『命令(obligation)』-1-
ギィという床板のきしむ音に、彼女はそちらを振り返った。
そこに、見慣れた女性が立っていた。
黒のスーツに身を包み、凛然とした空気を放つ女性。そのルージュが、輝くように印象的だ。
彼女は少しの間その女性を眺め、やがて、ゆっくりと瞬きをした。
「……時島さん」
女性は緩やかに微笑むと、居間へ一歩足を踏み入れた。
「どうですか? 具合は」
その問いに、彼女は曖昧に笑って「ええ、まぁ」と頷いた。
「腕の怪我は?」
「はい。まだ少し痛む事もありますが、随分よくなりました」
「それはよかった」
時島は嬉しそうに微笑んだ。
だが彼女の顔は、逆に、少し険しくなった。
それを見て、時島は笑みを和らげ、そして静かに頷いた。
「仕事です」
「……」
彼女は時島から顔を背け、明後日を向いた。
しばらく、無言の時が流れた。
その間、黙って彼女を見ていた時島だったが。不意に声を潜めるように瞼を伏せた。
「まだ無理だと、伝えますか?」
「いえ」
即答だった。「出ます」
その目には、仕事だと言った時、一瞬浮かんだ迷いの色はもうなかった。
時島は小さく微笑むと、「わかりました」と頷いた。
「日程など、詳しい詳細は後日。また連絡に参ります。それまでに、体勢を整えておいてください」
「わかりました」
それで会話は終わり。時島は去り、自分はまた一人になるんだ……彼女はゆっくりと瞬きをしながらそう思った。
だが、時島は部屋を出て行かなかった。
無言で立ち続ける時島に、彼女は訝しげに顔を上げた。
じっと。時島がこちらを見ていた。目が合うと彼女は一度視線をそらし、そしてまた、時島を見た。
「恵さん……?」
時島の真剣な眼差しに、彼女はその名を呼んだ。
時島 恵(tokisima_megumi)は小さく息を吐き、そして呟いた。「空」
「あなたはなぜ……あの時、あのような事をしたのですか?」
「……」
空と呼ばれた少女は途端、目をそらした。
そしてじっと自分の手の甲を見つめる少女に、時島は少し苦笑し、そして自分の胸に手を当てるようにして言った。
「空、私はあなたを責めているわけではありません」
「……」
「ただなぜあなたが、身の危険も顧みず、あのような事をしたのか。少し気になって」
「……」
「あの少年が助けてくれたから、ですか?」
彼女は俯いたまま、虚空を眺めた。
時島はそんな彼女を眺め、そして答えを待った。
「……そうかも、しれません」
沈黙の果てに彼女が口にしたのは、そんな言葉だった。
「自分でも……よくわかりません。ただ……」
「ただ?」
彼女の目の前にあの時の光景が蘇った。
天より現れた、【竜を狩る者】。
自分に向けられた銃口。逃れられないと思った時。
彼女はその瞬間、まっすぐな誰かの瞳を感じた。
そしてグイと、抱きしめられた気がした。大きな腕で、優しく……包まれたような気がした。
温もりを感じた。
だがそれが火を吹いた。
自分を守った誰かが、その空に、崩れるように墜ちていく。
それを見て、彼女の腕は、勝手に動いていた。
この人を助けなければいけないと。
絶対に助けなければならないと。
―――助けたいと。
気付いた時、もう、走り出していた。
「空」
「おじさんは?」
彼女は時島を見た。その目が凛と一つ、輝きを灯した。
時島は静かに目を伏せ、「いいえ」と首を横に振った。
「今回の件は、フライト中の事故と告げてあります」
「……恵さん」
「しかし、あなたはもっと自覚しなければいけない」
時島の声は、刃のような響きを持っていた。
「あなたの翼にどれだけの価値があるのか―――その背中に生えているのは、〝絶対の翼〟だという事を」
そして自分が、何を背負って飛んでいるのかを。
「……はい」
少女は小さく返事をした。
その小さな肩に、時島の胸にチクリと刺すものがあったが、彼女は気付かない振りをして背を向けた。
「そういえば」
ふと思い出したように、その背を向けたまま時島は呟いた。
「あの少年から、伝言があります」
「……」
「ありがとう、と」
「……」
「では、今日はこれで」
背を向けた時島の顔はわからない。
だが、少女の顔がかすかに緩んだ。
彼女は外を見た。
