『あの日(piece_of_the_sky)』-1-
マッチが、少し湿気ている。
どうにか火を点けた何度目かのそれを、兵庫は大事そうに、葉巻の先にかざした。
ふぅ……。
長く長く息を吐く。
役目を終えた一つの火を消し、灰皿に落とす。
兵庫はそのまま窓辺に行くと、空を見上げた。
バカ天気だ。雲の欠片が1つ、2つ浮かんでいるだけで、他には何もない。一面の蒼の世界。
不慣れな左手で葉巻を吹かす。右腕は、三角巾こそしていないものの、ポケットに突っ込んだままだった。
その時、不意に人の気配がして、兵庫はそちらを振り返った。
ガランとした会議室、2つある入口の前から入ってきたのは。
「お? 早いな」
『音羽』第8海軍基地、総監・高藤 慶喜。
兵庫は軽く会釈をすると、「どーも」と笑った。
「てっきり俺が一番乗りかと思ってたんだが」
「ははは、暇だったもんで。つい、お先に」
高藤は一瞬兵庫を疑わしそうに見たが、すぐに独特の笑顔を浮べ、「そりゃぁ、結構なこった」と豪快に笑った。
「他の連中はまだか?」
長机を蹴散らすように歩いてくる大柄な男に、兵庫はニコニコと笑い「まだですよ」と言った。
「一本よこせ」と、高藤は兵庫の胸のポケットから1本引っ手繰った。
「火ぃ貸せ」
「へいへい」
さっきあれほど苦戦したマッチは、今度は一発で火を点けた。
灯してやると、高藤は満足そうに目を細めた。
「にしても……こうして見ると、随分な様だな」
葉巻をくゆらせ、高藤は、眼下に臨む光景にふと溜め息を漏らした。
兵庫も視線をそちらに移した。
本塔4階、第1会議室。
その窓から見える光景は、この数日で大きく様を変えてしまった。
まず、滑走路が3分の1ほど、なくなった。
代わりにあるのは、黒い焦土。アスファルトはひっくり返り、白線など姿もない。
格納庫の半分は焼かれ、行き場をなくした蒼い飛空艇の幾つかが、残った滑走路に肩を寄せるように並んでいる。
被害は基地の他の施設にも及んでいる。
本塔、そして北塔はわずかな被害ですんだものの、南館は半分以上を焼失。会堂に至っては全焼、跡形もない。そんな中で宿舎がほぼ無傷だったというのは奇跡だ。
「唯、春の夜の夢のごとし、か……まったくよく言ったもんだな」
遠い眼差しでそう言う高藤に、兵庫は何も言わずに葉巻を吹かした。
「町の方も、こっちほどではないにしろ、ちぃっと害が出たみたいだ。しかし『湊』の鳥は元気だねぇ。あんな事があったっつーのに、よく動く。半分が町の応援に向かった。若いってぇのは、宝だな」
「ははは」
「笑いごっちゃねぇよ。そこいくと、うちの連中は駄目だね。どいつもこいつも、ガタガタ抜かしてやがる。こーりゃ、根性叩きなおす必要がありそうだわいて」
「そりゃぁ、あんたけコキ使われたら、誰でも参っちまいますよ」
―――『湊』襲撃から、3日。
高藤がその第一報を聞いたのは、明け方間近の事だった。
『湊』が何者かに襲われた。高藤にとって、『湊』で白河に会ったその夜の事だ。大慌てで召集をかけ、『音羽』海軍、『湊』へ向かって疾け出した。
だが高藤達が着いた時、すべては終わっていた。
夜が明けて、初めて目の当たりにした『湊』空軍基地は、前日の光景を裏切るほどに変わり果てた姿となっていた。
まず、負傷者の手当てに追われた。それから、爆撃を受けた内外の行方不明者の捜索、救助……『音羽』海軍の者達は高藤に尻を叩かれ、奔走していた。
そして兵庫もそれに手を貸してはいたが、彼も怪我人の一人である。
「すっこんでろ!!」
瓦礫の山を押しのけようとしている海軍の者に手を貸そうとして、かえって足を引っ張り、高藤に怒鳴りつけられている。
「ん? きたか」
その時、会議室の外から、何人かの話し声が聞こえてきた。
高藤は吸いかけの葉巻を灰皿に押し付けた。兵庫は特に関心なさそうに一服すると、もう一度、空を仰いだ。そして、「親父さん」と言った。
それは、兵庫が『湊』にいた当時、高藤が『湊』の総監だった頃からの―――兵庫の、高藤に対する呼び方だった。
「親父さんは一体、何がしたいんスか?」
「……何が?」
話し声が近づいてくる。
「こんな所に奴らまで集めて。叱り事なら、俺だけで充分じゃないですか」
「……」
「何がしたいんスか? 親父さん」
「兵庫」
高藤は深く瞬きをした。だがそれ以上、何も言わなかった。
ガラリという音が、部屋に広がった。
兵庫はつっとそちらを見た。
「あ」
瑛己。
目が合った。
「さてさて」
高藤はふんわりと微笑んだ。
「よくきたな。そこら辺に掛けてくれ」
―――瑛己……。
兵庫は視線を外した。
なぜか、そのまっすぐな瞳が。
兵庫は少し、痛いと思った。
.
