『命令(obligation)』-3-
空を見るたび、いつも思う。
もしも見上げた空が、すべての答えを導いてくれたら。
この心を苛むすべての疑問と不安の渦を。眺めたその空が……まっさらに、消し去ってくれたらと。
「……」
瑛己は小さく苦笑して、星の海から目をそらした。
(俺は……)
どれほど空を仰いでも。何の答えも出なかった。
―――まして父の声など。聞こえてこなかった。
永劫の丘。
小さな石塔の前に、一人。聖 瑛己は、ボンヤリと立ち続けていた。
そんな彼の背中を見ていた者がいた。
「……瑛己君」
海月は、風になぶられる髪をそっと抑え呟いた。そして……振り返った瑛己に、静かに微笑みかけた。
◇ ◇ ◇
海月は持っていた手提げから小瓶を取り出すと、「お父さんの好きだったお酒」とふんわり笑って、石塔にかけた。
瓶からこぼれ流れて行く様を、瑛己はじっと見つめていた。
カラになったそれをしまい込み、海月は小さく息を吐いた。
「……時々。こういう星のきれいな夜には、ね」
「……」
海月が空を見上げた。それにつられるように、瑛己も仰いだ。
風が頬を抜けた。
春とはいえ夜はまだ冷える。まして風は海から吹いている。
コート一つ羽織ってこなかった瑛己は、小さく肩を震わせた。
それを見て海月はクスリと笑い、自分のマフラーを彼の首に巻いた。
「……りがとう」
「ほんと。子供じゃあるまいし」
クスクスと笑いながら、海月は瑛己の顔を盗み見た。
月明りしかない暗闇の中で、彼の表情はよくわからない。
けれど……。ふっと海を見たその横顔が、どこか頼りなさげに見えた。
その顔が、いつかの誰かに重なった。
だが、
(……違う)
そう思い海月は苦笑した。
「あんたの父さんは、もっとしっかりしてたわよ」
その言葉に、瑛己はビクリと海月を見た。
「父さん……」
「あんたの父さん、聖 晴高は」
スッと短く息を吸い込み。
「いつも、自分は何の迷いもないぞって顔してた」
「……」
「いつも凛と胸張ってさ、毅然としててさ。―――兵庫が酔っ払ってつぶれる所は何度も見たけれども、あの人がぶっ倒れる所は見た事なかった」
「……」
「私はあんたの父さんに、憧れてた」
瑛己が息を飲んだのがわかった。海月はそれに小さく笑い、続けた。
「だってさ、超カッコよくって優しくて、紳士的で。その上軽々とピアノまで弾いちゃってさ。憧れないわけがないよ、あんな素敵な人」
―――恋していた。
「だからぶっちゃけ、奥さんがいて、子供までいるって聞いた時は。……ごめん、ちょっと妬いちゃった。えへへ」
「……」
―――こんな告白話を。
「さらにぶっちゃけて言ってしまえば……何とか振り向いてくれないかなーとか。10代後半の海月さんは、思った事もあったわけよ」
「……」
―――きっと、ずっと私は。
「けど、結局晴高はいつも優しく笑うだけで。それ以上の顔しなかった」
凛としていた。
毅然としていた。
いつもまっすぐ前を向いていた。
何の迷いもないみたいだった。
たった一つの不安さえ。
たった一つの悲しみさえ。
どんな小さな弱さでもいい。
どんな小さな悩みでもいい。
そんな些細な顔さえも。
「私には見せてくれなかったよ」
完璧じゃないあなたの姿を。
「だから、私にとってあの人の思い出は、きれいなままだよ」
―――笑い話と一緒に。空へ―――。
「だから……晴高がその空で何を思って。何を求めて飛んでいたのか、私にはわからないけれども」
生きる事のすべてを、飛ぶ事に懸けた人。
「あの人が、上官の指示に文句言ってボコボコにされたとか、命令違反して地下に監禁されたとか。悩んで悩んで飛んだ事も、その時にどれほど悲しい事があったのかも。自責の念に死のうとした事なんか」
知らないけどさ。
「出たトコ勝負で真冬の夜中、仲間を助けに草原を突っ走ったって話もあるから……あの人もやっぱ、あんたと同じ、本当はかなりバカっぽかったのかもね」
