『秀一(dreamer)』
これは、夢だ。
そう思い、秀一は目を開けた。
「―――」
最初に見えたのは、操縦桿を握りしめる自分の両手。
目の端に、ゴーグルの縁が見える。
飛空艇……? そう思った刹那、機体を、恐ろしいほどの風が殴りつけてきた。
ナンダコレハ?
台風の真っ只中を飛んでいるかのような感触。
嵐の中なのか? 思うように操縦できない。
「……くッ!?」
底を突き破るくらいにアクセルを踏み込む。操縦桿がひどく重い。
視界が暗い。
これは一体……秀一は、流れる汗を雑把にぬぐった。
そして、空を仰いだその瞬間。
「―――ッッ!!?」
そこにある光景に、秀一は、言葉を失った。
刹那。
ドドドドドド
まさか、銃声?
こんな空で。
ガツンガツンッッ
機体が揺れるのが、嵐のためなのかそれとも被弾したためなのか、もはや、わからない。
コンナ、
意識が溶けていく。
コンナ現実ガ。
もう一度、秀一は空を振り返った。
ポツリポツリと、何かが空から降っている。
まるでそれは、雨のような。
空が、割れた、欠片。
〝空の果て〟が、そこにあった。
◇ ◇ ◇
13
その時白河の胸を駆けたのは、光であり、闇であった。
泣きたいほどの喜びと、同時に、つんざくほどの深い深い哀しみ。
そして、胸を焦がす……焼け付くような、この感情は。
白河は拳を握り締めた。そしてゆっくりと目を閉じた。
そして再びゆっくりと目を開けると。
目の前に並ぶ磐木達に向けて、深く、頷いた。
そして、
「すまん」
それが、今回のあらましを聞いた『湊』第23空軍基地総監・白河 元康の第一声であった。
◇ ◇ ◇
瑛己が磐木達と合流したのは、セピアの飛空艇が飛び立って間もなくの事だった。
空から現れた、濃紺色の飛空艇……それは、来の『フェルカド』であった。
新の話によれば、3人の帰りを待っていた所に、その男は現れたのだという。
銃声を聞きつけ、『白雀』へ向かおうとする彼らに、その黒いサングラスの男はニヤリと笑みを浮べ。
「先に飛んでろ」
直感的に何かを感じた新は、磐木達の反対を押し切り、エンジンペダルを踏み込んだ。
そして飛んでいた所、セピアの飛空艇……そして、そこにぶら下がる瑛己達を見つけ、追いかけてきたのだと言った。
それから、来が運転を代わり、瑛己達はそのまま『湊』へと向かった。
ほとんど無言のままたどり着いた『湊』空軍基地。
だが、彼らを迎えてくれたのは……喧騒の嵐。
喝采と涙と、歓喜。思ってみなかったほどの『湊』の歓迎振りに、瑛己達は目を白黒させた。
そして、すぐに現れた担架をピシャリと制したのは、磐木だった。
「総監にお話が」
動く事もままならないような飛でさえ、人の手を借り、そこへ向かった。
白河が留守だと聞けば、そのまま待った。
そして……彼らの帰還の報告を受け、慌てて戻ってきた白河は。
磐木を見るなり、無言で抱きしめた。
そして瑛己達一人一人を腕に抱き。
男泣きに、涙をこぼしたのであった。
◇ ◇ ◇
「事の発端は、我々にも責任があります」
そう言って頭を下げたのは、本上 来であった。
来と昴。その2人もそこに、席を同じくしていた。
「月の初め頃、妹に仕事の依頼がありました。それは……今回の一件、あなた方と共に飛び、その足を砕く事」
来の隣で、昴が明後日を睨みつけていた。
「そしてその依頼を受け、妹は飛んだ。そしてあなた方を撃った」
「……」
申し訳ない。そう言って、来は深く頭を下げた。それにその場は静まり返った。
「どうか顔を」
白河は、嘆息のように言った。そして、「お訊きしたい」
「依頼主は」
「……」
「……」
昴はチラリと来を見た。
来はゆっくりと一度瞬きをした。そして、
「『日嵩』総監・上島 昌兵(ueshima_syouhei)」
静かだが、強い眼差しで彼はそう言った。
「本来、依頼主の事を語るのはタブーです。ですが今回は、私たちも少々相手を甘く見すぎていた」
「……」
「昴は、あなた方を撃った。そしてそこに【天賦】は現れた。そして彼らはあなた方を墜とすと……最後に昴を囲み、攻撃を仕掛けてきたのです」
それに、327飛空隊の面々は訝しげに顔を上げた。
「どういう事だ、それは……」
「狙いはあなた方と昴、両方だったと考えられます」
何機もの【天賦】によって囲まれた昴は、必死に逃げるも、撃墜される。
パラシュートで飛び出した彼女に、なおも【天賦】は銃口を向けた。
