『命令(obligation)』-4-
◇ ◇ ◇
「瑛己さん……ちょっといいですか?」
自販機からこぼれ落ちた缶珈琲を取ろうと腰を屈めた時。背中にかかった遠慮がちな声に、瑛己はふっと振り返った。
そこに秀一が立っていた。
瑛己は額の汗をぬぐうと、小首を傾げた。
『音羽』基地で迎えた、作戦の前日。
最後の飛行訓練を終えたばかりの2人は、共に、飛行服のままの姿だった。
瑛己は襟元を緩めながら、「皆は?」と尋ねた。
「飛は新さんと、飲みに行くって」
珈琲のタブをキュッと開けながら、瑛己はその辺の階段に腰掛けた。
「……じゃ、僕も」
秀一は軽く微笑むと、自販機に向かった。
その顔が瑛己にはぎこちなく見えた。
滑走路と海を見下ろす広い階段に2人、ボンヤリ肩を並べて珈琲を飲んだ。
しばらく無言で、夕焼けに染まる空と海を眺めていた。
カモメの声が1つ、2つ、淋しげに響いた。
それに秀一は短く息を吐き、視線を落とした。
「……明日」
瑛己はじっと、黄金に輝く水平線を見つめていた。
「このまま行ったら、僕らは、」
「……」
瑛己はチラリと秀一を見た。
「ジンさんに、口止めされていたんだけど」
秀一は珈琲缶の口元を見つめたまま。だがその瞳には、一体何が映っているのか。
瑛己は再び水平線に視線を戻した。
「どんな事を、どんな形で見ても、誰にも言うなって……言う必要はないからって」
―――お前が言わなくても、すでに全員が、何度もその光景を見ているのだから。
「僕らは……明後日の空を見れないかもしれない。明日『輝向湾』を飛ぶ、8つの飛空艇は……」
「……」
「瑛己さんには言いましたっけ? 僕の……こういう変な……ちから」
「……少しだけ」
「一番最初は、僕がまだ5歳の時。飼ってた犬が事故に遭う映像でしたよ」
「……」
「最初は気のせいだと思ってたんです。偶然見た夢と似たような事が、現実でたまたま起きただけに過ぎないって。既視感ってありますよね? それくらいにしか思ってなかった」
「……」
「大きくなって落ち着いてこれば、次第に消えて行くものだろうって父は……医者は言っていました。けれど、消えて行くどころか逆に、むしろそれは強くなっていくようだった」
「……」
「小さい頃は夢でしか見なかった映像が、段々と昼間……普通に起きている時でも見るようになって。瑛己さんも知ってますよね? この間総監室で……。突然脳裏に映像が滑り込んでくるんです。こっちの都合も関係なく……何の前触れもなく、突然、見たくもない映像が」
「……」
瑛己はグイと珈琲を飲み干した。その動作に、秀一がビクリと肩を揺らした。
「……ごめんなさい、こんな事言われたって、瑛己さんだって迷惑なのに……」
「外れた事は?」
「……え?」
「〝映像〟が、外れた事はないのか」
秀一は躊躇いながら、ゆっくりと首を振った。
「……1回だけ」
「じゃあ、今回も外れる」
そっけなく瑛己はそう言った。
それに秀一は目を見開いた。
「瑛己さん」
「何で俺に話した」
「……」
「例え副長に口止めされてなくても、普段のお前なら言わなかった……違うか?」
「……」
秀一は小さく苦笑し、海に視線を投げた。
「……やだなぁ……瑛己さんは、」
「……」
瑛己の凛然としたその瞳が。
秀一は、ふと、泣きたい心境にかられた。
「確かにあの時も……『獅子の海』が危ない事を、僕は知っていた。あの映像を見たのは瑛己さんがくる前日だったけど。僕はあの時、確信があったんですよ。絶対大丈夫だって」
「……」
「それは、あなたがきたから」
「……」
「僕の映像に瑛己さんはいなかった。そしてあの日、『海雲亭』であなたを見た時、僕は思いました。感じたって言ってもいい……未来は変わる」
「……」
「そして今回も……言おうか悩んだけど……。話す事で、僕は瑛己さんに、自分の背負っているものを、なすりつけようとしているだけなのかもしれない」
