『兵庫と海月(hyo_go & miduki)』-2-
背中が重い。
そう思いながら、兵庫は部屋の戸を開けた。
海月がそこで、彼を待っていた。
クルクルとした大きな目でこっちを見て。
「兵庫」
小さくて、少し、甘えたような声。
兵庫は目を合わせられなかった。
寝台に座る彼女を避けるようにして、戸口の脇にある備え付けの椅子に座った。
そして、帰れと言った。
.
「今日は、あいつもさすがに体にきてるだろうから……今、部屋あいてるか訊きに行ってるから。お前、明日の朝、奴と帰れ」
「やだ」
即答だった。
「馬鹿。帰れ」
「やだ」
「海月」
「やだ」
兵庫は頭を抱える思いだった。「わがまま言うな」
「あたしが帰ったら、あんた、どうすんの、その体で」
「俺の事はいいから」
「兵庫が行かないなら、私もここに残る」
「海月!」
「怒鳴りたいのはこっちでしょう!?」
「……」
兵庫はギョッとして振り返った。
「ロクに連絡もくれない、『湊』にもこない。たまにきたと思っても、私のトコには顔も見せずに去っていく。この12年、あんた、私に対して随分いい態度取ってくれたわよね? 兵庫、私が、あんたが私の事避けまくってんの、気付かないとでも思ってんの?」
「海月……」
「それで挙句に、大怪我して動けない状況だって? 行き倒れた所を助けられて、手紙すら自分で届けられない状況だって? 誰を差し置いても自分で全部抱え込んで、人に物を頼む事を知らないあんたが、手紙届けてくれって? それも白河さん宛ての手紙を??」
「……」
「兵庫、」
私が、どんだけ心配して。
どんだけ、どんだけ……。
「海月……」
「あんたは、何も知らない」
「……」
「全部、何もかも知っているような顔して、何であんた、わかんないわけ? 何も知らないじゃないの、あんたなんか、あんたなんか」
「……」
悪ぃ、と兵庫は呟いた。
「俺は……なんつーか、正直言っちまえば……お前に、合わせる顔がない」
「……」
「悪ぃ」
「何が」
「ん?」
兵庫は苦笑して、目を閉じた。
―――俺が、生き残っちまって。
ハルじゃなくて。
悪ぃ。
「バカ……」
「……明日、帰れ」
それは、自分でも嫌になるくらい、弱々しい声だった。
「やだ」
海月の声も、切れ切れだった。
「いいから、帰れ」
「やだ」
「わがまま言うな」
「……やだ」
「何で」
「だって」
「海月」
「だって」
「頼むから」
「……やだ」
「帰れ」
「…… 一緒にいたい」
兵庫はハッと顔を上げた。
「海月……?」
「兵庫の、バカ」
「……」
何で気付いてくれないの?
海月は下を向いたまま、頭を振った。
どうして気付いてくれないの?
「……海月」
兵庫は、立ち上がった。
ねぇ、どうして?
涙が、こぼれてしまいそうだった。
それを抱きとめるように。
兵庫は海月の隣に座ると、そのまま、片腕で彼女を抱きしめた。
「兵庫ぉ」
「……」
そんな甘い声で、俺の名前を呼ばないで。
そんな事する、つもりはなかったのに。
海月の唇は、とても柔らかくて暖かくて……あまいにおいがした。
引き剥がすように顔を離すと、海月の、驚いたような目と合った。兵庫は慌ててそらし、搾り出すように言った。
「これが、俺が、お前の事避けてたワケだよ」
「……」
「帰れ。俺が……どうかなっちまわないうちに」
「兵庫」
「頼むから」
ハルじゃなくてごめん。
お前が、ハルの事が好きだったってのは、ずっと知ってたから。
ハルの事見てたの知ってたから。ハルだけ見てたの知ってたから。
そんなお前を、俺は見てたから。
ずっと……。
「バカ」
え、と。そう呟いたその瞬間。
海月が、兵庫の唇に、自分のそれを重ねた。
「バカ」
どっちが?
海月の頬を、涙が伝った。
兵庫は、海月を抱きしめた。さっきよりも強く、確かに。
心が。
ねぇ……どうして?
兵庫は晴高に問い掛けた。
どうしてこんなに、苦しいんだろう?
