『あの日(piece_of_the_sky)』-3-
「あの日、様々な事が起った」
高藤は静かに、そしてゆっくりと口を開いた。
「数え切れない、かけがえのない幾つもの命を、その空は連れて逝ってしまった。哀しみも怒りも、恐怖もそして喜びも……すべてを飲み込み、無となり、永遠となった」
高藤の声だけが、部屋にシン…と響き渡っている。
「俺はあの日、簡単に奴らを送り出した。ある者とは祝言の打ち合わせの途中だったし、飲みに行く約束をしていた奴もいた。そして……喧嘩したまま、永遠に別れる事になった奴もいた」
一瞬、高藤が瑛己を見たような気がした。
「あの日、空に何が蠢いていたのか、どれだけの意思があったのか。俺は何一つ気付けなかった。ようやくそれを知ったのは、もう、すべてが終わってからの事だった」
兵庫が目を閉じている。
磐木はじっと、虚空を睨んでいる。
その目に映っているのは、恐らく、ただ1つ。
―――〝空の果て〟。
「だが、あの日起きたのは、空だけじゃなかった」
耳を、塞いでしまいたい。
瑛己の心に、なぜかそんな欲求が生まれた。
「哀しみが、人の心を裁くというのなら。苦しみが人の心を癒すというのなら。神は一体あの日、俺達に、何を望んでいたのだろうか?」
どこかで、何かが軋む音がした。
「あの日起きた、もう一つの悲劇を」
瑛己の心に流れ込む、無線のノイズ。
あの襲撃の空で、上島が言った言葉。瑛己の耳にも届いた、あの言葉。
その時、ガタリと立ち上がった者がいた。
兵庫だった。
「原田」
兵庫は軽く笑い、「この辺で、ご無礼します」
「座れ」
「や、いいっす」
「いいから座れ」
「親父さん」
「いいから、座れっ」
「いいです」
「兵庫!」
「聞きたくないです」
兵庫の目は、笑っていなかった。
高藤はそんな彼をじっと見つめ、そして深く一度瞬きをした。
「兵庫」
「白河の事なら」兵庫は微笑んだ。「聞きたくないです」
「なぜだ?」
「……」
「兵庫、お前はいつまでそうして、モトから目を背けているつもりだ?」
「……」
モト……一瞬、誰の事かと思った。
だが瞬間、兵庫の顔色が変わった。
「お前がそうする事で、一体、誰が傷ついていると思う? どうして俺がこんな席まで作って、奴を裏切るような真似をして、何でこんな話をしていると思っている? 誰が好き好んで、思い出したくもないあんな日の事を、誰にも聞かせたくないあんな日の話を、しようとしていると思ってる? 眠っていた蓋をこじ開けようとしていると思う!?」
「……」
「白河君から目を背ける事で、あの日の怒りも憎しみも全部あいつに向けて、そうして納得しようとして、そしてこの12年間傷つき続けているのは―――お前自身だろうが兵庫ッッ!!」
「―――」
「そして……憎しみも、怒りも、全部自分のせいにして。あの日のすべてを己のうちに封じ込め、その無念さも哀しみも、傷みも、すべて背負う事で……それでお前は、本当に、納得しているのか? 白河君」
「……」
え、と瑛己は顔を上げた。
戸口の向こうに、人影があった。
「十字架を背負う事が、己の使命だとでも思っているのなら、お門違いもいい所だ」
「……」
「もう、それ以上自分で自分を傷つけるな」
「……」
「これ以上、生きる事に怯えるな」
ためらうような音と共にく、ゆっくりとその扉が開いた。
そこにそこに、白河 元康が立っていた。
◇ ◇ ◇
「……あの日」
白河は、かすれたような声でそう呟いた。
そこから先は、自分が話します。そう言って。
誰もがその声にじっと耳を傾けている。
そして兵庫も。
どこか、苦しそうな顔をして。
「〝零〟の海で不審な艇団がいる……直ちに調査に向かうようにと、私達は命令を受けた」
白河の顔にはアザが幾つもある。それが、白河の心そのもののような気がして、瑛己は目をそらした。
「第301から311、315、318、326、327、329……それだけが当時基地にあって、その命令を受けた。当時は今よりもっと空賊が猛威を振るっていて、あの頃大きな組織が幾つもあったから。その2つ3つが合同で何か事をなそうとしているという噂もあったため、作戦は思ったより大掛かりなものとなるはずだった」
白河は、何を見て話をしているのだろう?
「私達304番隊は、あの時任務から帰ってきたばかりで。若干飛空艇の調子に乱れがある者がいた事もあり、少し遅れて出撃する事になった」
『すまん。すぐに行く』
磐木の脳裏に、あの時のあの、白河の困ったような顔が浮かんだ。
そして、
『心配するな』
凛然と笑う、晴高の笑顔が。
「だが……出撃の時間がきても、誰も、そこに、現れなかった」
いや、現れたのはただ1人。
『待ってても、無駄ですよ』
「上島君が、笑いながら」
『他の奴らには、304は基地で待機になったと伝令しておきました』
「私に、銃口を向けた」
.
『……何のつもりだ』
ハハハ、上島は笑って、トリガーに指をかけた。
『やめましょう、白河さん』
足がすくむとは、こういう事か?
