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空-ku_u-【前編 (第1部~第4部)】  作者: 葵れい
<第2部> 第10話
23/101

 『小雪、散りて (snow_snow)』

  10



 ハラリと一つ、雪が落ちた。

 それを男は無表情で一瞥し、スッと息を吸い込んだ。

 季節はもう、夏に差し掛かろうとしている。

 だが、山間に位置するこの街には、稀にこの時期、こうして小雪が散らつく事がある。

 積もる程ではない。風に吹かれ、誰にも気付かれず、消えていくだけのものだ。

 男は手にしていた本を机の端に伏せ、窓辺に立った。

 その眼下には、『蒼国』首都・蒼光さきの街並みが広がっている。

 夜の闇の中、白い雪の向こうにキラキラと灯る街の光は、まだしばらく闇を照らし続けるのだろう。

 議事堂の書斎からこの景色を眺めるたび、男は知らず、眉を寄せる。

 それを消すために、男は手近に置いてあったワインに口付けた。

 美味うまいとも不味まずいとも、何も思わなかった。

 そして再び小雪散る夜陰に目を向け、ふと、瞼を伏せた。

「何の用だ」

 小さいが、よく通る声だった。

 その声に少し遅れ、続きになった向こうの部屋から、音なく、現れた者がいた。

「気付いていたか」

 短く刈り上げられた猫毛に、丸い小さな眼鏡をチョンと鼻の上に引っ掛けた男、

「久し振りだな」

 原田 兵庫はその顔に、人の良さそうな笑顔を浮べ立っていた。

 男はそれを見もせず、ワインをグイと飲んだ。

「警備は全員クビだな」男は皮肉げに笑った。「夜盗に、こんな奥まで許すとは」

「相手が悪かったな」

 兵庫は懐から煙草を取り出すと、無造作に口の端にくわえた。

「橋爪。随分手広くやってるそうだな。周りの連中は泣いているぞ?」

「原田。俺はお前と違って忙しい」

 そう言うと初めて、その男―――『蒼国』軍部最高統括総司令長官・橋爪 誠―――は、兵庫に目を向けた。

 その眼に、兵庫は内心息をのんだ……こいつの眼は、あの頃から変わっていない。

 頬の線の引き締まったシャープな顔立ちに、髪は乱れなく整えられている。背丈は兵庫と同じくらいだが、凛然とした軍服姿に、実際よりも高く見えた。

 そして宿る、強い、瞳。

 兵庫は一瞬浮かんだ様々な感情を、しかし顔には出さず、代わりに煙草に火を点けた。

「俺も暇じゃないんでね」

「何の用だ」

「言わなくてもわかると思ったが?」

 兵庫はライターを懐にしまうと、静かな瞳で橋爪を見た。

「〝空の欠片〟を、どうした」

 じっと。その表情の変化を一つも見逃さないとするかのように、兵庫は橋爪を見つめた。だが、橋爪は眉一つ動かさなかった。

「それを知ってどうする」

「否定しないのか。『永瀬』から運ばせた、あれを」

「言っただろう? お前とクダクダ問答している時間はない」

 それに、と橋爪は言葉を切り、その顔に皮肉めいた笑みを浮べた。

「お前には何もできない」

「……それは」

 兵庫のその目に明らかな怒りが浮かんだ。

「〝空の果て〟で再び、その空を掻っ切る、そういう事か」

「さぁて」

「橋爪、貴様」

「原田、ここは禁煙だぞ?」

「俺は許さない」

 その言葉に、橋爪はクックと低く笑った。

「お前が許す許さんの問題ではない」

「……ッ」

「お前も会いたいだろう? 親友ともに……」

「貴様は」

 兵庫は煙草を捨てると、グシャリともみ消した。

「全部、わかってるな」

「何がだ」

「あいつが『湊』へ行った事。そして、〝それ〟を運んだ事も」

「……」

「それだけじゃない。全部わかってて……、そんなにハルが憎いか」