空には羊雲が、ふわふわと広がっていた。
「……ありがとう」
彼女は空に向かって呟いた。
そしてふっと立ち上がった。
洗濯をしよう、そう思った。
8
欠伸をかみ殺し、瑛己は手元の珈琲に口付けた。
そして一旦視線を本から外すと、窓の外を見た。
午後の陽射しが心地いい。
瑛己は眩しそうに目を細めると、短く息を吸い込んだ。
世界が無限に、平和に思えた。
「……」
かすかに苦笑して、再び視線を本に戻そうとした時。
「瑛己」
向こうから、声が飛んできた。
見ると飛が、食堂のラウンジの柵をヒョイと飛び越してくるところだった。
「やっぱりここやったか」
ポケットに手を突っ込むと、ガラガラのテーブルを蹴飛ばすように歩いてくる。
昼時を過ぎた食堂に客はほとんどいない。飛の声も、ワンと響く。
「何しとんのや」
問われ、瑛己は本を掲げた。それに飛は「げぇっ」と顔をしかめた。
「こないな時に、文字の軍団眺めて何が面白いんや」
「こんな時に、こんな時間まで眠っているよりはマシだと思うけど」
飛は胸ポケットからマルボロを取り出すと、「阿呆」と一本取り出した。
「こないな時やからこそ眠れる時に眠る。常道や」
瑛己は息を吐き、そしてまた窓に目をやった。
―――『零地区』の飛行から、2日が経っていた。
瑛己達327飛空隊は、総監・白河から3日間の休暇を命じられていた。
激戦の後、特に磐木、新、小暮に配慮したものだった。わかっているだけに、飛ですら何も言わなかった。
その折、瑛己と飛の謹慎は正式に解かれた。総監の口添えもあったが、磐木もそのつもりでいたようだった。
あれから、瑛己は前以上に空を見る事が多くなった。その雲の中に、その蒼の中に……無意識に、何かを探すように視線を走らせてしまう。
それは飛も同じだったのかもしれない。テーブルに足を組んで座ると煙草に火を点け、空を見た。
「いい天気だな」
瑛己が言った。
「せやな」
飛が煙草を吹かせた。
「あの話、結局総監は大っぴらにせんかったみたいやな」
「……」
この広い空の下で。誰もが幸せに平和に暮らし、生きている……そんな夢を描くのは、愚かな事なのだろうか?
―――磐木達が聞いたという、謎の無線。瑛己達が『零』の空で見た、灰色の編隊。
そして最後に現れた、一機の、漆黒の飛空艇。
すべてが等しく、一つの符合で結ばれようとしている。
隣国―――『黒』。
「最後に出てきたあの飛空艇は、確かに、『黒』の『月之蝶』に似ていた……まぁ、紋章は消したったけどな。小暮さんが言うとったわ。『黒』は極秘で動く時、必ず出所を残さんてな」
「……」
「そして仲間やろうと、何やろうと、口封じは躊躇わへん」
瑛己は溜め息を吐きながら、珈琲を飲んだ。
隣国『黒』。『蒼』と『黒』は、ここ数年来、ギリギリの均衡を保ちつつ、何とか平穏を守ってきた。
だが歴史を紐解けば、『蒼』と『黒』は戦争の歴史だ。
一番古いものに至っては、創世の頃にまで遡る……。海を挟んで向かい合う2つの国は、いつも互いを牽制しながらここまで過ぎてきたのかもしれない。
だがそのような歴史に惑わされていては、新しい世など築けない。お互いがそう言い出したのは、100年ほど前の事だ。
いつまでも過去に捕われいがみ合うのではなく、理解し協力し合ってこそ、真の平和が生まれるのではないか……当時の蒼国王と黒国王、2人の英断により平和協定は結ばれた。
そしてそれから、確かにきな臭い空気が漂った事もあったが、現実として戦火が吹くにまでは至らなかった。
「まぁ、俺は歴史はようわからへん」
飛はポツリと呟いた。そしてトンと灰皿で灰を落とした。
「今度の事かて、『黒』が何考えて何しとったんかはわからへん。せやけど引っかかるのは」
「〝零〟……」
明後日の空を見て、「せや」と言った。
「あないないわくつきの場所で、何をしとったのか。それも、仲間の口を封じないかんような……何を、しとったのか」
「調査は」
「『音羽』が血眼になってやってるっちゅー話や。あそこも身内をやられてるからな、せやけど、なーんも出てこぉへん。すべては海の藻屑、空の散雲や」
「……」
瑛己は飛とは反対側にある窓を眺め、ポツリと呟いた。
「これから、どうなるんだろう」
飛はふーっと長く息を吐き、「さぁな」と言った。
