『捕虜(prisoner)』-2-
「やはり、か」
来が、手にしていたヘッドホンをカタリと置いた。
本棚の間に、無数の機械が埋まっている。
そこでしばらく、ヘッドホンを片耳に当て何かを聞き入っていたが。フッと短く息を吐き、立ち上がった。
後ろで一つにされた長い薄茶の髪が、それに合わせてファサと落ちた。
それに合図に、戸口で腕を組んで立っていた昴が動いた。
音もなく窓辺に寄ると、カーテンを、ザッと一気に閉じた。
不意に現れた闇に、瑛己は小さく目を閉じた。
そして深く深く溜め息を吐いたのは―――何を思ってか。
◇ ◇ ◇
「現在地はここだ。〝弓月海〟の端にある小さな島。『日嵩』基地からほぼ南南東に位置する」
ランプの灯りが、どこからともなく吹く風にチチチと揺れた。
テーブルいっぱいに広げられた、薄汚れた地図には、随所に文字や記号が書かれていた。
瑛己はそれをザッと見た。『蒼国』、そして『黒国』……北の王国『ビスタチオ』、さらにその向こう、『ロンデバルデスク』―――聞いた事ない国も幾つかあった。
そんな地図の、中央に書かれた『蒼国』。周りの大きさに比べたら、『湊』など、何と小さなものなのだろう。
瑛己はふと、『湊』から視線を北へと滑らせた。
首都『蒼光』を越え、さらに北に位置する山岳のふもと。
地図に名前すら記されていないそこが、瑛己の故郷だった。
「聖君?」
不意に呼ばれ、瑛己はハッと顔を上げた。
「……それで、隊長達はどこに」
少し慌てたように言うと、来はコクリと頷いた。
「『日嵩』の北、半島の沿いに『白雀』という町がある。その東にある【天賦】第4基地。現在はそこに監禁されている」
「『白雀』」
瑛己は首を傾げた。
確かに、地図にはそう書かれた場所がある。
だが。瑛己はおかしいと思った。
「覚えがない、か?」
瑛己の様子を見て、彼より先に来が言った。
「無理もない。今市場に出回っている物で、『白雀』を記した物は一つもないよ」
「……?」
「この町は数年前に、地図から消されてしまった町なんだ」
「消された……?」
その時、来の目に過ぎった複雑な色を、瑛己は見逃さなかった。
「この町では、国家絡みで軍に関る様々な実験が行われていた。だがある日を境にそれはすべて破棄され、町自体が消滅する事となった。それが、実験の失敗によるものか、逆に成功のためなのか、はっきりした事はわかっていない」
「……」
「だが、今回の磐木君達の拉致にその事は、少なからず関係している」
昴が、「兄者」と咎めるように言った。だがそれに来は小さく首を振った。「いや」
「君達は知るべきだ。特に……聖君、君は」
「一体……」
「さっき、俺はあそこで何を聞いていたと思う?」
問われたそれに、瑛己は眉をしかめた。
「『蒼』の軍上層部が内々に使う電波だ。かなり複雑に暗号化されたものだ、ジャックできても、解読できる者はそうはいないだろう」
「……」
「それによると、【天賦】は3人の命と引き換えに、聖石を出せと言っている」
「聖石?」
「またの名を、〝空の欠片〟。一説に、『白雀』の消滅はそれが原因だと言われている」
瑛己は眉間にしわを寄せた。
「その石には不思議な力があるのだという。詳しい事は俺も知らないが……いわく、世界を変えてしまうほどの力が。その石には秘められているとか―――」
「世界を変える石……?」
ああ、と来は頷いた。その顔は、いつになく厳しかった。
「その起源は、人の歴史と共にある。歴史の裏舞台で、その名は時に書物に記されている……戦争、反乱、剣と剣、銃と銃、そして血と炎の中……その石は、まるで混沌の中に光を放つように、歴史に姿を垣間見せている」
「……」
「その石の存在を知る者は少なくない。だがそれは、おとぎ話の類だと思われ、信じる者は少なかった。……あの時、12年前、あの空にあんなものが現れるまでは」
「……12年前……?」
瑛己の心臓が、ビクンと跳ねた。
「そう……12年前、あの空に、〝果て〟が現れるまでは」
「―――」
「〝空の果て〟、その原因は……聖石・〝空の欠片〟にあると言われている」
ドクン。
〝空の果て〟。
その原因が。父が消えた、その空を。
〝空の欠片〟、そんな物が……?
