『捕虜(prisoner)』-3-
◇ ◇ ◇
始めて飛空艇に乗ったのは、瑛己がまだ、3歳の時だった。
瑛己はその時の事をよく覚えていない。だが時折母が、とても懐かしそうに語って聞かせてくれた。
作戦の帰り偶然立ち寄った晴高は、咲子に内緒で瑛己を胸に抱き、飛んだ。
町の上をグルリと回り、山を空から臨み、飛ぶ鳥を追いかけて。
陸に戻ると咲子はカンカンで。晴高は苦笑しながら何度も頭を下げた。
だが瑛己は、とてもとても嬉しそうだった。
お父さん、お父さん、ねぇ、乗せて。連れてって……基地に戻る直前まで、晴高の手を掴んで離さなかった。
――今度、また、お母さんに内緒でな。
出立前、晴高は瑛己の頭をクシャクシャにして、いっぱいに抱きしめた。
「……」
瑛己はその時の事を、よく知らない。
記憶があるのは、いつだったか、兵庫と一緒に上がった空。
やはり咲子にはこっそり、古びた複葉機の後ろに乗せてもらった。
『お前のとーちゃんは、空が好きでたまらないんだよ』
その時はただ、凄いと思った。
『んで、お前のかーちゃんは、そんなとーちゃんが好きでたまらないんだよ。ハルも、咲ちゃんが好きでたまんねーのにな。んで、お前が愛しくて仕方がないっつーのに』
空がきれいとか、景色とか、風とか。そんなものを感じる余裕もないくらい。
『お前のとーちゃんは、しこたま、不器用なんだよ。何で人ってのは、好きになればなるほど、不安になるんだろう? 言葉なんかなくたって、全部伝わってるし、わかってんのにな』
必死に歯を食い縛って、振り落とされないように、置いていかれないように、前を見据えていた。
『だけど瑛己、お前は……どんな時も、とーちゃんの事を、信じてやってくれ。じゃなきゃあいつは、帰る場所をなくしちまう。おじちゃんとの約束だ。な?』
《降りるよ》
短い言葉が鳴ったか否かで、飛空艇はクッと頭を下げた。
瑛己はハッと、目を見開いた。
人の飛空艇に乗るというのは、こういうものだっただろうか。高度を下げる夕陽色の機体は、まるで、風の海を斬り込んでいくかのようだった。
普段はこんな事、何とも思わないのに。ふわっと湧いた浮遊感に、背中がゾクリとした。
それは、周りがまだ視界の利かない、夜陰に包まれていたからかもしれない。
暗闇の中でも、目の前に、草原とわかる場所が広がった。
このスピードで着陸するというのか。多少はスピードを落としたものの、まだ、速度は生きている。
だが昴は慣れたものだった。無理な着陸にギアが悲鳴を上げたが、それでも、曲線を描くようにピタリと陸地に飛空艇をつけた。
「昴、足が吹っ飛ぶぞ」後から着陸した来は、操縦席から呆れ顔で昴に言った。
「この間も言っただろ、ギアに負担を掛けすぎだと」
「キュッて言うあの音がいいんよ。何か、走ってきたぞって感じがして」
「いつか命を落としても、俺は知らないからな」
昴の愛機・『アルデバラン』。そして向こうに停まるのは、来が乗ってきた飛空艇、『フェルカド』。
『アルデバラン』は最高2人乗りに対し、『フェルカド』は多人数型飛空艇、大きさが一回り違う。
小型の旅客機のような外観で、操縦席の他に数名が乗員できるようになっていた。
2機はそのままゆっくりと進むと、少し先にあった森に、飛空艇を潜める事にした。
「この森を抜けた先に、『白雀』がある」
瑛己はトンと飛空艇から降りた。痛みは決して、顔に出さない。
包帯の上から、飛空服の上着を羽織っただけの格好であった。だが寒さはない。風には、夏のにおいが混ざり始めている。
来も昴も、確かに黒を基調にした服装だが、普段とあまり変わりなかった。
ただ、昴の腰に光る黒塗りの銃を。瑛己は複雑な思いで見つめた。
3人は無言のまま森を歩いた。
そしてものの5分も経たないうちに、木々は途切れた。
代わりに現れたのは、石畳と。
「ここが……」
地図から消されてしまったという町。
風が、ヒュゥと息を飲むような音を立てた。
瑛己は思った。
ここには、何かの、気配があると。