「どないなサイが振られた所で、俺らはただ、飛ぶだけや」
相手が空賊であろうと、例え、一つの国であろうと。
瑛己はそっと目を閉じた。
(父さんだったら)
こんな時、どう思ったのだろうか……不意にそんな考えが心を過ぎった。
そして、あの少女だったら……。
そんな時だった。
「飛、瑛己」
ドカっと、2人のテーブルに乱入してきた者がいた。
元義 新だった。
新はテーブルに顔を伏せると、飛の腕を引っ張り、瑛己の肩を引き寄せた。
「ど、どないしたんスか??」
突然の事に体制を崩しかけた飛は、目を丸くして新を見た。
だが、頬に星のペイントをしたこの年上の飛空艇乗りは、らしくなく真剣な面持ちでテーブルの傷を睨んでいた。
「今、偶然聞いた話」
「……?」
低く声を潜める新に、瑛己の顔も険しくなった。
「どうしたんですか?」
神妙に訊くと、新は瑛己に向かって小さく頷いた。
「明日、ここに、客がくる」
「客?」
「『黒』の軍関係者だという話だ」
その言葉に、瑛己と飛は顔を見合わせた。
それだけ言うと新は2人を放し、ヒョイと立ち上がった。
「まだ『七ツ《おれら》』以外は知らない話だ。どうせ時間の問題でバレる事だが……まだ、他所には言うなよ」
「なぜ……?」
訝しげに問う瑛己に、新は口を尖らせた。「知らね」
「けど、まだ2日だろ? どうも……いや~んな感じはするわな」
「口止め、っスか」
「そんなトコだろ」
新は耳の端をポリポリ掻き、テーブルに尻を引っ掛けた。
「それも小暮が仕入れたトコによると、結構ポストの高い奴がくるらしい……難儀な事だ。今、総監達はてんてこ舞いだっつー話」
「……」
「で、小暮ちゃんから2人に伝言。くれぐれも大人しくしてるように!」
「なんスかそれ。何やそれじゃぁ、俺達が、しょっちゅう問題起してるみたいやないスか」
〝達〟という言葉に、瑛己は露骨に顔をしかめた。それを見た飛がムッとした様子でそれに食って掛かった。
「何や瑛己、その顔は。まさかお前、〝運命の女神にぞっこん惚れられてる分際〟で、まさかまさか、自分は真っ当な人生歩んでますと?? 問題なんぞミジンコほども起してませんと??? 言うつもりやないやろな」
「……」
「ともかく。お前らの見張りは秀一に頼んでおいたから。頼むぞ」
「げぇっ! 秀かいな」
あいつ無茶苦茶チェック厳しいからなぁ……嫌そうに飛が喚いた。
そのそばで瑛己は静かに新を見て言った。
「変な事にならなきゃいいですが」
新は片方の眉を上げ、苦笑した。「そりゃなるだろ」
「わざわざこっちの基地まで出向いて、〝変な事〟一つ言わず大人しく帰って行くようなタマじゃぁ、『黒』の軍の重責なんぞ担ってられんのじゃないのん?」
「……」
「まぁ、相手の出方、お楽しみってトコかな」
気楽に笑って立ち上がると、新は背を向け去って行った。
瑛己は空を見た。
天を行く雲が、何かを訴えているように見えた。
だけどどれほど目を凝らして見ても、それが何を言おうとしているのかわからなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
『黒』からの使者は、昼を少し回った頃に現れた。
公には「首都『蒼光』へ向かう途中の中継と、施設内の見学」という触れ込みだったが。瑛己達327飛空隊の者は、西の空から現れた漆黒の飛空艇を固唾を飲んで見ていた。
それは、総監・白河も同じだった。
穏やかな笑みの中に険しさを漂わせ、滑走路で『黒』からの使者を迎えた。
「この度は突然の訪問、失礼を致します」
大型の複数搭乗型飛空艇から降り立った数名のうちの1人が、白河を見るなり丁寧に頭を下げた。
若い。歳はまだ20も半くらいだろうか……? 微笑む白河の目じりに、緊張感が走った。
『黒国』の軍服を凛然と着こなし、しわ一つない。無造作に垂れた長めの前髪、その間から覗く瞳は、垂れ目勝ちだが、鋭く輝いている。
そしてその右目には、片輪の眼鏡を引っ掛けていた。
「『黒国』黄泉騎士団所属・第1特別飛空隊隊長、埠頭と申します」
埠頭は余裕の笑みを浮べ、供の者に待機を命じ、白河に向かった。
「座、頼む」
「イェッサ」
「―――行きましょうか」
