『兵庫と海月(hyo_go & miduki)』-1-
例え、この命が尽きる事になっても、
どうしても、やらなければいけない事があった。
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汽車が、ゴトンゴトンと揺れていた。
瞬きを一つすれば、車窓から臨む景色は、スルリと姿を変えてしまう。
だけど、今の海月にとって、それは大して意味のある事ではなかった。
町並みも、田畑も、森も、海も、そして空も。
流れる車窓と同じように、彼女の心にも、流れて消えて行くだけの事だった。
そんな彼女を、通路を挟んだ隣の座席にいたジンが、チラリと見た。
平日の夕方、車内に人気はまばらだ。
海月の横顔が、窓に映っている。
それを見て、ジンの脳裏を別の横顔が過ぎった。
淋しげで、切なくて……愛しい。
ジンは顔をそらした。
海月はジンの事など忘れたように、窓の一点を見つめていた。
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―――朔の夜より、少し遡る。
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15
「ごちそーさん。美味かったよ」
そう言って、兵庫はニコニコと勘定をテーブルに置いた。
その声に、厨房で皿を片付けていたおかみが振り返った。
「ああ、毎度おおきに。お部屋へ? 今誰か呼びますよって」
慌てて駆けてくる中年の女性を、兵庫は苦笑して制した。「いいって」
「そんな気を使わなくていいって。大丈夫、一人で上がれるから」
「せやけど」
「ほら、向こうで客が呼んでるよ? よっこらせっと。旦那―、美味かった。また明日も期待してるから」
はははと笑い、奥の厨房にいる旦那に声をかけた。そして少しおぼつかない様子で席を立った。その姿を見たおかみがオロオロしたが、
「せやから、まだ松葉杖使わなかんてセンセが」
あんなかったるいもん、使ってられない。そう思いながら兵庫はヒラヒラと手を振り、食堂の二階にある宿の部屋へと上がっていった。
「よっこいしょっと」
冗談でそんな声を上げながら、階段を上がっていく。
体を半分壁に押し付けるようする。無理な姿勢に背中が痛むが、手すりを掴みたくとも腕は三角巾で吊るされている。
足の包帯は、大げさすぎると思う。だが白いガーゼの向こうからは、チリチリと火を吹くような痛みが、絶え間なく頭を打ち続けている。
兵庫は目を閉じ思った。
よく、生きてられたもんだと。
―――この宿にたどり着いたのは、数日前。
命からがらワケもわからず走ってきて、最終的にぶっ倒れたのが、この宿の裏にあるゴミ捨て場だった。
次に気がついた時、兵庫は宿の寝台の上で、包帯をグルグルにされて横になっていた。
ありがたかったのは、誰も、何があったのか訊かない事。
それを口にした所、おかみは言った。「あんたさんが話したいなら幾らでも聞きます。せやけど、せやなかったら何も訊かへん。それが、お宿のしきたりどす」
少しなまりのある口調でカラカラと笑ったおかみに、兵庫は手を合わせて感謝した。
部屋に戻るなり、兵庫はドカリと寝台に寝転がった。
しかし……気に掛かる事がある。
おかみの笑顔に甘え、思わず頼んでしまった――― 一通の封書。
あれは無事に届いただろうか……そう思うと同時に、ここを妙な事に巻き込んだという自責の念に捕われる。
宛てたのは、『湊』基地総監・白河 元康。
(もっと早く、知っていれば)
兵庫は眉間にしわを寄せた。
1週間ほど前の事だった。瑛己達が『日嵩』へ行ったという話を耳にしたのは。
だがそこで兵庫は嫌な事を聞かされる。
『日嵩』の総監・上島が、『七ツ』に何か仕掛ける気でいるという事。そしてそれに【天賦】、そして無凱も関っているかもしれないという事―――。