16
「忙しいトコ集まってもらって、悪かったな。よくきてくれた。まずは礼を言う」
―――召集。
瑛己がそれを聞いたのは、飛と町の復旧作業に行っている時だった。
「何や? このクソ忙しい時に!」
崩れた書店の片付けを手伝いながら、片手に『飛空新聞』を広げていた飛は、伝令にやってきた若い整備士に露骨に嫌そうな顔を向けた。
てっきりまた、新の小言でも聞かされるのではないか……そう思った瑛己は、彼も、ゲンナリ顔で整備士を見つめた。
謎の襲撃から3日、あれから瑛己達は新に、何をどれだけ言われたか知れない。
総括すれば、「怪我人がウロウロすんな」。
それに関して、磐木ですら新に何も言えない様子だった。
「どいつもこいつも、これ以上手を焼かせないでよね!! もぅっ、新さん、あったまきちゃう!!」
冗談のように言っているが、新の目はまったく笑っていない。
そのギャップがむしろ怖くて、誰も何も言えなかった。
また定例の「新さん、あったまきちゃう!」召集か……? 瑛己はとても嫌そうな顔をした。
だが、整備士が続けた言葉は意外なものだった。
「召集です―――『音羽』の高藤総監が、327隊を」
「高藤さん?」
それには飛も驚いた。
『音羽』の高藤総監との面識は、ないわけではない。前に2度―――『音羽』の依頼で『零地区』を飛んだ後日、そして空(ku_u)撃墜命令の折、『音羽』を経由して行った時、挨拶程度で顔を合わせた事はある。
今回も、イの一番で駆けつけてくれたのが『音羽』だった。それから高藤もずっとこちらにいて、復旧作業の指揮をとっている。
「何やろ……? また小言か? おい」
飛はゲッソリとした。
「『日嵩』の件かな」
「んな事、白河総監が『蒼光』から帰ってきてから訊けばいいやないか。『音羽』の高藤さんってな、えっらい気難しいおっさんやっつー話やぞ?」
「……」
「あれ? 確か新さんが前にいた海軍って……『音羽』やなかったかな? 空軍にリクルートしたいって言った時、ボコボコに殴られて、『てめぇの顔なんざ、二度と見たかねぇ!! どこいでも行きやがれっ!!』って言ったっていう総監って……」
「……」
瑛己はますます嫌そうな顔をした。
「なぁ、瑛己。この伝令、聞かなかった事に」
一瞬、本気でその提案に頷きかけた瑛己だった。
気乗りしない足で仕方なく、指定された第1会議室へ向かった。
「はぁぁー、327召集っつったって、秀はナシやろ? ええなぁ」
頭の後ろで腕を組みながら飛は言ったが、その顔は、嬉しそうに見えた。
「よかったな」
「あん?」
「秀一の意識が戻って」
「……まーな」
この数日で一番嬉しかったニュースは、秀一の目が覚めた事だった。
それを聞いた時の飛の喜びようはなかった。
しばらくはまだ安静が必要だと言われたが、医務室へ行き、にこやかに微笑む彼の姿を見て、瑛己も心底安堵した。
まだ言葉ははっきりと出てこないが、こちらの言っている事はわかる様子だった。
それから飛は毎日顔を出しては、あれから起った事を話して聞かせた。瑛己も顔を出したが、時折新の待ち伏せに遭うようになってからは、時間などを慎重に考えて行くようにした。
会議室に行くと、そこにはすでに高藤と兵庫の姿があった。
兵庫の姿に瑛己は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに他のメンバーも集まってき、兵庫と話す間もなく席につく事になった。
だが、何となく……兵庫の様子が、瑛己は気になった。
気のせいかもしれないが、こちらを見ないようにしている、そんな気がしてならなかった。
そういえば、怪我は大丈夫なのだろうか……? 昨日『海雲亭』の様子を見に行った時、海月にその話を聞いていた。兵庫の怪我が心配で様子を見に行っていたのだと。襲撃の直後にこちらに戻ったらしい。『海雲亭』はほとんど被害に遭わなかった様子で、「こんな時だからこそ」と親父は翌日から店の営業を再開した。
海月は被害に遭った所を回り、片付けを手伝ったり、炊きだしのグループに加わり配って周ったりと忙しそうだった。
だけど真っ黒になって走り回ってる海月を見て、瑛己は、なぜかきれいだと思った。もちろんそれを言うと、「瑛己、喧嘩売ってるのね?」と拳を固められそうだったので、黙っていた。
