『傭兵(subaru)』-3-
―――本上 昴
この空を翔ける様々な飛空艇乗りの中で、その名を持つ者は、別にこう呼ばれる事がある。
〝傭兵・スバル。
「あれは、3年前の冬や」
飛は目を細め、険しい顔つきのまま夜空を睨んでいた。
「何とかっつーお偉いさんが、空賊に狙われた事があった」
「……国鉄の、渡来会長襲撃事件か……」
明後日を見ながら言う小暮に、飛は片眉を上げて頷いた。「ああ」
「俺は、政治のゴタゴタに興味はないし、ようわからん。だが、その何とかっつー会長が【サミダレ】に狙われたっつーのは、よう覚えてる」
襲撃は、空。
「どこぞである、会議だか飲み会だか知らんが……ともかく、その移動での襲撃が予告された。だからそのワタライ会長は、護衛としてかなりの数の鳥を雇った」
「……」
オレンジジュースを飲むのを止めて、真剣に聞いている秀一の横で。瑛己は大して関心なさそうに麦酒を飲んだ。
「そして、約束の日。だが会長は予定の時間も航路も大幅に変えて、空に上がった。案の定、行程の半分まで襲撃はなかった。これはイケるとワタライ会長は、悪人顔でほくそ笑んだ」
ジンがヴァージニアスリムに火を点けた。新が甲高い声で酒場の店員に酒を頼んだ。
「だが、甘かったのはワタライ会長の方だった。出し抜かれたのは、会長の方やったんやな。雇った護衛の中に、【サミダレ】がいたんや。襲撃は〝六弧湾〟のど真ん中。それも、月が半分欠けた真夜中だ。ワタライ会長の命は、そこでジ・エンドのはずやった」
「……」
「だが、結果として会長は逃げ切り、【サミダレ】は会長襲撃に失敗。その後、捜査の手が入り、ジ・エンドしたのは【サミダレ】の方やった。そしてその時、ワタライ会長が逃げきれたワケが、〝昴〟やった」
瑛己も空を見た。窓越しに見る初夏の夜空には、細長い月が薄っすらと輝いていた。
「真っ暗な海の上、視界の利かん中、入り乱れる飛空艇。だがそいつは……まるで昼間の空を飛んでいるみたいに、【サミダレ】を相手にしてたっちゅー話や」
「……」
「結局、事実上昴一人に翻弄され、手をこまねいているうちに、本命のカレは夜陰に紛れて逃亡。舌を打っているうちに、昴の姿もなかったっつー……大間抜けな話や」
店の女性がジョッキを持って現れた。新がそれに手を叩いて喜んだ。喜びのあまり、店員の女性に抱きつこうとしたが、代わりに、その顔に強烈な平手が叩き込まれた。
「それからやな。昴っつー名前をよう聞くようになったんは。初手のそれでえらい有名になりよって、以来、護衛だの迎撃だの、色んなトコから仕事が入りおった。それがまるで、転々と戦場を渡る兵士みたいだと―――それが、傭兵と呼ばれるようになった所以や」
ふっと、飛の眉間にしわが寄った。瑛己はその顔に、飛の歯噛みを聞いたような気がした。
「傭兵、昴か……」
酒には目もくれず、ジンはヴァージニアスリムを吹かした。
その隣で、磐木が小さく息を吐いた。
それは、この作戦の前途を思ってか、それとも別に思う事があってのものか―――。
◇ ◇ ◇
初顔合わせは、ピリピリした緊張の中、だが何事もなく終了した。
『日嵩』総監、上島の部屋で対面を終えた彼らは、その後部屋を移し、正式に今回の作戦内容を聞かされた。
「【無双】が潜伏しているのは、ここ。B-3ブロック。〝弓月海〟に位置する小さな諸島、中央に位置するこの島です」
前線総指揮に当たる東という男は、ホワイトボードに貼り付けた地図を前に、淡々と説明していった。
その頬にアザがある。そして飛と新の顔にも、同じような跡はあった。