だがそれを間一髪救ったのは、来だった。
「昴を拾い、聖君を助け……だがそれが限界でした。逃るので精一杯だった」
「では、上島君の狙いは」
「327飛空隊を撃墜する事。そして、昴の命」
「……」
ハンと、昴はそっぽを向いた。それは怒っているようにも、興味がなさそうにも、どちらにも見えた。
その場にいた全員の顔に、複雑な色が灯った。飛は、無言で目を閉じた。
そんな彼らを見るともなく見て、白河が、静かに口を開いた。
「君たちが受けた依頼の事は、もう何も言わない。だが……磐木達を救ってくれた事、心から感謝する。本当にありがとう」
そして、手を出したのである。
来は何と言っていいかわからなかった。白河を見つめた。
そんな来に、彼は穏やかに微笑みを浮べた。
その顔は、あまりにも強く、優しくて。
「ありがとう」
そのまま肩を抱いた白河に。来は、自分がまだまだ小さいのだという事を知った。
「しかし……どうすんスか? これから」
軽い口調で新は磐木と白河を見た。
「そういえば……こういう時、本領発揮するはずの小暮ちゃんは? ジンさんと、秀一は……」
秀一。
その言葉に顔を上げたのは、飛。
「総監、秀は……ッ!?」
瑛己の眉間にもしわが寄る。
恐らく全員が見ている。黒い煙と、紅蓮の炎……あの谷で最初に、斜めに墜ちていった蒼い飛空艇を。
秀一の、その姿を。
そしてパラシュートを見た者は、誰もいなかった。
白河は黙っていた。その顔には、何かを言おうとしているも、何から話したらいいのかわからない……そんな複雑な色が濃く出ていた。
そして。
「風迫君と、相楽君は、生きている」
「―――」
「昨日の早朝、『音羽』基地を経由して、帰還した」
「秀は、秀は、じゃぁ、無事やったんですか!?」
関を切ったように、飛が身を乗り出した。その目には、涙がにじんでいた。
「墜ちた所を、どうにか風迫君が助けたらしい。その風迫君は、今、私の用事で出てもらっている。相良君は……医務室にいるはずだ」
「せやったら、俺」
瑛己は飛に肩を貸した。そして立ち上がろうとした途端。
「待ちなさい」
白河が制した。
その顔は、ひどく、暗い。
瑛己は眉を寄せた。
「最悪の状態から、一命は取り留めたが」
ドクン。
その言葉が、秀一の様態を告げている。
命……?
「だが……まだ意識は戻っていない」
「総監?」
「佐脇先生は……意識が戻る可能性は50%だと言っている」
「それは」
「相楽君は頭部に」
「―――」
飛が、瑛己の腕を、振り払った。
「飛ッッ!!」
その体で。走り出した彼を。
誰も、止められなかった。止めようとしなかった。
瑛己は慌て、その背中を追いかけた。
薄暗い廊下が、痛いくらいにシンと静まり返っていた。
「秀一」
医務室のドアを、飛は蹴るように開けた。
そして彼はそのまま、動けなくなった。
その肩越しに、瑛己は中を見た。
そして。瑛己もそこに立ちすくんだ。
見慣れたはずの医務室にあったのは……様々な、機械。
ピッ、ピッ、ピッ……と鳴り続ける何か。
白い線が、不規則な波を描く何か。
わからない数字を常に刻む何か。
1つ2つではない、点滴は何?
そしてその、機械に囲まれているのは。
「……お前」
その寝台で横たわっているのは。
「お前、何しとんのや、そんなトコで」
その頭を包帯でグルグル巻きにされ、真っ白の顔をして、死んだように眠っているのは。
「秀一ッッ……!!」
いつもどんな時も、ニコニコと笑っていて。飛の後ろを駆けていた、あの少年だった。
◇ ◇ ◇
「ん」
瑛己は喉だけで言って、飛に缶珈琲を渡した。
飛はそれを無言で受け取った。
自販機から、ガタガタともう1本こぼれ出す。
それを、膝を折って取リ出す。と、タブを開けずに手の中で転がした。
飛は無言で、食堂のガラスの向こうに映る、夕焼け空を見ていた。
瑛己もしばらく同じように眺めていたが、やがて、珈琲をグイと飲んだ。
添え木された左腕が、少し煩わしい。
飛も全身に包帯が巻かれている。その上から上着を、袖を通さず肩だけに引っ掛けていた。
松葉杖が隣のテーブルの椅子に、捨てられたように立てかけてある。
「……」
―――秀一は、撃墜された時、頭を強く打った。
体の怪我は、大した事はない。致命傷となるほどのものはなかった。
だが、―――心が。
「……」
何しとんのや、おまん、そんなトコで!! 早よ起きんか、馬鹿ヤロ!!