「……」
「けど」
瑛己はそこで、大きく溜め息を吐いた。「よしてくれ」
「俺に運命を変えろと?」
「あなたなら……」
「そういう宗教家まがいの台詞、好きじゃないんだ」
「……瑛己さん」
「買いかぶらないでくれ」
「……」
瑛己はスッと立ち上がった。
それを目で追いかけ、秀一は何かを叫ぼうとするかのように顔を歪めた。
だがその声は。瑛己の瞳に掻き消された。
その、凛としたまっすぐな眼差しが。
困ったように笑う……その姿が。
「俺は」
瑛己は瞼を細め、遠い水平線を眺めた。
「自分のできる事を、精一杯やるだけだよ」
「……」
「だからお前も」
瑛己は秀一を見た。「負けるな」
その目に秀一は、胸の奥から何かがドッと溢れそうになるのを感じた。
「瑛己さん……」
瑛己はそっと視線をそらした。金色を浴びたその横顔に、秀一は……ふっと笑みをこぼした。
「……あなたが何で女神様に愛されるのか、わかる気がします」
「女神?」
「運命の、女神様ですよ」
途端、瑛己は額を抑えてガクリと頭を垂れた。
「……やめてくれ。冗談じゃない……」
「あはは!」
「……お前、俺がどれだけ困っているのか……大体、笑えるような立場なのか? お前」
「あははは!! だいじょーぶ、女神様が一番愛しているのは瑛己さんだもん。僕は取ったりしませんからー」
「……やる。もらってくれ、頼むから……」
笑い転げる秀一に、瑛己は内心ホッとした。
だが同時に、彼の中に重い感情も生まれていた。
(明後日は、ない……か)
◇ ◇ ◇
ゴォォォ……
音がした。
瑛己はビクリと、双眸を揺らした。
空は、彼の心をそのまま映したかのように、灰色に曇っている。
その見晴かす彼方に。太陽もないのに何かがキラリと輝いた。
それが白い翼であると。
瑛己は深く深く目を閉じた
磐木が乗る1番機が、無人島の影からふわりと舞い上がった。
それに続いて、他の機体もエンジンを乗せていく。
―――神に祝福されたという海の上で。
《これより【空(ku_u)】迎撃体勢に入る》
瑛己はゆっくりと目を開けた。
そして最後に、空へと向かった。
空(ku_u)の飛行技術の凄さは、この中では瑛己が一番よく知っている。
【海蛇】に絡まれた時も。瑛己が2機や3機に四苦八苦している所を、〝彼〟は、倍以上の数と当時に渡り合っていた。
その飛行は、見た者を魅了すると言われる。
まさしくその通りだった。初めて会った時、瑛己は自分の置かれた状況など忘れ、その白い翼に見惚れていた。
(まさか、こんな日がくるなんて)
何度も危機を救われた。
〝彼〟のお蔭で、どれだけこの命は長らえる事ができたのか。
(〝彼女〟のお蔭で……)
あの日以来に会う、空(ku_u)の姿。
白い機体は、傷一つなく、輝いている。
あの日見たあの光景は、夢だったのではなかろうか? 瑛己はゴーグルの位置を直そうとして、やめた。
誰にも語る事なかったあの日の光景。
あの日の映像が、例え幻だったとしても。女神に見せられた、儚い白昼の夢だったとしても。
「……」
何の事実も、変わりはしない。
『湊』への途中、【蛇】から助けられた事。
『獅子の海』で、無凱の銃口から救われた事。
その危機を聞いて基地を飛び出した事も、【竜狩り士】の銃撃に機体をさらした事も。
そして。
脳裏に焼きついた、あの、少女の顔も。
(女神様に、愛されている)
瑛己は苦笑した……だとしたら。
彼女は自分に、何を求めているというのだろうか?
こんな小さな自分に。
一体、何を―――。
◇ ◇ ◇
青い鳥が7つ。白い鳥を囲むように、空を斜めに切り込んだ。
そして一斉に、交差するようにすり抜けた。
その腕を縫うように避けた空(ku_u)に、頭上から仕掛けたのは新だった。
ダダダダダダダダダダ―――!!!