「そして今回の作戦は、この島を取り囲むように……3方向から同時襲撃をかけるというものです」
「3方向ですか」
「ええ」と東は少し笑った。「この海域は、少々入り組んでいます」
「諸島とはいえ、高い陸と山が密集しているのです。そのため、飛空艇泣かせと言ってもいい。踏み込んで行くには、少し骨の折れる場所になるでしょう……その中で、多少難が浅いのがこの3つのルート。ここは実際、【無双】が使っているルートでもあります。ここを、『日嵩』で固めます」
「『日嵩』で、と?」
ピクリと問いかけた小暮に、東は笑みを貼り付けたまま言った。
「はい。『七ツ』の方々には、実は、最後のルートをお願いしたいと考えています」
そう言って東は地図の一点を指した。
「ここより島へと続く道―――4番目のルート。ここをあなた方と、本上君にお願いしたいのです」
◇ ◇ ◇
「曲者ですよ、あの男は」
小暮が無表情のまま、手元の酒に口付けた。
「4番目のルート……隊長は、どう思われましたか?」
磐木は眉間にしわを寄せたまま、じっと目を閉じている。
その夜。昨日と同じ酒場に、327飛空隊の7名は顔をそろえていた。
流石に昨日の今日という事もあり、店主の顔はどこにも見えない。だがそういう事をまったく気にかけないのが、彼らの凄い所であり―――○○な所であった。
「何か、すっげ―つまんなさそうな作戦じゃないか? 今回」
顔にしっかりと平手を印した新は、口を尖らせて麦酒をあおった。
「体のいい厄介払いじゃないのん? 4番目のルートなんて」
それを聞いて、ジンが初めてクッと小さく笑った。
「小暮、お前が言いたい事は何だ」
「……副長は気付かれましたか」
「馬鹿が」
秀一が、眠そうな顔でキョトンと首を傾げた。
「彼はこう言いました。4番目のルートは、かなり困難を極める。運転に長けている者でも易々とは通れないルートだ。となれば、襲撃に遭った【無双】が逃げるには、そのルートを使うとは思えない。だが、その道をがら空きにする事もできない。万が一に備え、かつ、あのルートを易く抜ける事ができる編隊は『七ツ』しかいない。よってよろしく願いたい―――と」
「つまり」
ジンは煙草を灰皿に押し付け、ニヤリと笑った。
「俺達は難関の四番目のルート(最後の道)を、絶対に抜けなければならないって事だ。それも、無傷でな」
「だがそれは、彼らにとっては相対する意志。となれば必然、あの道には仕掛けがある」
「……」
「何だ! そーゆー話か」
「楽観できないぞ、新」
楽しそうに笑う新に、間髪入れず小暮は言った。
「4番目のルート、通るだけでも厄介な、そんな所で襲われたら」
小暮の顔が、苦渋で歪んだ。
瑛己は、小暮のそんな顔を初めて見た。
いつも冷静に客観的に物事を捉え、余裕とも取れる顔しか浮べないようなこの男が。こんな表情をするとは……瑛己は小さく目を見開いた。
「大丈夫っすよー、小暮さん。もし何かあったって、ブチのめせばいいだけなんだからー」
仕掛けがあると聞いて、こちらもウキウキ顔の飛が、軽い口調でそう言った。
「……」
小暮はそれに、何も言わなかった。代わりにチラリとジンを見た。
ジンはくわえていた煙草を灰皿に押し付けた。半分ほど残っていたそれが、グニャリと奇妙な曲線を描いた。
「飛、お前、谷抜けに自信、あるか」
「ハ?」
「聖は? 相楽は……むしろ、得手か?」
「え? 何がですか?」
「隊長、とりあえず明日から、低空の特訓でもやりますか?」
「……うむ」
「小暮、近場に渓谷がないか調べろ。どんな所でも構わん。ヒドければヒドいほどいい」
「わかりました」
初めて、ジンが手元の麦酒を喉に流し込んだ。