『304番隊は、飛空艇故障者・体調不良の者多数のため、出撃不可能。総監の所にそう言って頭下げてきてくださいよ』
『何を』
『頭下げるのは、得意でしょう?』
その言葉に、金縛りが少しとけた。
『何のつもりだ、どうして、上島君』
『あんたも俺も、上に行ける人間だ』
上島は口の端を釣り上げた。『こんなトコで舞台の袖に消える人間じゃない。俺達は選ばれてんですよ』
『何の話だ』
『駄馬が死ぬのは、昔から当然の事』
埒があかない。
『俺は行く』
『たった1人で?』
『当然だ』
約束した。
すぐに行くと。
待っててくれと。
必ず行くから。
絶対に。
『それ以上動いたら、撃ちますよ』
『勝手にしろ』
『強情な人だ』
飛空艇に向かおうとした。
その背中から、ガンッッ! と心臓が跳ね上がるような音がして。
『―――ッッ!?』
横手にあった飛空艇のプロペラの一片が、凄い音を立てて砕け散った。
『次はあなたに当てます』
『……上島ッ』
なぜこんな事を。
『あんな奴らに構う事はない』
『上島』
『あんたも俺も、選ばれた人間だ。あんな奴らと……どうしてあんたはそうも、奴らと親しくしようとするんですか? 捨てておけばいい。あんたも俺も』
『―――それ以上』
『あんたは、あいつらの事を親友とでも思っているかもしれないが、あいつらにとってあんたなんか、所詮』
『やめろッ』
『ハハ、白河さんでもそんな顔、するんですね』
『上島』
『撃ちます。銃の腕は保障します。しばらく病院で大人しくしていてください』
『貴様』
『一緒に上に行きましょう。俺とあんたは、あいつらとは違う』
.
絶対行くから。
必ず行くから。
そう、約束したのに。
.
「……上島君は、俺を撃った」
白河は、瞼を伏せて、そう言った。
「弾は、右腕で砕けた。そこから先の事は……残念ながら、よく覚えている」
いっそ、記憶が曖昧であったら。
あの時の事を、忘れてしまえたら。どれほどよかったか。
あの痛みも、そしてあの感触も。
哀しみも。
「俺は……奴に殴りかかった。滅茶苦茶になって。変な話だが、俺のこの右腕が最後にした事は、上島君を殴る事だった。もみくちゃになって、泥だらけになって、気付いた時、俺は奴の銃を奪い取っていた」
『ハハハ、撃てよ』
上島の声が蘇る。
『俺を撃って、聖達を追いかければいい。だがな、もう遅いよ。今更行っても手遅れさ。聖達は今頃』
白河は唇をかみしめた。
『あの世と地獄の境目で、苦しみと怒りと絶望を胸に、最期の時間を味わっているよ? ハハハハハ……駄馬に相応しいと思わないか? 白河さん? この俺達と肩を並べようとしたいけ好かない連中の最期に、これ以上相応しい舞台は』
引き金は、指の中で、スルリと動いた。
耳が潰れるような音がした。
「俺は上島君を、撃った」
.
陽が傾き始めている。
.
◇ ◇ ◇
間もなく、会は無言のまま解散となった。
人のいなくなった会議室に、兵庫と……そして白河が2人、黙って座っていた。
白河は何も言わなかった。
同じように兵庫も何も言えないまま、夕焼け空を見ていた。
白河が上島を撃った事、それは恐らく高藤が全力をかけて外に漏れないようにしたのだろう。
だから直に高藤は『湊』を離れる事になり、遠い辺境の基地へと左遷された。その後も、まったく畑違いの海軍に異動させられるなどしたが、しかし彼を慕う者は多い。それは、高藤のそういう所からくるのだろうとも思う。
兵庫は葉巻が吸いたかった。だが、腕が動こうとしてくれなかった。
白河は白河なりに、苦しんで、ここまできた。
そして、彼もまた、未だ〝絶対〟に縛られ、もがき続けている―――。
「……」
兵庫はゆっくりと立ち上がった。
そして一歩ずつ、白河へ向かって、歩き出した。
それに気づいた白河が、ビクリと怯えたように立ち上がった。
そんな彼とは目を合わせず、兵庫は白河に近づいて行く。
―――あまり気乗りはしない。
段々と、その距離が。
―――……だけど。
最後の一歩は。
重い? 苦しい? 切ない? ……違う。
それは何かの―――安堵。
そして兵庫は白河を一睨みすると、「ん」と手を出した。
「え?」
戸惑う白河に、兵庫は少し顔を赤らめた。そして、馬鹿野郎とその手を取った。
右腕を。
「モト」
「―――」
そして、その頭を小突いた。
全然痛くない。
「無理すんなよ」
それだけ言って、兵庫は部屋を出て行った。
「兵庫っ……」
白河は。その場に、泣き崩れた。
.
「……さてさて……」
カツカツカツと、靴音だけが廊下に響いている。
兵庫は不慣れに葉巻を取り出すと、口の端にくわえた。
(〝空の欠片〟……)
人が犯した罪、そして業。
開けてはならなかった、パンドラの箱。
その行方を探り、そして。
その石をこの世から消し去る。
それは、この先どうあっても兵庫の胸に刻まれた、
―――絶対の印。
(そのためになら)
靴音が遠ざかる。
足跡は、残らない。
それでもいいと、兵庫は笑う。