 橋爪は、感情のない瞳で兵庫を見た。

「お前は、ハルを」

「原田」

 兵庫の言葉を遮るように言った橋爪の声は。軍総司令・橋爪 誠の声であった。

「憎んでいるのは、お前だろう?」

「―――」

「まぁ、お前が憎み続けているのが、俺なのか、聖なのか―――自分自身なのか」

「……ッ」

「俺には、興味はない。ただな」

 橋爪の背中に、雪が、音を立てず、散っていた。

「お前に、邪魔はできない」

「何を」

「この世界に、抗えないものがあるとしよう」

「……」

「絶対的な力、歯向かう事できないもの。人はそれを、運命だとか宿命だとか言う。さながら、神のご意志だ。それに振り回され、人は生きていく」

「……お前の望みは何だ」

「ふっ」

 橋爪は不敵に微笑むと、兵庫に背を向けた。そしてそれ以上、何も言わなかった。

 耳の端に遠く、廊下を駆ける足音が聞こえた。

 兵庫はギリと奥歯を噛みしめた。

「お前の好きにはさせない」

「お前の意志など関係ない」

 それを聞くか否か、兵庫はスルリと部屋を立ち去った。

「抗えないもの」

 誰にともなく、橋爪は呟いた。

「それが、俺となる。それだけだ」


  ◇ ◇ ◇


 薄暗い廊下の片隅に女が一人、虚空を睨んでいた。

 冬が舞い戻ったかのように、今夜は冷える。腕を組んで、その背を壁に預けながら、女―――時島 恵は、脳裏に雪を描いた。

(それにしても)

 恵はそれを打ち消すようにゆっくり瞬きをすると、薄暗い廊下の先を厳しい瞳で眺めた。

(一体、誰が)

 恵の脳裏に浮かぶのは、先ほどからずっと、その事だけだった。

(誰が、空(ku_u)を)

 売ったのか……思ってからその言葉に、恵は吐気にも似た感情を覚えた。

 空(ku_u)が、あの日、『湊』空軍基地・第327飛空隊とあった事は当人の口からも、他の筋からも耳に届いた。

 空(ku_u)は思ったより明るくそれを恵に告げ、そしてそこで聖 瑛己に会った事を話した。

 その場では、恵は心から、無事でよかったと彼女を抱きしめた。

 だが明らかに、彼女は327飛空隊に待ち伏せにあっている。

 そして、空(ku_u)の事を知るのは極々僅かな人間でしかないという事……それも作戦、航路などは特に。

(空(ku_u)が背負うのは絶対の翼)

 そして、その正体を公にする事は今までもそしてこれからも、あり得ない事だろう……恵は眉間にしわを寄せた。

 それなのに。

 彼女は、作戦の帰りに襲われた。

 数少ない〝彼女を知る者〟の中に、彼女の情報を、流した者がいる。

(一体誰が)

「……」

 恵は小さく息を吐いた。

 それが例え、誰であろうとも―――恵はそっと瞼を伏せた。

 その時、向こうから足音が響いた。恵はハッと背を正し、そちらを見た。

 夜陰に視界は悪い。だが恵にとってそれは、関係がなかった。

 その人物の顔を見とめると、恵は凛とした声でこう言った。

「閣下。お帰りですか」

「うむ」

 男は低く呟くと、それ以上何も言わず、恵の横を通り抜けた。

 その顔がいつにない表情を浮べている事に、恵は気付いた。

 その顔は、ほのかに笑みを浮べていた。

「……」

 恵は背中に、何かゾクリとするものを感じた。

 だがそれを慌てて胸の奥にしまい込むと、男の後を追いかけた。




 雪が、降り始めた時と同じように、静かに止んだ

 そして、退いた雲の切れ間からこぼれた月が、夜空を薄く照らし出した。

 それを見届けるように、最後に散った小さな雪は、地面にたどり着く前に空へと消えた。



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