(上島 昌兵……)
その男を、兵庫はよく知っている。
彼がまだ空軍にいた頃、同じ基地にいた。白河が隊長をしていた当時304飛空隊の、副隊長をしていた男。
兵庫は上島に対して、特に関心はなかった。
白河と上島がもめている姿はよく見た。心底困ったように返す白河に、挑むように畳み掛ける上島の姿……「白河も大変だな」と晴高は苦笑していた。
上島の挑戦的な目は、白河だけに向けられていたものではなかった。自分と……晴高に対しても、かなり執拗に向けられている事に、兵庫は気付いていた。
だが、兵庫には興味がなかった。
上島がどうして白河に食って掛かるのか、そして自分達に敵対心を抱いているのか、兵庫にはそれが……何となくわかっていたから。
身分、そういう事なのだと思う。
白河と上島は、兵庫に言わせれば〝いいトコのお坊ちゃん〟だった。それなりに地位も名誉もある家に生まれ育ってきた。上島はどこぞの大臣の補佐をやった奴の息子だし、白河も、国鉄の役員関係者の家だったはずだ。
対し、晴高も兵庫も身分もクソもない〝一般人〟だ。そこらの雑草と同じように育ってきた。社交界も赤じゅうたんも知らない代わり、草っぱらで泥まみれになって走ってきた。
上島にしてみれば、そんな〝下賎な輩〟と一緒の扱いを受ける事に、果てしなく抵抗があったのだろう。
奴の口癖は今でも覚えている。「俺は上に行く者だ」
「……」
兵庫は苦々しく笑った。そして、その瞳に怒りをにじませた。
(お前もあいつと一緒なのかよ……白河?)
白河……その名を思い出すたびに、兵庫の心は怒りに燃え、そして哀しみに揺れる。
(ともかく、もっと早く知らせていれば……)
兵庫がここに倒れ込む数時間前、彼は、『日嵩』の作戦が空振りに終わった事、そして派遣されていた『湊』の隊が行方不明になったという事を聞いた。
だが、もしも上島と【天賦】がつながっているとしたら。兵庫には確信があった、瑛己達は生きている。
なぜなら―――無凱の狙いは、〝空の欠片〟。
橋爪に対し、瑛己達の命をカードに使う可能性は、充分に考えられる。
(だが、橋爪はそれに答えない)
だから、兵庫は慌てて白河に手紙を書いた。
捕らえられているとしたら、場所から考えて、間違いなく『白雀』。
白河、頼む、早く―――。
兵庫は胸の奥でそう叫びながら、目を閉じた。
その目元には、厳しいしわが寄っていた。
―――その時だった。
コンコンと、部屋の戸が叩かれる音がした。
兵庫は目を閉じたまま動かなかった。
しばらく黙っていると、再び音がする。
ようやく兵庫は薄目を開けた。「……誰だ?」
こんな時間に誰だろうか? 夜半を過ぎている……宿の者だろうか? 色々と世話を焼いてくれるのはありがたいが、少し煩わしい事がある。
だが、帰ってきた声は。
「兵庫……?」
一瞬、それが誰だかわからなかった。
だが、次の瞬間、兵庫は顔を上げた。
「誰……」
「兵庫」
―――まさか。
おい、待て。まさかそんな。
か細い、女の声。
兵庫は慌てて起き上がろうとした。その時、戸が開いた。
その双眸に飛び込んできたのは、よく知った女。
ここにいるはずのない、夢でしか……会えない女性。
「兵庫!」
海月、と兵庫は言おうとして。
次の瞬間、その頭は海月の腕の中にあった。
「お、おい」
戸惑うのも忘れるほど、強く、抱きしめられる。
「兵庫っ……」
「海月」
素のままの髪が、流れて兵庫に降りかかる。
いいにおいがする。
「ど、して」
言いかけた兵庫は、海月の肩越しに彼の姿を見た。
「お前は、瑛己んトコの……」
「風迫 ジンです」
白河のヤロ……兵庫は大きく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「どういうこったよ」
