『捕虜(prisoner)』-1-
―――まるでそれは、雷雲の中を飛んでいるようだった。
『……ッッ』
舵がきかない。
飛空艇はもう、もっていかれている。
『……クソッ』
視界を、闇と光が交差する。
何かの残骸が、激しく機体の腹にぶち当たる。
だが、音はない。
機体が大きくバウンドする。叫んだはずだった。だがその声が掻き消えてしまう。
何かの大きな力によって。
抗う事のできない、絶対の、力によって。
『……ッ』
闇と光が交差する。
行く先はわかっている。
―――男の目から、涙がこぼれた。
だがそれも、荒れ狂う風によって吹き飛ばされた。
◇ ◇ ◇
夢と現の狭間の中で。
―――どうして、兄者!?
瑛己はその声を聞いた。
―――命の借りを返せるのは、命だけなんだよ。
静かだが強いその声に、瑛己はなぜか安堵した。
そして再び、眠りについた。
次に気がついた時、瑛己は寝台の上にいた。
そして、何を考えるともなくぼんやりと、汚れた天井を見つめていると。
「やっとお目覚めか」
皮肉げな、少年のような声がした。
その声には聞き覚えがあった……瑛己は時間をかけて、声のする方へ顔を向けた。
「兄者、気が付いたよ」
寝台の上から、不機嫌そうに自分を見下ろすその顔は。
本上 昴―――止まっていた思考回路が急激に動き出す。
色々な事が一瞬にして、瑛己の頭に洪水のようにしてなだれ込んだ。瑛己は慌てて起き上がろうともがいた。
そんな彼を、スッと制した者がいた。
「無理するな。まだ傷に障る」
「ッ」
彼を止めたのは、静かな瞳。
それは、深い深い海のような碧。
「聖 瑛己君、だね?」
穏やかなその声は、どこかで聞いた事があると思った。
「……あんたは」
「俺の名は、本上 来(rai)。妹の無礼を詫びる」
「……」
妹……? 瑛己はゆっくりと瞬きをした。
12
「君を助けるだけで、精一杯だった」
「……」
瑛己は寝台の背にもたれ、柔らかに揺れる白いカーテンを見ていた。
額に違和感があった。そっと触れると、何かがグルグルと巻かれているようだった。
それは、瑛己の体も同様だった。白いサラシが胸から腰にかけて、幾重にも巻きつけられていた。
あの時の傷か……起き上がる時痛んだ。傷は、かすり傷程度のものではないだろう。
瑛己は心の中で眉をしかめた。だが、表には一切出さなかった。
「なぜ」
尋ねたのは、そんな短い言葉だった。
それに、来と名乗ったその男は小さく息を吐き、静かな口調で話し始めた。
「俺があの場所に着いた時、すべてが始まり、終わろうとしていた。青い鳥は煙を上げて谷に吸い込まれていった。そして空から【天賦】と、無凱が現れた」
「……」
「もう気付いているかもしれないが、妹が受けた本当の仕事は、君たちをかく乱する事だった」
チラと入口の脇を見ると、そこに昴が、腕を組んで明後日を見ていた。不機嫌に眉間を寄せる彼女は、苛立たしげに舌を打った。
「かく乱……」
「墜とす事、そう言い換えても構わない」
「……」
「許してやってくれとは言わない。だが妹も、【天賦】が出てくるとまでは聞いていなかった」
「ハンっ、冗談じゃないよ」
「昴」