その姿に一抹の違和感のようなものを感じたのは、果たして、瑛己だけだっただろうか。
◇ ◇ ◇
2日後。
朝日と同時に叩き起こされた瑛己たちは、早速空に上がっていた。
ちなみに、彼らの宿は到着の日と同じ、町の一角にある酒場件宿屋といった所であった。「悪いが宿舎は定員がいっぱいでな」と上島は言ったが、明らかに嫌がらせとしか思えなかった。
「まぁ、よっぽど気楽じゃんか」
笑顔全開で新がそう言ったように、上島の嫌がらせも、むしろ彼らにとっては願ったり叶ったりであった。
ただ一つの難は、基地まで距離があるという事。だがそれも、『日嵩』の町を散策できると思えば、大した事ではない。
さて。早朝空に上った327飛空隊の7人は、一路、南へと向かった。
『日嵩』から南に抜けた海沿いに、〝狐谷〟と呼ばれる深い谷がある。
彼らがそこを知ったのは、昨日。酒場兼食堂で、めいめいに朝食をとっている時だった。近くのテーブルから偶然聞こえてきたのがきっかけだった。
その日のうちに上島の許可を得て、早速向かってみる事にした。
目的は、谷抜け、そして低空飛行の練習である。
「……こんな訓練は、今更必要ないとは思うんだがな」
飛行学校の教習内容として、瑛己も何度かこの手の事は経験している。
険しい谷間を、一定の制限高度以下で飛行する。それは、勘に頼らず、地形を先読みし、機体の状況を頭に描きながら瞬時に判断して飛ぶ、操縦感覚の訓練のためである。
特に谷間で重要になってくるのは、速度である。見通しの利かない谷間では、一瞬の判断ミスが命取りになる事がある。速度と出力のコントロール、これが重要になってくる。
「んなもん、学生じゃあるまいし、楽勝ですって!」
そう高らかに断言した飛であったが。
《飛! 速度の出しすぎだと言っているだろ!! 余所見していると右を持っていかれるぞ!! 何をやっている!!!》
磐木の怒声は、鳴り止まなかった。
瑛己とて、安穏とそれを聞いていられる立場になかった。
どうにも、翼がぶれる。
何を今更言っているのか……自分でも、自分の飛行が歯がゆくなる。
だが、左右には切り立った断崖、物凄い圧迫感を感じる。
気にしては駄目だと思いながら、だがフラリと、その絶壁に引き込まれそうになる瞬間がある。
どれだけ空を飛んできたのか。それなのに、翼の感覚が心もとない。
《聖、ふらついているぞ》
ジンに言われるまでもなかった。自分で一番よくわかっていた。
早くこんな谷間、抜けてしまいたいと、瑛己は苛々と思った。
速度を上げてしまいたい、高い空を舞い上がりたい―――。
瑛己でさえも操縦桿を握る手がもどかしく、焦れていた。飛などは一体、どんな気持ちで飛んでいるのだろうか。
2機も並んで通れないほどの峡谷であった。先頭に小暮、飛、磐木、秀一、瑛己、ジンの順番で飛んでいた。
瑛己の内心の葛藤とは裏腹に、前を行く秀一の機体は、微塵もぶれない。
カーブでは的確にきれいに曲っていく。速度も一定だ。それを見ると余計、自分の飛行の荒さに焦れる。
焦ら焦らしながらどれくらい、そんな峡谷を飛んでいただろう。
抜けた時は、安堵もそうだがひどい脱力に襲われた。全身が疲れきっていた。
《よし、もう一度、きた道を引き返すぞ》
《……グゲッ》
流石の飛も、ゲッソリだった。飛ぶのが嫌だと思ったのは、初めての事だったかもしれない。
瑛己でさえ、ゲンナリした。
そして、そんなふうに谷を何度往復しただろうか。
基地に戻ったのは、昼も大分回った頃。
全員(特に飛は)、這い出るようにして飛空艇から抜け出し、地面に突っ伏して動かなくなった。
.
