『in the blue sky』
◇ ◇ ◇
『俺は、瑛己に、憎まれているのかもしれないな』
暗闇の中、どこからともなく、声が聞こえる。
『ハル……』
『当然と言えば当然か。親父らしい事の何一つ、してやらなかったからな』
ゆっくりと、布団から這い出して。そっと、自室の扉を細く開けた。
向こうの方が、ほのかに明るい。
屈折した闇の中、僅かに、父の背中が見えた。
『いつか……僕の父さんは兵庫おじさんだって、言われそうな気がするよ』
『何言ってんだよ、馬鹿ヤロ』
『……兵庫』
『お前がそんな事で、どーすんだよ』
『……』
『そんな事思うんなら、もっと顔出してやれよ。瑛己のためにも、それに、咲ちゃんのためにも』
『……』
走り出したい。
この扉を開けて、今すぐに。
父さんの背中へと。
なのにどうしてか、足が動かない。
両手は薄く扉を開けたままで、それ以上の、力がこもらない。
『俺は……ひょっとしたら、2人に会うのが怖いのかもしれない』
『……』
『俺も変わってしまった……色々な事を見すぎたよ』
『……』
『2人に会うたびに思うんだ。2人の目に映る俺は、一体どんな姿なんだろう? って。瑛己は俺の事をちゃんと覚えていてくれているのだろうか。咲は……俺に、幻滅してやしないかってな』
『ハル』
『自分の知る聖 晴高は、こんな人間じゃなかった。こんなの、自分の愛した男じゃないって……そんなふうに思われやしないかって』
『……だからって、俺が行ってどーするんだよ』
『……』
『どう思われようとも、お前はお前だろうが。瑛己の父親は、お前一人なんだ。そして、咲ちゃんを抱きしめてやれるのは……お前だけだろうが』
『……』
『それに。咲ちゃんだって、わかってるよ。お前の強さも弱さも、馬鹿な気持ちも全部ひっくるめて。お前の事、愛してるんだよ。正直、こっちが妬けるくらいにな』
『兵庫……』
『瑛己だって。わかってくれてるさ』
『……』
『あいつも、気丈に振舞ってるけどさ。一応、俺の前ではちゃんと笑ってくれるけど』
『……』
『俺はお前の代わりに2人に会うたびに、いつも思うよ。何で俺は、聖 晴高じゃないんだろうって』
『……』
『どんなにあがいても、俺は、お前にはなれない』
『……』
『週末、顔出してこいよ。雑務は俺が引き受けるから』
『……悪い』
『今更』
笑い声が聞こえた。
それに少し安心して、息を吐いた。
父さん……。
父さん……。
父さん……。
◇ ◇ ◇
「―――き、瑛己っ!」
呼ぶ声に、目が覚めた。
連呼される名前に、瑛己は、不思議な気持ちで瞼を開いた。
「……?」
最初に映ったのは、ド・でかい、飛の必死な顔。
「瑛己さん!!」
それから秀一の、半べそかいた泣き顔。
「まったく、心配かけやがって」
新の、怒ったような笑顔。
「脈は正常だな……痛む所は?」
冷静な医者みたいな、小暮の真剣な瞳。
「……いえ」
ゆっくりと身を起こし、瑛己は軽く頭を振ってみた。そして自分の手を見た。
(まだ、生きてる)
断片的な記憶を辿っていく。
空(ku_u)に撃たれ、そして……。瑛己は目を伏せた。
生き残るつもりは、なかった……。そんな事を思い、自嘲気味に苦笑を浮べると、風に煙草のにおいが香った。
見上げると少し離れた所にジンが、明後日を見ながら、煙草を吹かしていた。
そしてその前に立っていたのは。
「……隊長」
瑛己はゆっくりと立ち上がった。
磐木は無言で瑛己を見ていた。厳しい形相に背筋が小さく震えたが、構わず、瑛己は一歩踏み出した。
殴られるかもしれない。
そんな事を思いながら、磐木の元に歩いて行く。
そして。彼が頭を下げるより先に。磐木が重そうな口を開いた。
「馬鹿者」
「……申し訳ありません」
「まったく、お前という奴は」
磐木が大きく溜め息を吐いた。珍しく崩れたその顔を、瑛己はぼんやりと眺めた。