「【天賦】が出張るなんて聞いてたら、あたしはあんな仕事受けなかった。誰が好んで無凱なんかに手を貸すか!! あんのクソ親父……!」
『日嵩』の上島総監か……瑛己はそっと眉を寄せた。
「……皆は」
「まだ公にはなっていないが」そう言葉を濁し、来は声を落として言った。「数名が、【天賦】に拉致されたと思われる」
「……」
「生死はわからない、それが何人なのかも。俺も、君を拾うのがやっとだった。それ以上の余裕はなかった……すまない」
「……」
瑛己は来を見た。
「なぜ、俺を助けた」
「……」
「……」
「……馬鹿な妹の尻拭い、じゃ駄目か?」
「……」
来はふっと、苦笑した。
「そうだな……もしもそれに理由があるとしたら。君の父さんに借りがある、そんな所かな」
「……?」
「12年前、聖 晴高に助けられなかったら、俺はもうあそこから……、二度と、戻る事はできなかっただろう」
「12年前……?」
心臓が。トクンと跳ねた。
来は瑛己を見た。その顔には、なんとも言いがたい不思議な色が浮かんでいた。
その目が、瑛己は哀しいと思った。
「12年前―――俗に言う〝空の果て〟で」
哀しいと思った。
◇ ◇ ◇
(〝空の果て〟か……)
瑛己は目を閉じ、闇の中でポツリと思った。
つい先日書店で見つけた本、そこにはこう書かれていた。
―――〝空の果て〟とは、この世界の矛盾、そして我々の心にある埋めようにも埋められない〝最後の欠片〟の象徴なのかもしれない。
12年前。
通称〝零地区〟―――どの国にも属さない、規定海里の穴とも言えるその場所で。
それは唐突に、何の前触れもなく。
空に、空を越えるものが、現れた。
その空から生還できたのは僅か数名。
その中に、瑛己の父の親友である、原田 兵庫と。瑛己が所属する『湊』基地第327飛空隊、隊長・磐木 徹志が含まれるが。
父・聖 晴高はその日以来、消息を絶った。
「……」
兵庫は言っていた。最後に見た晴高は、笑っていたと。
『生きろ』
地獄のような空で、その言葉だけを残して。
(父さん……)
父はどこへ行ったのだろうか。それは、瑛己にとってずっと胸に引っかかっていた事なのかもしれない。
そして、〝空の果て〟とは、何なのか。
だが『〝空の果て〟に関する研究書』を読んでみても、結局、はっきりとした事は何一つ書かれていなかった。
ただ……一つだけ言える事は。
それはそこにあった。
夢や幻ではない。
空は確かに裂け。巨大な口を開け。
父はその空に、消えて行った。
(……そして)
自分はその父の背中を、追いかけている。
ずっと、そんな事認めたくなかった。
空軍に入った理由もただ漠然と、母が望んでいるような気がしたから……そして、〝空の果て〟について知りたいから……それだけでその道を選んだ。
父の事など、関係ないと思っていた。
自分は父の顔もよく知らない。基地に行ったきりで、あまり家に戻らなかった。遊んでもらった記憶もなければ、話した記憶も曖昧だ。
そういう記憶はむしろ、兵庫の方が深い。
だから、瑛己はどこかで、父の事を憎んでいた。……憎もうとしてきた。
(けれど)
瑛己は気付いた。
自分は父の背中を追いかけていると。
父を求めて、飛んでいるのだと。
自分が飛ぶそのワケは。
(―――会いたいのか……?)