「……バカですか」
瑛己が小さく苦笑した。それにニヤリと笑って「うん」と即答した。
「運命の女神様は、バカでまっすぐで、すっごく悩んでても顔に出せないような……そんな奴が好みなのかもね」
瑛己がここにいる理由を海月は知らない。
だが何かあったのだろう……夜空を見つめる瑛己の背中が、誰に問い掛けているか。海月はすぐにわかったから。
「海月さん、俺……」
瑛己の声は、揺れていた。
それに海月は軽く目を見開いた。
「俺……」
それっきり。瑛己は黙り込んだ。
どう言葉にしたらいいのかわからない、どうしたらいいのかわからない……彼のそんな背中を優しく撫で、海月は言った。
「……何があったか聞かない」
無責任な助言をして、それであなたを傷つけたくないから。
「だけどもね、瑛己。答えは一つじゃない―――晴高が好きだった言葉よ」
「……」
「考えて考えて……悩んで悩んで。そうして答えを探す事もあるわ。あの聖 晴高でさえね。空を飛ぶ事、どれだけの想いを抱えて、不安を抱えて。彼だって飛んでいたかわからない。そしていっぱいいっぱい考えてこれが正しいと思って出した答えすら、信じられなくなる事もある」
それが絶対正しいと、神に誓う事ができた答えですらも。
「……」
「ただ、」
目を閉じた海月の瞼に、優しいあの笑顔が蘇った。
「例えどれほど万人に罵られ、後世に嘲られるような答えであっても。それを出すのは自分自身よ。そしてそれを信じる事ができるのも、その意志を誇る事ができるのも」
脳裏に浮かぶ、聖 晴高の瞳が。
「たった一人。あなたの人生は、あなただけのものよ」
振り向いた瑛己のその瞳と重なった。
海月は緩やかに微笑むと、瑛己の肩をトントンと叩いた。「風邪ひいちゃうよ」
「帰ろ? あったかい物飲みたい。どーせ何にも食べてないんでしょ? ごちするからさ」
「……」
小さく頷く瑛己にニッコリ微笑むと、海月は満天の星空を見た。そして瑛己の手を取り、心の奥で呟いた。
これでいいよね、と。
酒に濡れた石塔が、キラリとほのかに瞬いた。
◇ ◇ ◇
翌日。
327飛空隊は、北塔の第5会議室に召集された。
瑛己の姿も、そこにはあった。
部屋に現れた彼に秀一は安堵の笑みを浮べた。そんな彼を「阿呆」と小突いた飛だったが、彼も内心ホッとしていた。
だがそれによって事態が変わるわけではない。
その場で、居並ぶ彼らに伝えられたのは、作戦決行の日程であった。
一週間後―――。白河が低い声音で言ったのは、紛れもなく、空(ku_u)撃墜の行程だった。
「一週間後、『音羽』の南・『輝向(kikou)湾』上空を、【空(ku_u)】が通過する」
『湊』の南東に位置する『音羽』海軍基地。その南、なだらかな山地を越えた向こうに、『輝向湾』という海がある。
その昔、ある偉い法師が海にかけられた呪いを解き、漁業の繁栄と永遠の光を祈ったとされる湾である。
その伝説もあり、神に祝福された海・幸福の海として、『蒼国』でも有名な所である。実際その海の水で病気が治ったという噂もあり、遠路はるばる訪れる者も少なくない。
そこで空(ku_u)を迎え撃て、と。
瑛己の向かいに座っていた新が、皮肉げな苦笑を浮べた。
「出立は、5日後。『音羽』を経由して向かってくれ」
白河はそれで口を閉ざし、一堂を一人一人見渡していった。
そして最後、瑛己の目と会った。
「……」
先に目をそらしたのは、白河の方だった。
「よろしく頼む」
そう言って、白河は部屋を出て行った。
室内に沈黙が落ちた。
それを打ち止めたのは、小暮の大きな溜め息だった。
「隊長、どうされるんですか?」
「……」
視線が磐木に集まる。だが彼は動じた様子もなく、ふっと息を吐いた。
「訊くな」
その声が、ワンと部屋に木霊した。