「聖君、君は知らないかもしれない。だが―――君はかつて1度、その石と共にあった事があるんだ」
「え」
「聖石は様々なルートを経て、今『蒼光』にある。その一つに……、〝獅子の海〟は覚えているか?」
「〝獅子の海〟」
忘れるはずがない。
『湊』へ異動して数日。初めて飛んだ作戦の空。
それが……? 瑛己は訝しげに来を見た。
「君達は、『永瀬』基地から2機の輸送艇の護衛をした。そして〝獅子の海〟を渡り、『明義』へと送り届けた」
「確か積荷は、衣料物資だと……」
「おかしいと思わなかったか? なぜそんな物を狙って、【天賦】が―――まして、総統・無凱が直々に現れたのか」
「……」
「衣料物資の中に、」
―――もっと違う物が積まれていたとしたら?
「無凱の本当の狙いは、」
―――世界を変える力があるのだという。
「まさか」
―――〝空の欠片〟。
それを守って。
「飛んでいた……」
これは一体……瑛己はわけがわからなくなった。
どういう事だ? こんな。
聖石。
【天賦】。
無凱。
捕虜。
磐木達の命。
その向こうにあるのは。
〝空の果て〟。
そして、
―――父さん……!
「……」
こんな。
何がこの空に。この空で。
そしてこの空を。今。
「そして、無凱は『蒼』に―――いや、橋爪に、聖石を出せと言った」
磐木達の命を楯にして。
「だが疑いなく、橋爪がそれに応じる事はない。そして磐木君達は、殺される」
軍部最高統括総司令長官・橋爪 誠。
瑛己は地図を見た。だがその心は別の、違うものを見ていた。
「期日は明日の夕刻。日没と共にタイムリミットだ。動くとしたら、今夜しかない」
「……」
「昴。いいな?」
「……チッ……限りなく気乗りしないけど、兄者の命令なら従うよ」
「ははっ、いい子だ」
「……」
「さて……問題は君だが」
瑛己は顔を上げた。
「兄者、足手まといになるよ」
「自分の体の事は、わかっているな?」
瑛己はコクリと頷いた。
つい先ほど、瑛己はそれを見ている。
胸から腹にかけて、ひどいアザと火傷があった。薬がいいからか、普段はさほどでもないが……時折、燃えるような痛みが走る。
左腕も思うように動かない。
「……」
昴に言われなくとも、ついて行けない自分を知っている。
行った所で、逆に最悪の結果を招くだけだろうと、瑛己はわかっている。
わかっている。
―――なのに。
「その目が、言っている」
来がフッと、苦笑ともつかない笑みを漏らした。
行きたい、と。
瑛己は頭を緩く振った。それでも。
本能が叫んでいる。
行きたいと。
走りたいと。
「……昴、『アル』の後ろに乗せてやれ」
「兄者」
「危険は、元より承知だ」
「……」
「だが聖君、俺も、思う」
まっすぐな目が、瑛己を見ていた。
「確かに君は、ここにいるべきだと思う。今回の事は、君が経験した事のない分野の話だ。俺にも保証はできない。正直、君がいればリスクは大きくなる」
「……」
「だが―――」
なぜだろう? 来は思った。
「君は行かなければならない、そんな気がする」
そして知らなければならない。
その空で、何が起こったのか。
そしてこの先、この世界で何が起ころうとしているのか。
「君は……その目で、見なければならないのかもしれない」
それはひとえに。
聖 晴高の息子がゆえに。
そしてその背中を追いかけて。
この空を、翔けんとするがゆえに。
「兄者、潜入は?」
「『白雀』を使う。あそこには第4基地につながる隠し通路がある。そこから潜入する―――そして聖君、さすがに君をこの先には連れて行けない。そこから先は、俺と昴に任せて欲しい。それでもいいか?」
「……」
瑛己は小さく頷いた。
それに来は笑った。
「心配するな。空を飛ぶだけが、俺達の仕事じゃない」
「あたし的には、徹底的に気乗りがしないし、陸は性分じゃないんだけど」
「こいつはこう言っているが、銃の扱いは俺より慣れている。そこらの軍人よりはよほど使うだろう」
「って、仕込んだのは兄者じゃないか!」
「……すまない」
瑛己はゆっくりと頭を下げた。なぜか、下げたいと思った。
それに昴はハンとそっぽを向いた。
「勘違いするな。あんたのために飛ぶんじゃない。あたしのプライドのためだ」
「……」
瑛己は少し嫌そうに顔をしかめたが、最後には苦笑を浮べた。
「ともかく」来は大きくそう言って、前髪を掻き上げた。
「出立は、深夜。夜明けと同時に作戦終了としよう」
昴がワザと大きく溜め息を吐いた。だがそれ以上何も言わず立ち上がると、勢いよくカーテンを解き放った。
今後は陽射しが、目にしみた。
瑛己は2、3度瞬きをし、そして窓越しに映る空を見上げた。