「……あかん、俺、あーゆーの絶対向いてない……」
夜。宿の部屋のベットに突っ伏し、飛は低くうめいた。
「……」
瑛己は何も言わなかった。だが顔は「同感だ」と言っていた。
「? そーかなー、僕、結構面白かったけど」
「……秀、お前の神経回路、腐ってるんやないか……?」
俺は繊細やから、あーゆーのは向いてないんや……と、自称〝繊細な空戦マニア〟は寝言のように呟いた。
「実際の場所は、あれよりひどいのか?」
「運転に長けていないと通れないって話ですよね?」
「思いやられるな……」
「あれ? 瑛己さんがそんな事言うなんて」
「……俺も、ああいうのはどうも苦手だ……」
そう言ってらしくなくベットに倒れ込む瑛己を見て、秀一はふっと笑った。
「……何が可笑しい」
「いえ。だって、瑛己さんが『苦手だ』だって」
「……悪いか」
「いえいえ。ちょっと、嬉しくて」
「……何が」
「何でもないですって。ちょっとかわいいなって思っただけですよ」
「…………お前に言われたら、俺も終わりだな」
「何ですかそれー! どーゆー意味ですかー!」
「……眠い。俺、もう寝る……」
秀一が何か言ったが、瑛己は何も言わず、そっと目を閉じた。冗談半分でやったそれが、案外心地よくて。開けようと思っても、もう、目は開けられなかった。
吸い込まれるように、眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
次の日も、彼らは谷へ向かった。
その次の日も、そしてその次の日も。
『日嵩』での合同作戦の協議、演習の間を縫うようにして彼らは空にいた。
そんな彼らを、『日嵩』の者達は冷ややかに見ていた。
瑛己たちとて、ゲンナリだった。
だが、誰一人文句を言う者はいなかった……それは、今回の練習を特に指揮しているのが、副長・ジンだったからかもしれない。
磐木すら、今回は黙って彼に従っている。
瑛己はこんなジンを初めて見た。
瑛己にとって風迫 ジンという人物は、孤高の狼という印象があった。
磐木が吠えている一歩向こうの輪の外で、一人無言で煙草を吹かしている。
副長という肩書きを持ちながら、さして興味なさそうに冷めた目で、隊の事も空の事も見ている……そんなふうに思っていた。
だが今回のジンは違った。
磐木が赤い灼熱の炎ならば、ジンは青い極寒の炎なのだろう。
初めて、瑛己はジンのそういう〝炎〟を感じた―――おかげで、この状況であるが。
「はぅぁっ……、ようやくこんな、谷抜け生活ともおさらばやな」
飛が疲れきった顔に笑みを浮べ、コトンと麦酒を飲んだ。
―――作戦の前日。
瑛己と飛と秀一の3人は、いつもの食堂で、少し遅めの夕食を囲んでいた。
他の面々の顔はない。最後の協議を終えた時点で、別行動を取っていた。
「出立は、明日、1500か……」
「じゃぁ、明日の朝が最後の谷抜け練習だね」
「……はぁ……やっとあんな、陰気な場所から解放される……」
飛は嬉しそうだったが、明日の夕刻、最後にぶっつけ本番が残っている事を、瑛己はあえて言わなかった。
それは、言うのが面倒だったというのもあるが、彼にしては珍しく、心底ここ数日の谷生活にゲンナリしていたからだったかもしれない。
「それにしても……あの人、結局今日も顔出さなかったね」
ポツンと言った秀一の言葉に、飛の瞳に小さく火が灯った。
本上 昴。
連日行われた作戦協議、そして合同演習等々。だが彼女は一度も、顔を見せる事はなかった。
時折それに、総指揮・東が苛立たしげに、探し出してつれて来いと部下を叱咤しているのを見た。
「渡り鳥なんぞ、そんなもんや」
皮肉げに飛が言った。
「けど……僕、よくわかんないんだけど、何であの人、雇ったのかな?」
何気なく言った秀一の言葉は、瑛己もずっと引っかかっている事であった。
空軍が渡り鳥を雇う……確かに珍しい話ではない。だが、今回に限っては意味合いが少し違っている。