「――兄者、〝あれ〟を1人置いてきて、よかったわけ?」
タッタッタッタ
下水道に、昴の声が微かに響いた。
だがそれに、来は答えなかった。
昴は「チェッ」と小さく舌を打ち、代わり、走る事に集中した。
「昴」
大分遅れて、来は口を開いた。
「何?」
「もしもの時は、わかってるな?」
「……」
昴は一瞬、眉間にしわを寄せた。そして「わかってるよ」
「俺の事は捨てて」
「わかってるって。聞きたくないよ、そんな話」
「……」
出口が近い。
来はスッと昴の前に出た。
昴はその背中を見て思った。
兄者の背中は、ほんのすぐ、そこにあるというのに。
(なぜか、遠く感じる)
来の背中には、翼がある。そう思う事がある。
それが昴にとって、時折、不安でたまらなくなる事だった。
◇ ◇ ◇
『白雀』に、瑛己は一人、ポツンと立っていた。
ふと空を見上げると、明らかに、先ほどより明るくなっている。
それに少しずつ、町が浮かび上がってくる。
静かだと思った。
手近に転がっていた石に腰をかけ、何を見るともなく、町をグルリと見渡した。
地図から消えた町。
軍が関る、何らかの実験が行われていたという……町。
ここで何があったのだろうか。
だが、来は言っていた。それに、〝空の欠片〟が関っているかもしれないと。
聖石・〝空の欠片〟。
そんな物知らない。初めて聞いた。世界を変える力を持つかもしれない石……歴史に刻まれる混沌の中に、光を放ってきたという石―――正直言って、興味はわかない。
そんな事言われても、よくある物語の中の一つにしか思えない。
だが……それが、〝空の果て〟に関係しているとなれば。
「……」
瑛己は瞼を伏せた。
――ふと。瑛己の脳裏を、あの日の光景が過ぎった。。
『空軍に、行こうと思う』
あれは、飛空学校へ行くと決めた時だった。
瑛己は母の顔を見なかった。見るのが怖かったのかもしれない。
『そう』
咲子は短くそれだけ言って、洗い物を始めた。
そんな母の背中を、瑛己は黙って見ていた。
『母さん』
『自分の空を、行け』
『……』
『父さんの言葉』
『……』
『あんたの好きにしなさい。私が止める理由はない』
『……悪い』
――あれから4年後だった。
どうにか学校を卒業し、『笹川』空軍基地への配属が決まった……そんなある日。
咲子は、空に還った。
「……」
どうやって家に戻ったのか、覚えていない。
瑛己が見たのは、静かに横たわる母の姿。
元々、心臓に病を持っていた。それがここ数年悪化していた……それは後になって知った事だった。
母の口元は、なぜか、笑っているように見えた。それは、瑛己がそう思いたかっただけなのかもしれないが。
「……」
母の事を考えると、瑛己の胸は哀しく痛む。時折、叫び出したい衝動に駆られる。
(父さん……)
父の事を思うようになったのは、母が亡くなってから。
胸の中に渦巻く様々な想いを、すべて、〝父〟という名前に向けようとした。
哀しみと痛み、不安と絶望。
どうして父はいなくなってしまったのだろうかと。
父がいてくれたら母は、……そして自分は。
そんな事考えた所で、何も変わらない事を知っている。
だからこそ―――瑛己は、辛かったのかもしれない。
今目の前にある現実をすべて〝父〟のせいにしてしまえるほど、瑛己はもう、子供ではなかった。
むしろそれができていたら。どれほど楽だっただろうか。
「……」
父は、母と共に生きていた。
そして。
「……」
瑛己は瞼を伏せ、スッと立ち上がった。
――瑛己は父と共に、生きている。
夜明けは刻々と近づいている。
◇ ◇ ◇
階段を5つ跳ばして、昴が宙に舞い上がった。
その気配に、見張りの男は振り返った。
その目に映ったのは、空より迫る昴と、ランプの灯りに照らし出された、笑顔。
刹那、男の側頭を昴の回し蹴りが捕らえた。
宙から繰り出された、渾身の一撃。
諸に入ったそれは、ゴキという、骨の砕ける鈍い音を生み。
男の体は、奇妙な具合に歪み、壁に叩きつけられた。