「どこまでも―――聖隊長に、そっくりだな」
「……」
磐木が初めて、微笑んだ。
短い黒髪は、水をひたしたかのように濡れて光っていた。
「あ」
おぼろげに。瑛己は思い出した。
飛空艇を飛び出した。
パラシュートと共に海に落ちた自分を。だがしっかりと支えてくれた、腕があった。
『聖ッ!』
一生懸命、名前を呼んで。
『聖 瑛己、しっかりしろッッ!』
……その時、2、3度殴られたような気もするが。
この、岸辺まで。運んでくれた人がいた。
「……隊長」
瑛己は、頭を下げた。それに磐木は「ふん」と鼻を鳴らした。
「礼なら、あいつに言え」
トンと肩を叩くと。アゴで軽く、彼の背中を指した。
瑛己はゆっくりとそちらを、振り返った。
「……」
そこに、白い飛空艇があった。
雲の隙間からこぼれる太陽の光を受けて、銀に煌くその機体に。
ゆったりと、背中を預けて。
薄くトキ色がかった飛行服に身を包み。
短めの髪を、風に遊ばせている。
空(ku_u)と呼ばれる飛空艇乗り。
この空に、並ぶ者はいないと言われ、墜とした者は空の歴史に名前が残るとも言われる、
〝絶対の翼〟を持つ、飛空艇乗り。
その、彼女が。
「……」
立っていた。
言いたい事は、たくさんあった。訊きたい事も、たくさんあった。
しかしどれもこれも胸を焦がすばかりで、言葉になって出てこなかった。
瑛己は何かを言いかけて、結局それを飲み込んだ。
「ありがとう」
そして最後に出たのは、それだけだった。
―――異動の日。
『獅子の海』で。
【竜狩り士】の銃撃を浴びた時。
そしてこの、神に祝福された海で。
飛ぶ空にはいつも、白い翼があった。
目指している空。そしてその先にはいつでも、暖かな風に満ちていた。
笑顔があった。
光があった。
瑛己は初めて、言葉が万能でない事を知った。
そんな彼の気持ちを、まるで察したかのように。
彼女は、ふわりと微笑んだ。そして、スッとその右手を差し出した。
瑛己は少しだけ驚いたように目を開き、苦笑のように笑った。
「ありがとう」
握った手の向こうで、彼女が呟いた。
瑛己と彼女の目が合った。
鳶色の、透き通るような。穏やかで、優しい瞳に。
「……聖 瑛己。君の名前は」
その問いに、今度は少女が目を丸くした。
だがすぐに、
「そら」と小さな声で言った。「空(sora)」
「……ありがとう」
「また、空で」
瑛己は頷いた。
「ああ。―――また、空で」
◇ ◇ ◇
白い翼が去っていく。
瑛己はそれを、ぼんやりと見つめていた。
そんな彼を横合いから、新がどついた。
「何見惚れてんだ、お前―」
「……っ」
「いやー、まさか、しっかし……仰天や。あの空(ku_u)が、あないに可愛い子やったとは……!!」
「おい、飛ぃー、瑛己こいつ、空(ku_u)ちゃんに惚れたぞー! 完全に」
「……ッ! な、新さん、何を言ってっ!」
「瑛己さん、顔真っ赤ですよー。えー! やっぱそーなんだぁ!?」
「秀一、お前までっ……」
「なんやとー!? 瑛己お前、さてはっ、空(ku_u)と仲良くなって、彼女の飛行技術の秘密を知ろうっちゅー魂胆やな!? なんちゅー外道なやっちゃ!! 抜け駆けは許さんぞ!? 空(ku_u)のケータイ番号、俺にも教えろ!!」
「ちがっ……それに、ケータイって……。この世界に、そんな物存在しねーよっっ!」
瑛己は頭を抱えたい心境になった。そして実際、頭を抱え込んだ。
けどその顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。
たくさん小突かれながらも。
おなかが痛くなるほど笑ったのは、久し振りだと思った。
―――生きて。
君の声に。
僕は、この道を選ぶ。
父さん……。
ごめん。そして、ありがとう。
ありがとう。
父さん―――。
第1部 完