兵庫は足を組みながら、仏頂面でそう訊いた。
突き当たりにある談話室のような所だった。兵庫は雑把に自販機で珈琲を買うと、おもむろにあおった。
ジンは無言で少し離れた椅子に腰掛けた。
「それを訊いて来いと言われました」
兵庫はチラとジンを見た。「お前……無事だったのか」
ジンは彼を見もせず苦笑だけ浮べると、小さく頷いた。
「悪運は、強い方で」
「……」
「あなたは、ひょっとして俺の事も」
「……噂だけはな」
「そうですか……。俺も、あなたの噂だけは」
今度は兵庫が苦笑する番だった。
「じゃぁ、何もわざわざ聞きにくる必要、ないんじゃないかい?」
ジンはそれに答えなかった。ただ、「総監の命令です」と言い、兵庫を見た。
「総監が、とても心配していた」
「……そうか。で、奴は手紙を読んだのか?」
「俺が基地を出る直前に、『蒼光』へ向かった」
「橋爪か……馬鹿な。行った所で時間の無駄だっつーのに」
何であいつはそれがわからないんだ? 兵庫は缶を潰すように握り締めた。
「しかし、白河総監は独断で動けるような人じゃない」
わかってるさ、そんな事は。昔から、あいつは何一つ変わらない。
……俺がどんだけ汚れても、あいつは、白いままだ。
「その傷は、」とジンが言った。
兵庫は面倒臭そうに自分の腕や足を見ると、「労働災害っつー奴」ふっと笑った。
「あなたのやろうとしている事が、どれほど危険な事か、あんた……わかってるのか?」
「……何が?」
そう言いながらも、兵庫はおや? と思って苦笑した。
「お前さんが気にするような事じゃぁないよ。お前は空だけ飛んでりゃそれでいいんだよ」
「……」
「悪く取るなよ? ただ、お前が知る必要はない事だよ。背負う必要もな。磐木にも言っておけ。お前らはまだ、空の広さと美しさだけ知っていればいいんだ。飛ぶ事を楽しんでりゃそれでいいんだよ」
「……」
「こういうのはな、俺みたいなのに任せておけばいいんだよ。お前だって、せっかく日の当たる所に出れたんじゃねーか。わざわざ、闇に戻るような事するんじゃねーよ。お前が選んだのは、そっちなんだろ?」
「……」
「白河に伝えてくれ。俺の事は気にするな。自分がしたいからそうしているだけだ。誰の……ためでも、所為でもない」
お前の所為ではない。
そして……晴高のためでもない。
ただ、自分だけの問題。
そして、決意。
―――それで例え、この命が尽きる事になっても。
どうしても、やらなければいけない事があった。
それはただ、自分自身の。
意志。
「……伝えておきます」
「すまんな、わざわざこんなトコまできてもらったのに。ロクな事言えなくて」
「いえ」
「お前ひょっとして、基地に戻ったばっかじゃないのか? 今日はゆっくりしてけ。明日、……あいつを連れて、帰ってくれ」
ジンはピクリと兵庫を見た。兵庫は苦々しく缶の縁を見た。
「あの人が、自分で、行くと言った」
兵庫の考えている事がわかったように、ジンは呟いた。「白河総監の命令じゃない」
「ともかく、あいつを連れて帰れ。お前は基地にいないと駄目だ」
「あんたは?」
「俺はもうちょっとここにいる。宿のメシは美味いし、医者にもまだじっとしてろって言われてるんでね」
「……」
よっこいしょと、兵庫は立ち上がった。
「おかみに聞いてくる。2つ部屋があいてるか……」
「俺が行く」
それを制するように、ジンが立ち上がった。「あんたは、部屋へ」
「……」
「あの人が待ってる」
「……」
兵庫は眉間にしわを寄せた。そして、溜め息を吐いた。
「……俺が行くから、お前、海月に話してくんない?」
「断る」
「……ジンちゃん、磐木の下についてると、問答無用が移るわよん……?」
兵庫を無視してジンは階段を降りていった。
残された彼は、頭を抱えた。
そして一度天井を仰ぎ、息を吸い込んだ。