「冷静に見て」ジンが、煙草に火を点けながら言った。「分はどちらにあると思う?」
小暮の眉間にしわが寄った。「五分五分」
「……そう言えればまだ楽ですが。客観的に見て、難しい戦いになるでしょうね」
小暮は眼鏡を持ち上げると、深く瞬きをした。
「ざっと〝彼〟の事を調べてみましたが……その経歴には、目を見張るばかりです。〝彼〟が初めて空に現れたのは今から5年前。当時権勢を誇っていた空賊集団、【南十字】をたった一人で撃破・壊滅した事に始まります。
彗星のように現れた〝彼〟は、その後も、護衛や迎撃、様々な仕事を請負って飛んでいますが、……いまだ、〝彼〟が墜ちたと報じられたただの一度もありません。撃墜記録は正確にはわかりませんが、歴代に存在するどの撃墜王も及ばない、文字通り、空に並ぶ者はないと言われています」
「『獅子の海』……」
呟いた新に、飛が頷いた。
「俺はあん時……背筋がブルって止まらなかったっすよ……」
不意とはいえ、あの無凱の翼を砕き、そして退かせたあの飛行。
鳥。空を自由自在に駆け巡り、太陽の光に輝く真っ白い鳥―――。
「俺ら全員が束になって、それで、足りるんですかね」
新がハハハと笑いながら言った。
『湊』第23空軍基地、第327飛空隊・通称『七ツ』。『蒼国』空軍関係者でその名前に覚えがある者は多い。
前線基地と言われる『湊』の中でも、最も激戦を潜り抜け、空のならず者達を沈めてきた者達である。
最近ではやはり『獅子の海』。【天賦】と渡り合い輸送艇を守り切った話は、既に広く知られる所である。
だが―――。それが、誰の力によるものなのか。彼らは知っている。
そして目の当たりにしたその、〝絶対の翼〟を墜とせと。
「空は、飛んでみなければわからない」
ジンが灰皿に煙草の先端を傾けた。
「死んだ後、後悔するのはまっぴらだからな」
そう言って彼はチラリと瑛己を見た。
「作戦会議だ」
ガタリと音を立てて、磐木が立ち上がった。
瑛己はジンの横顔を見つめた。そして目を伏せ。
ゆっくりと、その目を空へと向けた。
その目が一瞬、青い空の色を浴びて、同じ色を灯した。
だが、瑛己にその空は、灰色に見えた。
白黒の空は、どこまでもどこまでも続いているようで。それでいて、墨をこぼしただけのまっ平らにも見える―――。
それから連日、327飛空隊は会議室と空を行ったり来たりした。
様々な作戦を練り上げ、それを踏まえての空での訓練はかなりの熾烈を極めた。
だがどれほど飛んでみても、これで充分だと誰も思えなかった。
あの白い翼がこちらを向いた時。その身が太陽に翻った時。
その時自分達は一体どうなるのか……誰しもが脳裏にあまりにも濃い不安を抱え、あえて口にしなかった心に。赤い閃光を見なかった者はいなかった。
すなわち―――自分が爆破する瞬間を。
そしてその朝は、やってきた。
◇ ◇ ◇
飛行服を身にまとい、瑛己は、石塔の前に立っていた。
開けたばかりの空には、薄いピンクがかかっている。
それを仰ぎ見て、瑛己はそっと臙脂色のマフラーに手をやった。
そして、
「父さん」
小さな声で呟いた。
瑛己の脳裏に浮かぶのは、写真の中の父の姿。セピア色に身を染めて、飛空艇の前で微笑む父の姿だけだ。
母がそれを時折、とても淋しそうに眺めていた事を瑛己は知っている。
そしてそんな母が言っていた。父が残したというたった一つの、瑛己への言葉。
―――自分の空を行け。
「……俺は父さんみたいにカッコよくは、生きられない」
だけどせめて。だからせめて。
(自分の空……)
「行ってきます」
そう言って、瑛己は歩き出した。
昼過ぎ。快晴の空を、7つの青い鳥が翔けて行った。
太陽の光に空も海も、世界はキラキラと輝いていた。
だが鳥はそれに目もくれず、勢いよく南へ飛んで行った。
それはまるで、空を引き裂かんとするかのように―――まっすぐ、まっすぐにと。