その空に、その面影を、探しているのかもしれない。
その夜中、眠れないまま目を閉じていると、来が「聖君」と少し慌てた様子で部屋に入ってきた。
「【天賦】に捕らえられたのは3人。そのうちに、隊長の磐木君も含まれている」
「……」
瑛己は何も言わなかった。
拉致された3人の安否も、残る3人の消息も。
そして今自分が置かれた状況も……あまりにも考える事が多すぎて。そして、目まぐるしく色々な事が起きすぎた。
瑛己はただ、眠りたいと思った。
睡魔でも悪魔でも何でもいい。この焦りと哀しみを埋めてくれと願った。
腹の傷が、チリチリと痛んだ。
◇ ◇ ◇
ふぅ……と、瑛己は長く長く息を吐いた。
窓から望む空は、薄いピンクに色づいている。
太陽は、じきに地平線から顔を出し、今日もまた世界を光で照らすのだろう。
瑛己は軽く首を振り、ゆっくりと寝台から降りた。
「……」
傍にたたまれていた飛空服の上着を掴むと、肩に引っ掛けた。
それだけの行為に胸がズキリと戦慄いたが、瑛己にとってそれは、ほんの些細な事に過ぎないような気がした。
そして、静かに家を出た。
思ったよりも普通に歩ける事に瑛己の表情が小さくほころんだ。
吹く風には、濃い草のにおいがする。
懐かしいと思った。そんな時だった。
「どこ行く気?」
「……」
風にそよぐ草以外、静まり返った朝の世界の中で。
その声は場違いなほどに、鋭利なもののように思えた。
「朝っぱらから何ゴソゴソしてんのかと思ったら。あんた、そのナリで、どこに行こうっていうの?」
「……」
「まさか、捕まった仲間を助けに行く―――とか言うんじゃないよね?」
「……」
ハハハと、昴は笑った。
瑛己は彼女を振り返りもせず、そっと瞼を伏せた。
助けに行く……? 助けたい……? よくわからない。
(だけど……)
【天賦】に、磐木達が捕らえられている。
それを聞いて、瑛己は、心が、よくわからなくなった。
ただ、じっとしていられないと思った。
動かなければいけないと思った。
何をするとかしたいとか、そんな問題よりも。
動かなければいけない。
走り出さなければいけない。
それだけが無意識に、瑛己の心を占めていた。
そこには正義感も使命感もなかった。
ただ動きたい―――。
「あんた、奴らがどこに捕まってるのか知ってるの? 大体、ここがどこだかわかってるの? そしてどうやって、【天賦】の根城まで行く気なわけ?」
「……」
「兄者、こいつ馬鹿だ。さっさと海に捨ててしまおう」
「……」
瑛己は眉をしかめた。そして、ゆっくりと振り返った。
簡素な建物の脇に、昴と来が立っていた。
来は軽く腕を組んで、難しい顔で瑛己を見ていた。
瑛己も来を見た。まっすぐに、来を見た。
そこには何の曇りも迷いもない。
その瞳に来は一瞬息をのんだ。
そして瑛己の背中の向こう、はるか東の地平線の彼方から、眩いばかりの光が溢れ出した。
一瞬くらんだ脳裏を打ち消すように、来は静かに瞬きをした。そして、
「その体では無理だと言っても、聞きそうにないな」
「……」
「磐木君たちが捕らえられているのは、【天賦】の4番目の基地、『白雀』の東だ」
「兄者……?」
「昴、『アルデバラン』は出せるか?」
「……、いつでも飛べるけど、」
「そうか」
小さく頷き、来は瑛己に向かって歩き出した。
瑛己は動かなかった。
瑛己の前までくると、来は微かに微笑み、言った。
「聖君。体に障る、家に入りなさい。朝の仕度をしよう。話はそれからだ」
「……あんた」
「手を貸すと言っているんだよ」
「……」
「兄者ッッ!!」
「昴。お前だってこのままでは、腹の虫が収まらないだろう」
「……そりゃ……、だけどッ」
「ふっ。無凱にいいようにコケにされて、黙ってられないよな、お前だって」
「んな事……グゥ、兄者ぁ」
「ははは。ともかく飯にしよう。聖君。心配するな」
そう言って来は瑛己の肩をポンと叩き、家の中へと戻って行った。
「チクショー」
残された昴は悔しそうに顔を歪めると、キッと瑛己を睨んだ。
「お前は、あたしらの捕虜なんだ、それを忘れるな」
言い捨て、地面を蹴るようにして来の後を追った。
瑛己は彼女を見送り、そして深く深く溜め息を吐いた。
「……運命の女神呪いは、まだ続いているのか……」
瑛己は太陽を振り返った。
そして、腹が減ったと思った。