太陽を覆い隠すものは何もない、蒼いばかりの空だった。
(父さん……)
そっと呟いたその声はどこへ消えて行くのだろうか……ふと、そんな事を思った。
そして。
後に、このフライトは、瑛己にとって重要な意味を持つ事となる。
だがそれはもう少し先の話である。
◇ ◇ ◇
石畳に、己の印を刻み込むようなその足音に、磐木は薄らと目を開けた。
窓一つない、格子の檻の中。
ランプの灯りでは、ここに巣食う闇は照らしきれていない。
傍らに、飛がいる。
あれからずっと、気を失っている。それが、磐木には丁度よかった。
事が終わるまで、どうか目を覚まさないで欲しいと願う。
それが例え、どのような形であれ。
靴音が目の前で止まった。
代わり、鉄の格子の向こう闇の中に、巨大な人影が現れた。
顔はよく見えない。だがそれが誰なのか、磐木はすぐにわかった。
「どうだ、心地は」
空気を震わすような、声だった。
磐木は唇を噛みしめた。そして、音を殺して唾を飲み込んだ。
「無凱……!」
【天賦】総統・無凱。
その男はニィと笑うと、鋭く睨む磐木を見下ろし、山のように声を轟かせた。
「久しいな、磐木」
「……」
「こうして会うのは、いつ振りか」
「……」
「生きて再び見えた事を、嬉しく思うぞ」
冗談じゃないと、磐木は内心拳を握った。
「答えろ」
磐木は一層強く、無凱を睨んだ。
「何をだ? 我がお前を助けた事か?」
「違う。俺の命を、誰と何の、取引にしているかだ」
「ふははは!」
磐木とて、馬鹿ではない。
自分がなぜここにいるのか……こんな手の込んだ事をされているのか、その察しはつく。
人質。それ以外に、自分が生かされている理由はない。捕らえられた理由などない。
だがそうなると、相手は誰か。
ただ1人しか、思い浮かばない。
「相手は橋爪総司令か」
磐木の命が天秤で価値を持つとすれば、それは『蒼国』。
そして交渉相手は必然、軍で最高の地位を持つ者となるだろう。
橋爪 誠……、磐木は明らかに嫌悪の顔を浮べた。
そしてその頬を、一筋の汗が流れた。
「偉くなったものだな、彼奴も」
「……」
「あのような事がなければ、よもや、お前の敬愛する聖が、そこに立っていてもおかしくないものを」
「……」
馬鹿な。そう磐木は吐き捨てた。
「聖隊長は、そんな事望まん」
「ふふ、然り」
さも可笑しそうに無凱は笑った。それにランプが、ユラリユラリと激しく揺れた。
「聖 晴高……懐かしい名だ」
「……」
「すべては遠い彼方。されどそれは、すぐそこにある光景。一度目を閉じれば、我はあの空に帰れそうな気さえする」
磐木は訝しげに目を細めた。
「磐木、あの空を覚えているか?」
「……」
「俺とお前、聖と袂を別った最後の空だ」
「……」
「我にとって、あれほど甘美な空は、後にも先にも存在せぬ」
甘美?
小さなランプの光が、磐木の目の中に灯った。
「俺は聖隊長を」
そう言って磐木はゆっくりと立ち上がった。
「生涯賭けて、守り続ける」
「聖を守る?」
「俺にとって隊長との最後の約束は、絶対のものだ」
「それが、お前がこの空にある理由か」
「そうだ」
一際、無凱は大きく笑った。
「お前は変わらぬ」
それがいい事か悪い事か、磐木はもうその答えを知っている。
「『七ツ』―――あの時命を賭した、聖の遺言のなれ果てか」
「……」
「磐木、お前はその遺言に、己の命を捧げるか」
それに磐木はフッと唇の端を釣り上げた。「愚問だ」
「元より、あの空で覚悟は決まっている」
「ふははは! 小気味良い」
「無凱、貴様の狙いは何だ」
ピタリと無凱を見つめ、磐木は格子の手前に歩み出た。
「俺達を殺すために生かして、何を目論む?」
すると無凱はクククと低く笑い、スッと手を出した。「この手」
「あの折、聖によってもぎ取られた。この足もだ」
「……」
「我の体の半分は、もはや痛みを感じぬ。だがこの心とて同じ事―――我の願いは、お前と相対し、また、事同じくする」
「……」
「どの道、長居はさせぬ。神にでも願っている事だ」
「……」
無凱はもう一度ニッと笑うと、格子に背を向けた。
その背中に磐木は「おい」と声を掛けた。
「空の七つ星、7番目の星が、何と呼ばれているか知っているか?」
無凱はゆっくりと振り返った。
「破軍星」
「……何が言いたい」
だがそれに磐木は何も答えなかった。
しばらくの沈黙の後、無凱はフンと鼻を鳴らし、歩き出した。
磐木はその背を見るともなくそこに立ち、そして、ゆっくりと目を閉じた。
「祈る神など、おらん」
だが祈るとすれば。
磐木にとってそれは、ただ一人の顔。
(隊長……)
その顔と、7番目の星が、重なって見えた。