半分開いたままの瞳には、果たして、何が映ったのか。
だがそんなものもはや興味ないように、昴は「ふぅー」と満足げに息を吐いた。
「昴。もっと慎重に動けないか」
後からゆっくりと階段を降りてきた来が、呆れ顔で、妹の会心の一撃の有様を見下ろした。
「だってー兄者、やっぱ私こーゆーの向かない。肩凝っちゃってさ」
そう言って両肩をグルグル回す昴に、来は苦笑した。
「大体、下水からそのまま【天賦】の地下牢……何か、ここが【天賦】の基地だって実感湧かないよ」
地下の下水は、地下牢の一室に続いていた。
そのような所にこんな道があるというのは、かつてここから脱走した者がいるという事である。
実際、下水から牢に通じる狭い横穴は、手で彫り進められた跡が残っていた。
掛けられていた錠前を来が手早く外し、地下牢の中を音を殺して走った。
「牢屋ばっかだね、ここ」
昴も絶句するほど、走っても走っても鉄格子が続いていた。
「この一帯の地下はすべて、牢獄で埋め尽くされている。ここは、【天賦】の中でも拷問や監禁、処刑を主に行う場所だ。ゆえに別名『地獄の門』と言われている」
「ふーん。どうりで、カビた血の匂いがするわけだ」
だが、昴は大して興味なさそうにペッと舌を出した。
壁に掛けられたランプに、火は灯っていない。この辺りは使われていない証拠である。
来と昴は走った。
不意に、突き当たった階段に、ロウソクは灯されていた。
下へ、下へと。
来は小さく頷いた。2人はそのまま、さらに地下へと向かった。
途中何度か、見張りの男に出くわした。だが相手が気付くか否かで、来か昴のどちらかが床へ沈めていった。
「恐らく、その階段を下に行って、左へ抜けた先に」
その矢先、角にいた見張りを昴が回し蹴りで崩したのである。
「銃は使うな」
途端、男が最後に壁に叩きつけた音を聞いた何人かが、何事かとやってきた。
「わかってるって」
闇に乗じるのは、慣れている。
体勢を低くして昴は走る。
そしてそのまま、スピードと共にその足が虹を描いた。
「ッ!?」
闇から突然現れた衝撃に、駆けつけた男達が声を上げようとするや否や。
来の手刀が、それを斬った。
そして同時に、後ろから現れた者を昴の飛び蹴りが首を斜めに絶ちつけた。
「ゲロ弱。つまんない」
ブチブチ言いながら、トントンとつま先を叩く。
彼女を無視して、来は手近の牢に近づいた。そしておもむろに、その錠前に向かった。
ものの数秒。カチリと小さな音がした。
「早く」
昴は、大きく欠伸をした。
「君は……?」
格子の向こうから低い声が、訝しげに響いた。
「『湊』327隊長・磐木殿とお見受けしましたが」
「……」
「私は本上 来と言います。まずは妹の不始末を詫びます。ともかく話は後で。直に気付かれます」
「何……?」
「助けにきたって言ってんだよ」
昴がスッと来の横を抜け、牢の中へと滑り込んだ。
「ここにはこれだけ?」
そう言って、そこにいる者を見渡す。
「捕われたのは3人だ。いるか?」
「ああ。顔に星があるにーちゃんと……ああこいつか。どいつもこいつも、のん気に寝てやがる」
そう言って、昴はクスリと笑うと。そこに寝転がっていた飛に歩み寄った。
そして。
「起きろ、タコ!」
ドカッと、その頭を蹴飛ばしたのである。
「昴っ!!」
慌てたのは来である。しかし磐木は案外、平然としていた。
「……タタタ……」
意識を取り戻した飛が最初に見たものは。
「グッ・モーニン♪」
怖いほどの笑みを浮べた、本上 昴、その人であった。
◇ ◇ ◇
瑛己は、何を目指すともなくポツリポツリと町を歩いた。
『白雀』。その町並みは、白い石の廃墟という印象だった。
建物は傷み、崩れ、原型を正確にとどめている物はほとんどない。
こうなる以前は一体どんな所だったのだろうか……? 瑛己は脳裏の中で、賑やかに人が行き交う町並みを想像した。
古びた木切れが転がっている。『……亭』、宿だろうか、食堂だろうか? それとももっと違う何かの店だろうか?