そう言って、寝台に掴みかかっていく飛を。瑛己は佐脇先生と一緒に押さえ込んだ。
秀一ッッ……!! 馬鹿ヤロ、馬鹿ヤロッ……!!
「……」
後から駆けつけてきた磐木だったか誰だったかに、瑛己はそれを聞いた。
秀一には特殊な力がある。
〝予言屋〟そんなふうに呼ばれるその力。未来を見てしまうというその力を……聞きつけた、軍の研究組織が。秀一の身柄の引渡しを求めているのだという。
それを白河は断固として撥ね付けている。
「飲めよ」
簡単に、大丈夫だとは言えなかった。
あんな秀一を見た後では。そして、こんな飛を目の前にして。
その言葉が救いにならない事が、瑛己にはわかっていた。
だから言えなかった。
そして、言わなかった。
「……あいつが」
珈琲缶を握り締め、飛は、小さく口を開いた。
「あいつが、俺より先に死ぬ、ワケがないんや」
「……」
夕陽を見つめるその瞳には、果たして今、一体何が映っているのだろうか?
瑛己はその横顔に、いつかの自分を重ねた。
「……絶対こんな、あるはずがない……こんな、こんな」
「……」
両手で、珈琲缶を包むようにして。飛はガクリと項垂れた。
そして。
「秀一は、見とんのや……俺が死ぬ、その様を」
瑛己は飛の横顔を見た。
夕焼けに染まる飛の横顔は、どこか遠くて。
そこにいるのに。手を伸ばしても、届かないような……そんな錯覚に捕われた。
◇ ◇ ◇
「あいつが俺の家の傍に越してきたんは、まだこんなちっこいガキの頃やった」
ポツリポツリと飛は口を開いた。
「あいつの父ちゃんは医者でな。越してくる前は、どこぞのデカイ病院におったって話や。何思ったか知らんけど、あんな小さい町に越してきてな。まともな医者がいなかったから、皆、めっちゃ喜んだって、家のジジィが言ってた」
だがそれは、瑛己に語っているというよりも。
「せやけど、そーゆーやっかみがあったんやな……秀は、近所のガキ連中に結構苛められて。あいつ、すぐ泣くし。俺も正直、面倒な奴やと思ってた」
「……」
「家が近いし、ジジィとババァがうるさいし。しゃーないと思って付き合ってやってたんやけども……ある日、あいつの母ちゃんが俺の家に飛び込んできたんや。秀一が、部屋から出てこない。何とかしてくれって」
「……」
「『飛、お前、何かしたのか!!?』ジジィとババァが怒鳴るし。俺、全然心当たりねーし。その前の日、馬鹿連中に絡まれてるトコ助けたくらいなもんで。俺、濡れ衣だし。だけどジジィが殴るし。いい迷惑だ。俺は頭にきて、秀一の部屋に殴り込んだ」
「……」
「したらあいつ、布団引っかぶって泣いてやがる。俺が扉蹴破って入ると、すっげぇビクついてやがるし。ますます容疑が掛かるし。一発殴ってやろうと思って秀一の胸倉掴んだら」
「……」
「あいつ、グチャグチャの顔して俺に言ったんや……『なんで?』って」
「……」
―――飛、死んじゃうの?
「泣きわめく秀一をぶん殴って、洗いざらい白状させた。俺が死ぬトコを見たって……。あいつが時々、変なもんを見る事は知っとった。それが原因で、苛められてるってのも知ってた。けども俺は……んなもん、どうでもよかった」
―――バーカ。
「勝手に未来を決められてたまるか」
―――死なねーよ、阿呆。
「あの日から、俺と秀一の中で何かが変わった……俺は誓った。絶対に秀一より先には死なないと。空で死ねたら本望やと思う。だけど―――俺は、秀一の〝未来〟をブチ壊す。そのために空を飛んでる。そしてあいつが、親父の反対を押し切って医者の道を選ばなかったのは、あいつなりに、〝未来〟と戦うためや」
―――飛は、僕が守る。
「来んなって、どれだけ言ったかわかんねーんやけどな」
「……」
「それなのに……何でこんな事になっちまうんやろ」
「……飛」
「なぁ、瑛己……人の運命って、何やろう……? 生きるって何やろう? 死ぬって……何なんだろう?」
「……」
「秀一は今、夢の中で、何を見てるんやろう……?」
瑛己は答えられなかった。
ただ、空っぽになった珈琲缶のタブを見つめた。
覗く穴の向こうは、真っ暗な闇。
だが瑛己には、光も闇も同じもののように思えた。
最後の光を終えた夕空が、急速に、闇へ姿を変えていく。
その最後の残光を帯びた雲が赤く、そして黒く。
天を2つに分けるように、長く長く伸びていた。