人を好きになるって……、何でこんなに。
愛しい、愛しい……溢れて、苦しい。もう、苦しい。
「バカ」
その言葉ごと。
海月のすべてを、奪ってしまいたい。そんな衝動から。
ずっと、逃げてきたのに。
◇ ◇ ◇
宿を出たジンは、夜の町並みを、特にあてもなく歩いていた。
目には色々な物が映る。立ち並ぶ様々な屋台、色々な人、笑い声、怒鳴りあい……だけどどれも、ジンの心を捉える事なく過ぎ去っていく。
その代わり、あの光景が蘇る。
(隊長……)
次々と墜ちていく仲間たち。そして現れた、【天賦】、そして無凱……。
自分が一体、どこで墜ちたのか。ジンはよく覚えていなかった。
ただ、気付くとそこに、秀一の機体があった。
そして夢中で操縦席から秀一を引きずり出し、谷間にあったくぼみのような所に隠れた。
幸い、【天賦】は墜ちた何人かを拾い……去って行った。
瑛己は、突然現れた紺色の機体に、昴と一緒に連れて行かれた。
その時、ふと、紺色の機体に乗ったパイロットが偶然こちらを見た。目が合ったような気がした。
そして頷いたような気がした。
あいつは大丈夫だ。確信した。
【天賦】が去った後周りを確認すると、誰のかわからないが、大して致命傷を受けていない機体があった。それに乗り込み、どうにか這うようにして基地に戻った。
そしてその後、白河の命を受け、こうしてここまでやってきた。
自分のような人間に頼まなければいけないほど、あの人の周りには、信用できる人間がいないのか……ジンの顔が、ふっと陰る。
ジンにとって、白河は命の恩人である。
そしてそれは、磐木も同じだ。
(隊長……)
どうか、ご無事で。
兵庫の手紙を持って、白河は橋爪に談判に行ったのだろう。だが、どう楽観的に考えても、橋爪が動くとは思えない。
(いっそ、俺が)
もう一度、【天賦】に切り込むか―――そう思った時。
行き交う人の中、目の先に。こちらを向いて、立っている男がいる。
黒い身なりの男。背はさほど高くない。
だが、その顔に。
「―――」
ジンは目を見開いた。一瞬、足を止めかけた。だが……歩かなければいけないと、誰かが背中を押した。止まってはいけないと。
逃げては行けないと。
軒の明かりに照らされて浮かぶ、人影。無造作に揺れる、長い前髪と。その間から覗くのは、少し垂れた目。
だがその目に宿っているのは、凍えるような炎。
その光を一層増す、右に引っ掛けた片輪の眼鏡。
今は、『黒国』黄泉騎士団・第1特別飛行隊隊長だという―――その男を。
男は微笑んでいた。
ジンはそれから目をそらさず、歩いて行った。
―――最後に会ったのは、極寒の冬。
『裏切り者』
男はあの時そう言った。
その彼が目の前に立っている。微笑んでいる。
『殺してやる』
ジンは歩く。
『俺は絶対に』
例え神が、お前の存在を認めようとも。
―――許さない。
「お久し振りです」
すれ違いざま。
ジンは答えなかった。だが、ピタリと足を止めた。
「また、会えましたね」
「……」
「あなたが生きていてくれて、僕は、とても嬉しい」
「……」
「あなたはよほど運に恵まれているようだ」
「……ここで殺る気か? フズ」
男の気配には、殺気がある。
ジンとフズ、顔を合わせず互い、背を向け話している。
「そうしたいのは山々ですがね」
「……」
「僕は、あなたがどうしたら苦しむのか、どうしたらもう這い上がれなくなるのか、どうしたら気が狂うほどの絶望を味わって頂けるのか……考えて考えて、それが、楽しくて仕方がない」
「……お前がやったあれが、その結論か? ぬるいな、まだ」
「ふふふ。いい口を叩きますね? あなたは何様ですか?」
「……」
「今すぐあなたを、殺してやりたい」
「……」
「ですが、次の機会の楽しみに取っておこうと思います」
「……」
「今日は、あなたにご忠告があってきました」
「……」
「あなたはこのまま数日、ここで過すといい」
「……何」
「そうしたらあなたを、素晴らしい朝が迎えてくれます.絶望の朝がね」
「……何を」
「中々見れるものじゃないですよ? 内輪の戦いなんて」
「……ッ」
「『日嵩』は、【無双】に送り込む予定だった全勢力を『湊』へ送ります。そして総指揮は―――言うまでもないですね」
「上島が」
「結局、あの人は空でしか……いや、地獄でしか、生きられないのかもしれない」
あなたと同じように。
「どうぞ、命を大切にしてください。僕が殺すその日まで」
「……殺す殺すと簡単に言えるうちは」
ジンは虚空を睨んだ。
「お前にとって生も死も、おぼろにしかない証拠だ」
「……」
フズは笑った。そしてジンを振り返りもせず言った。
「あなたは変わった」
「……」
「でも、今のあなたの方が、殺しがいがありそうだ」
「……」
ジンは歩き出した。
「そうそう」
それに背を向けたまま、フズは言った。「もう1つ」
「先日、『蒼光』に行った時、随分懐かしい顔を見かけましたよ」
「……」
「街中でチラっと見ただけだから、空似かもしれない……だけど、そっくりでしたよ。あの女に」
「―――」
ジンは。ピタリと足を。
「ひょっとして、あなたも探していたんじゃないかってね。見つかりましたか? あなたの、愛しい人は」
止め、てはいけない。
「あなたと僕、どっちが先に見つけるんでしょうね? ―――時島 恵を」
止まってはいけない、誰かの声がする。
歩かなければればいけない。前へ、進まなければいけない。
『走って……ッ!!』
振り向いてはいけない。
『走ってッ……!! ジンッ、早くッ……!!』
泣いてはいけない。
『生きてッ……!!』
行かなければいけない。
その約束を、守らなければいけない。
.
想いが、交差する。
胸が苦しい。
誰かに解き放って欲しいと思う。
だから、その名前を呼ぶ。
ずっと、叫び続けている。
その心に、届くようにと。
そして二度と。
離れてしまわないように。
.
翌朝。ジンと海月は町を後にする。
そしてそこには兵庫も、共に。
『湊』へ向かう、汽車へと乗り込んだ。