「磐木、体の調子はどうだ?」
問われ、一番前に座っていた磐木はうめくように「はい」と言った。
「絶対安静とは言われていますが、じっとしているわけにもいきませんので」
「はぁっ……、ったく、誰かこの人、殴ってくださいよ」
新が大げさに溜め息を吐いて呟いた。それに磐木はギロリと睨み、だが黙っていた。
「元義、お前は相変わらず元気そうだな」
高藤は苦笑した。それに新はペロっと舌を出した。
「それだけが取り得っすから」
「小暮はどうだ。耳の方は治ったか?」
カカカと笑う新の横で、小暮は2、3度瞬きをして頷いた。
「はい。谷間の襲撃の直後はかなり酷かったですが、今はほとんど。自然に治るだろうと医務の佐脇先生も」
「上々。須賀、その制服の中からはみ出してる『飛空新聞』は、もちろん、金を払って持ってきたもんだろうな?」
ギクリ。
飛の肩が揺れた。瑛己はチラと横に座る彼を見やり、嫌そうに眉をしかめた。
「なっ、なな、何を言ってんですか! もちろん決まってんじゃないスか!」
「……」
こいつ、返すの忘れてきたな……。もしや確信犯なのでは……瑛己は溜め息を吐いた。
「聖、火傷はどうだ?」
瑛己は深く息を吸い、「はい、大分よくなりました」と言った。
「無理するな? お前も須賀も、どうも無茶したがる嫌いがある。心配してもらえるってのは、怪我人の唯一の特権だかんな。ありがたくもらっとけ」
「わかりました」
瑛己は苦笑しながら頷いた。
「相楽は医務室か……まぁ、仕方がないか。で、風迫。基地に戻ってきた早々、役目ご苦労。白河君に代わって礼を言う」
「いえ」
言葉少なく、ジンは言った。「白河総監は?」
「予定では今日か明日かに戻るらしいが……まぁ、厄介だわな」
白河は今、『蒼光』にいる。
襲撃の翌日、『蒼光』の軍事委員会の呼び出しを受けて飛んで行った。そこでの事はほとんど聞こえてこないが、状勢は、あまりよくないという噂だった。
「どっちに非があるか、どう見てもわかりきっている事だというのに。軍の上層部にいるのは、目ん玉節穴になった奴ばっかりのようだ」
ただ、と高藤は言葉を濁し、明後日を見た。
「唯一の救いは、橋爪君が動かない事だ。良くも悪くも、どちらにも転ばん。この話はこのまま流れて行くだけだ」
「……」
磐木が、重い声で訊いた。
「高藤総監、それで……上島総監は」
見つかったんですか?
その問いに、高藤はふっと苦々しく笑い、片眉を上げた。
「うちの連中が、総出で海を洗ってる。ほとんどの奴は見つかったよ。だが……如何せん、総大将の首が見つからない」
高藤はアゴを掻いた。
「それは」
その先を促すように、ジンが言った。「生き残った可能性は?」
「ゼロじゃぁないよ」
「……」
「お前らだってよく知ってるだろう? この世界には無限の可能性がある。何一つ、俺らを取り巻いているもので、絶対の保障はない。ここでこうして立っている、この地べたにだって、この先未来永劫、俺らを支えてくれる保障なんて、こんなちびっとの欠片ですらありはしない」
そこで区切り、高藤は兵庫を見た。「原田」
「さっき俺に訊いたな。何がしたいんだ? って」
「はい」
兵庫はじっと高藤を見た。
高藤はふっと微笑むと、全員を見渡すように言った。
「かつて何が起きたのか、今何が起こっているのか、そしてこれから」
何が起こるのか。
「そいつを、一直線に結ばなきゃならない時が、きたんじゃないかと俺は思う」
「……」
「磐木、お前だって知りたい事があるだろ?」
「……」
「白河君は怒るかもしれないがな……だが俺は、あんな白河君を見ているのが、正直言って辛い」
「……」
―――兵庫、お前だって。
「聞きたくないなら帰んな。知りたくなけりゃその方がいい。俺はきっと今から、お前らに、余計なもんを背負わせる。空軍の飛空艇乗りとして、普通に空を飛んで行く分には、何ら必要のない事だ。兵庫、俺がしようとしている事は、単なるエゴだ。人の意思など考えてもいない、自分がしたいだけの事だ。それに付き合いたくない奴は帰ってくれ。何も言わん。5分待とう」
「……」
「……」
瑛己はチラと兵庫を見た。
じっと一点を睨むようにしたその横顔が。
瑛己はなぜか……何かに耐えているように見えた。
淋しげに見えた。
.
5分経った。
だが、誰も、席を離れる者はいなかった。