『小雪、散りて (snow_snow)』
10
ハラリと一つ、雪が落ちた。
それを男は無表情で一瞥し、スッと息を吸い込んだ。
季節はもう、夏に差し掛かろうとしている。
だが、山間に位置するこの街には、稀にこの時期、こうして小雪が散らつく事がある。
積もる程ではない。風に吹かれ、誰にも気付かれず、消えていくだけのものだ。
男は手にしていた本を机の端に伏せ、窓辺に立った。
その眼下には、『蒼国』首都・蒼光の街並みが広がっている。
夜の闇の中、白い雪の向こうにキラキラと灯る街の光は、まだしばらく闇を照らし続けるのだろう。
議事堂の書斎からこの景色を眺めるたび、男は知らず、眉を寄せる。
それを消すために、男は手近に置いてあったワインに口付けた。
美味いとも不味いとも、何も思わなかった。
そして再び小雪散る夜陰に目を向け、ふと、瞼を伏せた。
「何の用だ」
小さいが、よく通る声だった。
その声に少し遅れ、続きになった向こうの部屋から、音なく、現れた者がいた。
「気付いていたか」
短く刈り上げられた猫毛に、丸い小さな眼鏡をチョンと鼻の上に引っ掛けた男、
「久し振りだな」
原田 兵庫はその顔に、人の良さそうな笑顔を浮べ立っていた。
男はそれを見もせず、ワインをグイと飲んだ。
「警備は全員クビだな」男は皮肉げに笑った。「夜盗に、こんな奥まで許すとは」
「相手が悪かったな」
兵庫は懐から煙草を取り出すと、無造作に口の端にくわえた。
「橋爪。随分手広くやってるそうだな。周りの連中は泣いているぞ?」
「原田。俺はお前と違って忙しい」
そう言うと初めて、その男―――『蒼国』軍部最高統括総司令長官・橋爪 誠―――は、兵庫に目を向けた。
その眼に、兵庫は内心息をのんだ……こいつの眼は、あの頃から変わっていない。
頬の線の引き締まったシャープな顔立ちに、髪は乱れなく整えられている。背丈は兵庫と同じくらいだが、凛然とした軍服姿に、実際よりも高く見えた。
そして宿る、強い、瞳。
兵庫は一瞬浮かんだ様々な感情を、しかし顔には出さず、代わりに煙草に火を点けた。
「俺も暇じゃないんでね」
「何の用だ」
「言わなくてもわかると思ったが?」
兵庫はライターを懐にしまうと、静かな瞳で橋爪を見た。
「〝空の欠片〟を、どうした」
じっと。その表情の変化を一つも見逃さないとするかのように、兵庫は橋爪を見つめた。だが、橋爪は眉一つ動かさなかった。
「それを知ってどうする」
「否定しないのか。『永瀬』から運ばせた、あれを」
「言っただろう? お前とクダクダ問答している時間はない」
それに、と橋爪は言葉を切り、その顔に皮肉めいた笑みを浮べた。
「お前には何もできない」
「……それは」
兵庫のその目に明らかな怒りが浮かんだ。
「〝空の果て〟で再び、その空を掻っ切る、そういう事か」
「さぁて」
「橋爪、貴様」
「原田、ここは禁煙だぞ?」
「俺は許さない」
その言葉に、橋爪はクックと低く笑った。
「お前が許す許さんの問題ではない」
「……ッ」
「お前も会いたいだろう? 親友に……」
「貴様は」
兵庫は煙草を捨てると、グシャリともみ消した。
「全部、わかってるな」
「何がだ」
「あいつが『湊』へ行った事。そして、〝それ〟を運んだ事も」
「……」
「それだけじゃない。全部わかってて……、そんなにハルが憎いか」
橋爪は、感情のない瞳で兵庫を見た。
「お前は、ハルを」
「原田」
兵庫の言葉を遮るように言った橋爪の声は。軍総司令・橋爪 誠の声であった。
「憎んでいるのは、お前だろう?」
「―――」
「まぁ、お前が憎み続けているのが、俺なのか、聖なのか―――自分自身なのか」
「……ッ」
「俺には、興味はない。ただな」
橋爪の背中に、雪が、音を立てず、散っていた。
「お前に、邪魔はできない」
「何を」
「この世界に、抗えないものがあるとしよう」
「……」
「絶対的な力、歯向かう事できないもの。人はそれを、運命だとか宿命だとか言う。さながら、神のご意志だ。それに振り回され、人は生きていく」
「……お前の望みは何だ」
「ふっ」
橋爪は不敵に微笑むと、兵庫に背を向けた。そしてそれ以上、何も言わなかった。
耳の端に遠く、廊下を駆ける足音が聞こえた。
兵庫はギリと奥歯を噛みしめた。
「お前の好きにはさせない」
「お前の意志など関係ない」
それを聞くか否か、兵庫はスルリと部屋を立ち去った。
「抗えないもの」
誰にともなく、橋爪は呟いた。
「それが、俺となる。それだけだ」
◇ ◇ ◇
薄暗い廊下の片隅に女が一人、虚空を睨んでいた。
冬が舞い戻ったかのように、今夜は冷える。腕を組んで、その背を壁に預けながら、女―――時島 恵は、脳裏に雪を描いた。
(それにしても)
恵はそれを打ち消すようにゆっくり瞬きをすると、薄暗い廊下の先を厳しい瞳で眺めた。
(一体、誰が)
恵の脳裏に浮かぶのは、先ほどからずっと、その事だけだった。
(誰が、空(ku_u)を)
売ったのか……思ってからその言葉に、恵は吐気にも似た感情を覚えた。
空(ku_u)が、あの日、『湊』空軍基地・第327飛空隊とあった事は当人の口からも、他の筋からも耳に届いた。
空(ku_u)は思ったより明るくそれを恵に告げ、そしてそこで聖 瑛己に会った事を話した。
その場では、恵は心から、無事でよかったと彼女を抱きしめた。
だが明らかに、彼女は327飛空隊に待ち伏せにあっている。
そして、空(ku_u)の事を知るのは極々僅かな人間でしかないという事……それも作戦、航路などは特に。
(空(ku_u)が背負うのは絶対の翼)
そして、その正体を公にする事は今までもそしてこれからも、あり得ない事だろう……恵は眉間にしわを寄せた。
それなのに。
彼女は、作戦の帰りに襲われた。
数少ない〝彼女を知る者〟の中に、彼女の情報を、流した者がいる。
(一体誰が)
「……」
恵は小さく息を吐いた。
それが例え、誰であろうとも―――恵はそっと瞼を伏せた。
その時、向こうから足音が響いた。恵はハッと背を正し、そちらを見た。
夜陰に視界は悪い。だが恵にとってそれは、関係がなかった。
その人物の顔を見とめると、恵は凛とした声でこう言った。
「閣下。お帰りですか」
「うむ」
男は低く呟くと、それ以上何も言わず、恵の横を通り抜けた。
その顔がいつにない表情を浮べている事に、恵は気付いた。
その顔は、ほのかに笑みを浮べていた。
「……」
恵は背中に、何かゾクリとするものを感じた。
だがそれを慌てて胸の奥にしまい込むと、男の後を追いかけた。
雪が、降り始めた時と同じように、静かに止んだ
そして、退いた雲の切れ間からこぼれた月が、夜空を薄く照らし出した。
それを見届けるように、最後に散った小さな雪は、地面にたどり着く前に空へと消えた。