◇ ◇
「明日の集合、何時やって言うとったっけ?」
「8時にホテルのロビーだ」
「早いなぁ……起きれるやろか」
「秀一がいる限り、大丈夫だろ」
モノレールには他に誰も乗っていない。
瑛己と飛、2人の貸切だった。
街までは10分程度で到着する。
地下を走っているので車窓は望めない。第一に、窓がなかった。
「秀一はどないしてるんやろ」
秀一はまだ1度も湖の方には顔を出していない。
「祭りを見てきます」と、1人街に残った。
「明日もどないすんのやろ」
「……少なくとも、空戦は見るだろ」
どこにても。側にいなくても。
「せやな」
らしくなく、飛は自嘲気味に笑った。
「飛」
「あ?」
言うか言わまいか迷ったが。
「秀一、心配してたぞ」
瑛己は足を組み替えながら、何気ない様相でそう言った。
「……ほうか」
答えた飛の声は、いつもより小さかった。
「何か飛を怒らせるような事したかな、って」
「……」
「お前の様子がおかしいって、気にしてる」
「……ほうか」
「心配させるな」
秀一だけじゃない。
磐木も……おそらく隊の全員が気にしてる。
飛の変化。
最近の飛の様子が、少しおかしい事を。
さすがにそこまでは言わなかったが。瑛己には、飛なら気づくと思った。
「……何も、怒ってへん」
「……」
「ただな、瑛己……」
「ん?」
「俺……何や、わからへんのやわ……」
「何が」
「遊びの空戦って、何や……?」
思いもかけなかった言葉に、瑛己は「?」と飛を見た。
「明日の模擬戦の事やわ」
「ああ」
「祭りの余興やから、遊びやからって。皆言うてたやろ。俺も……言うたかもしれんけど」
「……」
「何や……どんどん俺、わからへんようになってくる……空戦って、遊びやない。俺たちがしてるのは、お遊びやない……命掛けや。色んな作戦を切り抜けてきた。誰も欠けずにここまできた。当たり前やと思ってきた。けど」
「……」
「本当は違う……運が良かっただけや」
「……」
「空戦は……死ぬんや。どの作戦もどんな危機も乗り越えてきた。けど、失敗すれば……1歩間違えたら俺ら、誰でも、死んでたかもしれんのや」
「……」
「遊びやない。飛ぶ事は遊びやない……見世物でもない……。俺らはそういう空を飛んできたんや……」
「……」
「俺は……そんな事も知らんと、のうのうとあの日も……『日嵩』に行く事を喜んで……。【無双】相手に戦える事だけを喜んで……」
「……」
「それで、秀一は」
「飛」
「俺は阿呆や」
飛はその場に頭を抱え込んだ。
瑛己はそんな飛を初めて見た。
そして、彼が胸に抱いている物をこの日、初めて垣間見た。
「お前のせいじゃない」
「……」
言葉が見つからなくて苦し紛れに選んだ言葉は、何だか安っぽく聞こえた。
「……」
「……」
それ以上に、言える言葉も見つからなかった。
「飛」
「……こんなん言うたらおかしいって」飛は頭を抱えたまま、消え入るような声で。「お前は思うかもしれんけど」
「怖い……」
「飛」
飛ぶ事が。
「何や、おかしいんや、俺」
なぜだか無性に。
「飛ぶのが、怖くて、たまらんのや………」
震える飛の肩に。
瑛己には、かける言葉が見つからない。
初めて、口下手な自分を呪った瞬間だった。
2012.5.19.コーヒー→珈琲