この一息で終わらそうとするかのように、無数の銃火が空(ku_u)を目掛けて降りそそいだ。
だがその最初の弾が当たるか当たらないかの刹那で、空(ku_u)は避けていた。
新が舌打ちするかのように銃撃をグワンと止めた。だが代わりに避けた所を、左右から磐木とジンが、そして下から狙ったのは小暮だ。
この間合いで、避けられるわけがない。
だが、空(ku_u)は翼を横倒しにすると、3人をあざ笑うように右斜めへとすり抜けていった。
「逃がすかッ」
その背中についたのはジンだった。
―――短期決戦。
「この俺達が束になるんだ。最高のフルコースをご馳走してやろう」
空(ku_u)が編隊相手にも物怖じしない事はよく知っている。
それゆえ今回の作戦はとにかく、2人以上での一点・同時連続攻撃。それを重視し、何度も練習を重ねた。
だがそれでも、長引けば長引くほど、不利になるのはこちらである。
早い段階での勝負―――打ち立てたのは、その言葉。
ジンの横を、飛と新がついた。
そして同時に、瑛己が空(ku_u)の斜め前につき、銃撃を開始する。
―――はずだった。
瑛己は確かにそこにいた。ここ連日、汗まみれになって繰り返した動きである。
4機が空(ku_u)を中心に、交差する。
ダダダダダダ
だが、瑛己は撃たなかった。
空(ku_u)と翼がすれ違うほど至近距離を抜けたため、一瞬、操縦桿があらぬ方向に持っていかれる。
瑛己は眉間にしわを寄せた。
瑛己が抜けた後、飛、磐木、小暮。そして秀一の4方向からの一点攻撃が始まっていた。
もちろん、2次元の世界ではない。逃げ場は存在する。だが。
逃げた先に、ジンと新が待ち受けているにも関らず。
ダダダダダダダ
ドドドドドドド
ガガガガガガガ
一撃も入らない。
この短時間、6つの機体がどれほどの弾を放ったかわからないというのに。
どの一つも、空(ku_u)を、かする事さえしない。
瑛己はその様を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
最後の4機一斉攻撃の後の2機攻撃。後者に、瑛己も加わらなければならなかった。
それをあえて外し、円の外側からその様を見た時。
(おかしい)
弾が入らない事ではない。
327飛空隊の面々が、束になって撃っているこの間。
空(ku_u)はまだ、一度も銃口を開いていない。
そして撃てる瞬間は、いくらでもあった。実際、先ほどの瑛己との交差の瞬間。空(ku_u)は撃てたはずだ。そして自分はもう―――この海に墜ちていても、まったくおかしくなかった。
(なぜ?)
今だって。いつだって、撃てる。
最初こそ体勢を取れていなかった時もあったが、今なら。明らかに空(ku_u)は自分の意志で飛んでいる。自分の思った通り、冷静に弾を避け、その間をかいくぐっている。
無駄な殺生はしない……そういう事なのだろうか? 空(ku_u)は、仕事以外で余計な空戦はしないと??
(だが秀一は……)
その時だった。
「……?」
空(ku_u)の動きが。
今まで、6機の動きに合わせ、流すように攻撃を避けていたその動きが。
「……狙ってる」
変わった。
「ッ!! 秀一ッ―――!!」
瑛己は叫びながら、空(ku_u)を目掛けて飛んだ。
(撃つ)
空(ku_u)の砲口が唸る……間に合わないッ……!!
だが。
ブォン
空(ku_u)の翼は音を立てて秀一の横を突き抜けると、上に向かって翔け上がった。
どうして……瑛己は操縦桿を握りながら、身を乗り出した。
今。確かに狙っていた、確かに撃とうしていた。そして撃てた。なのに。
「なぜ……」
空(ku_u)は撃たない。
彼女は……なぜ……。
◇ ◇ ◇
「……」
彼女はそっと、目を伏せた。
そして、チラリと眼下の艇影に目を向けた。
「……いる」
ドドドドドド
左へ折れるように身をかわす。
そこへ別の飛空艇の攻撃が降る―――もう、読んでいる。
そしてこの空には。それをかわす事ができる空白の場所が存在している。
それが恐らく。
「……なぜ?」
6機の機体を避けながら、彼女は、最後の1機に向かって問い掛けた。
彼女は決めていた。
あの最後の7機が。その最後の空白を埋めたなら。
その時は。
「……」
光の加減で、ゴーグルの向こうの瞳は見えない。
◇ ◇ ◇
「……」
見ている。
空(ku_u)がこちらを見ている。
瑛己は眉間にしわを寄せ、天を統べるように飛んでいる白い飛空艇を仰ぎ見た。
(運命の女神は)
俺に何をさせたい?
俺にどうしろという?
秀一はこう言った。明後日の空は見れないかもしれない―――明日、『輝向湾』を飛んだ、8つの機体は、と。
「……」
瑛己は厳しい眼差しで明後日を睨みつけた。
「俺に、何を」
―――自分の空を行け。
『あなたの人生は、あなただけのものよ』
「……」
瑛己は、無理に苦笑を浮べた。
そしてそれを瞬きと共に消し去ると。
両手で操縦桿を、強く握り締めた。
最後の『七ツ』が、空に向かって、翔け出した。
そして彼が取った行動は。327飛空隊の誰も、そして空(ku_u)さえも。予想だにしないものであった。