(常道に考えたとして)
結論は一つだけ。しかし。
「あん? んなもん、知るか」
飛は大きく鼻を鳴らして言った。
「どっちにしろ、どいつもこいつもまとめてぶっ倒したる」
そう宣言する飛は、かなりストレスがたまっているように見えた。
(だが……)
瑛己は腕を組んだ。
そしてふと思った事を言おうと口を開きかけた時。その目の前を、赤い人がスッと通り過ぎた。
昴だった。
彼女は何食わぬ顔で彼らのテーブルを通り過ぎると、隣のテーブルに座った。
飛もすぐに気がついた。そして、
「いいご身分やな、渡り鳥っちゅーのは」
明後日を見ながらも、聞こえよがしにそう言った。
秀一がギョッと顔を歪めた。だが構わず、飛は足を組んで続けた。
「作戦の一つも聞きにこんと、どこを飛ぼうっちゅー腹や」
「……」
昴は黙って目を閉じている。
「ええなぁ、自分勝手に空が飛べて。見たで、『飛空新聞』。【天賦】の無凱に挑戦状やって? でかい風呂敷、広げるのはさぞかし簡単なんやろな」
「ハン」
店の女性が言葉少なく、グラスを昴の前に置いていった。
「あたしは、そんな事言った覚えはないね」
「活字にちゃんと残っとるやないか」
「だから、ライターなんて言う連中は嫌いだっていうんだ。ある事ない事書きやがる。それを鵜呑みにする馬鹿が、世界には五万と溢れているっていうのに」
「今なんつった、お前」
「あん? 聞こえなかったか、この馬鹿が」
「……」「……」
飛の口の悪さは周知の事だが、昴も大概、口が悪い。
秀一が、アワアワと口を震わせていた。
瑛己は、困ったなと思った。磐木もジンも、頼りの人間は誰もいない……一触即発、間に入らなければいけないのだろうか? 果てしなく、他人の振りを貫き通したい所であるが。
「……」
「……」
殴り合いが始まると思った。
血の雨が降ると思った。
だが意外にも、それ以上、飛と昴の間には何も起こらなかった。
稲光のような睨み合いが数分あったかと思うと。
「クッ」
「ハン」
同時に2人、鼻で一つ笑みを浮べ麦酒をあおった。
秀一は安堵の溜め息を漏らした。
だが、瑛己には2人の最後のやりとりが聞こえてきた。
―――ケリは、空で。
「……」
巻き込まれないように祈る事が、今の瑛己にできる唯一であった。
そしてその願いが決して叶わない事を一番知っているのは、瑛己自身であった。
◇ ◇ ◇
いよいよ、作戦の朝はきた。
327飛空隊はいつもより早めに谷練習を終えると、予定の1500時に基地を飛び立った。
彼らと本上 昴。【無双】へ向かう編隊は彼らが最後であった。
昼過ぎと同時に、『日嵩』の各隊は時間をずらしすでに【無双】へと向かっていた。
ガランとした基地と、静まり返った滑走路。それは少しの淋しさと不安を、瑛己の胸に抱かせた。
それは、ひょっとしたら他の面々も同じだったかもしれない。誰も一言も言わず、それぞれの飛空艇に乗り込んで行った。
「くれぐれも、慎重に走れ」
それは、軽めに最後の谷練習を終えた後の事であった。
基地に戻ると小暮が、誰にともなく呟いた。
「……小暮?」
それを聞いた新が、不思議そうに彼を振り返ったが。小暮はまるでそれに気付いていないように、明後日の空を見上げた。
「……」
ジンが、ヴァージニアスリムに火を点けた。
瑛己は秀一に、何か見たかと訊いた。
だが秀一は「いいえ。今の所は何も……」と首を横に振った。
《これより、【無双】に向けて出発する》
《方位130。予定到着時間は1700》
《行くぞ》
滑走路を滑り出す。
風とエンジン音が重なる。
ギアがふっと、陸から離れる。
後は、空へ。
無限の空へ。
それはまるで。
(解き放たれた、一本の矢)
どこへ行くのか。
どこまで行くのか。
この先に、不安はないのか。
そしてこの先には、何の保証もない。
◇ ◇ ◇
「……ククッ……」
上島は空を眺め、とても楽しそうに笑っていた。