総監室へ案内しながら白河は、内心冷や汗が出るのを感じた。
部屋に入り一心地つくなり、埠頭は余裕の笑みを浮べたままこう言った。
「回りくどい話はやめましょう。単刀直入に申します―――本日こちらにお邪魔しましたのは、先日こちらの基地所属の編隊に、当国所属の飛空艇を規定外領域で、布告なしに爆撃を受けました事に対する抗議に参りました」
「ほう」
白河は息を吐いた。
「その話は聞き及んでいます。ですが埠頭殿、私が受けた報告では、先に仕掛けてきたのは相手側であると。消息を絶った巡視船の捜査で『零海域』に入った途端、前触れなく灰色の飛空艇が襲い掛かってき。応戦より他に、身を守る術がなかったと聞いています」
埠頭は片輪眼鏡をカチリと持ち上げ、白河を見た。
「第三者の証言がおありですか?」
「いえ、あくまで当事者の証言に頼りますが」
「ならば真か疑か、容易に判別できる事ではないはず」
「私は彼らを信じています」
まっすぐに言う白河に、埠頭はクックと笑った。
「白河殿、これは『黒』と『蒼』との国交問題になりかねない事態ですよ?」
「……」
白河はかすか眉間にしわを寄せた。
「こちらに非があると?」
「断定はできない、そう申しているのです」
「彼らの証言によれば、『零』に入った途端、機体が謎の不具合を起したと。そして現れた灰色の編隊は、彼らに銃口を向けた挙句、突然爆破して果てたと聞きます。まるで誰かに、無理に自爆を強制されたかのように。関った者の口を塞がなければならないほど、一体、何をなされていたのか」
「それをここで貴殿に、説明する必要はないと思われますが?」
埠頭の目が痛いと、白河は思った。
その双眸はまるで、こちらの心の奥底まで覗くかのような……奇妙な輝きを灯していた。
白河の脳裏に、ふと、327飛空隊の面々の顔が浮かんだ。
彼らがここにいてくれたら……。そう思って、内心苦笑した。
それでは簡単に戦争が始まる、そんな気がしたからだった。
「何がお望みですか?」
かすかに顔の緩んだ白河に、埠頭は眉をピクリと動かし、再び余裕の笑みを浮べた。
「望みなど……そのような事」
ただ、と言って埠頭は袖口の埃を取った。
「今回の件を、橋爪・軍部最高統括総司令長官殿も大変遺憾に思ってみえるご様子」
「……」
「こちらで内々に協議した結果、問題の飛空隊に当方の要請で、一つ、飛んでいただこうと。それで互い、今回の一件はなかった事に」
白河は拳を握り締めた。
確かに今度の一件、橋爪総司令にも報告はした。だが……自分の知らない所でそのような事になっていたとは。
一瞬、兵庫の声が聞こえたような気がした。大馬鹿野郎、と。
「……そのような連絡、受けておりませんが」
最後のあがきだった。だが、
「白河殿は、戦争を始めたいのか?」
「……」
「橋爪殿には、私から話をしますと申してあります―――余計な心配は無用です」
白河はただ、小さく頷くしかなかった。埠頭が深く微笑んだ。
「『湊』第23空軍基地、第327飛空隊・通称『七ツ』……簡単に調べさせていただきました」
埠頭は懐から紙を取り出すと、チラと眺めた。
「隊長・磐木 徹志氏を筆頭に、中々いい腕を持ったパイロットがそろっているようだ。【天賦】とも対等に渡り、今までどれだけの空賊を撃破してきたかわからない。その腕前は、当方も身をもって存じておりますがね」
「……」
「中でも、副長・風迫 ジン殿は―――。相当のパイロットとお見受けしましたが?」
「……作戦内容を伺いましょう」
それ以上を許さぬように、白河は埠頭を見つめた。
彼はそんな様子に軽く肩をすくめ、「そうですね」と言った。
「作戦……と言っても、とてもシンプルな物です」
埠頭は人差し指をスッと立てた。
「鳥を一匹、始末していただきたい」
「鳥……?」
「そう」
埠頭の顔が、嬉しそうに歪んだ。
「この空に並ぶ者はいないと言われ、撃墜した者は、空の歴史に名が残るとまで言われる……絶対の翼を持つ、白い鳥」
「―――!」
「【空(ku_u)】。その名を持つ鳥を、327飛空隊には墜としていただく。―――これは命令です」
空を行く雲から、パラリと涙が零れ落ちた。
だが、太陽と蒼い空に包まれたそれに、誰一人、気付いた者はいなかった。