瑛己はその看板らしき木切れが落ちていた傍にあった建物に目を向けた。
入口は、放たれたままになっている。
覗いてみる。薄暗い。天井が半分落ちた空間があるだけだった。
そして燃えた跡がある。
「……」
瑛己は店を離れ、再び、歩き出した。
沈黙という時間に守られた町並み。
地図から消されてしまったというその町は。
「……」
爆撃に遭っている。瑛己はそう思った。
白い石畳に時折こびりつく黒い跡。
時間と風だけでは、ここまで町は崩れ落ちない。
ひしゃげたように砕ける建物は。天井から何かを叩き込まれた衝撃を物語っている。
しかし一体、なぜ?
「軍に関る実験、か……」
それが何であれ。
その爆撃の主が、一番消し去りたかったのはここだなと、瑛己は不意に立ち止まった。
そこには、黒い大地が広がっていた。
何かの建物があった形跡はある。だが。
それは、見事なまでに完全に、消え失せていた。
スッポリとそこだけがまるで、別の次元にでも通じているように。
世界から剥ぎ取られていた。
ただただ、黒い大地を残して。
焼けた大地に、何かを刻み込むかのように。
「……」
『白雀』。
一体ここで、何が起こったのだろうか?
吹いた風が何かを呟いたように聞こえたが、瑛己にはそれが、わからなかった。
◇ ◇ ◇
「……妙だ」
来が、ポツリと呟いた。
「何が?」
それに昴が、少し苛立たしげに言った。
昴がご機嫌斜めな理由は、一向にはかどらない脱出の途だった。
来は磐木に手を貸していた。そして新が飛を支え走っていた。
磐木が右足と脇腹を骨折、飛が全身打撲状態。しかし、新だけは無傷だった。
「で? そこを右に行きゃーいいのん?」
そしてなぜか、元気である。
「飛ぃー、もっとチャッキリ歩けよ。ほれほれ、元気出して!」
「……」
飛は無言で、歯をギリと鳴らした。そして顔を上げたその視線の先には、昴がいる。
昴は飛の、殺気を帯びた視線に気付いていた。だからこそ苛つく現状でかろうじて、嘲笑が浮べられるのである。
「静か過ぎる」
そんな中で一人、来は厳しい面差しで辺りの気配を探っていた。
だが、誰もいない。
見張りも、追加の兵も、何も現れない。
ただ、5人の足音だけが闇の中へと消えていく。
「まだ気付かれていないって事?」
チラリと来は、磐木を見た。目が合った。
「……」
磐木の双眸に、来は微かに目で頷いた。そして「ともかく急ぎましょう」と言った。
だが、背中にまとわりついた嫌な予感は、消えてくれそうになかった。
※不定期に誤字修正行います。
2012.7.15.咲→咲子修正 ―仕様修正
2012.5.6.脱字修正