『零地区(area_zero)』-2-
「一体、どういう事ですか!?」
飛の声が震えていた。
右足が半分前に踊り出た。それを止めたのは、秀一だった。
「飛ッ」
ガシリと腕を掴むと、目で訴える。
しかし飛はそんな秀一を睨みつけると、再び、総監・白河に向かって吠えた。
「磐木隊長たちがッ……帰ってこないって!? どういう事ですか!? 総監ッッ」
「飛」
その時、入口の脇でジッと黙って腕を組んでいたジンが、低く口を開いた。
「黙ってろ」
「―――!」
せやかてジンさんッ……そんな言葉が出かかって、しかし彼はハッと口をつぐんだ。
ジンの目が。
刃を含んだ視線……? いや、そんな優しいものじゃない。
目だけで制する、狼の眼。
最後に総監室の戸をくぐった瑛己は、それを見て、ゆっくりと瞬きをした。
そして、静まり返った室内の緊迫した空気を封じるように。部屋の扉を閉めた。
扉のキィという音に、少しだけ胸のざわつきが息を潜めた気がした。
瑛己はノブを戻すと、秀一、飛、ジン、そして最後に白河を向いた。
窓辺に立ったままの白河の表情は、逆光のためによく見えない。
「掛けてくれ」
そう言われて、動く者はいなかった。
「……総監」
瑛己が、ポツリと呟いた。
白河はチラと瑛己を見、そして息を吐いた。
「君らがここへきたという事は……聞いたのか。磐木達が、戻らない」
瑛己の心臓が、コトンと切なく声を上げた。
その時思った。ああ自分がここへきたのは、否定の言葉を聞くためだったのかと。
―――瑛己と飛、秀一がその噂を聞いたのは、今朝。食堂へ行った時だった。
誰が教えてくれたわけでもない、だが、基地を駆け抜けるその風は、知らず3人の耳にも飛び込んできた。
「お前ら、阿呆か」
飛は、そこで3人ばかりと殴り合いをしている。
「磐木隊長が帰ってこん? どっかで撃墜されたやと? ―――ド阿呆。あの人がそう簡単に死ぬか」
秀一と瑛己が間に入って必死に止めている時。そこへジンが現れた。
「馬鹿が」
その言葉は、瑛己達に言ったようにも、基地全体に言ったようにも取れた。
「行くぞ」
「……どこへ……」
ジンは黙って一人歩き出した。それを追いかけ、そうして4人、ここにたどり着いたのである。
まだ朝早いにも関らず、白河はそこにいた。そしてまるで来る事がわかっていたかのように、普通に彼らを迎え入れた。
「一体どういう事ですか」
ひょっとしたら総監は、ここで一晩過したのかもしれない……そう思いながら、先ほど飛が使ったのと同じ言葉で、もう一度瑛己が尋ねた。
白河はやや間を置いて、小さく頷いた。
そして。瑛己と飛は初めて、今回の作戦の事を聞かされたのである。
飛は何か言いたそうに身を乗り出しては、それを飲み込んでいるようだった。
そんな彼の腕を、秀一は離さなかった。その手が、堪えてくれと飛に訴えているのを。飛自身が一番よくわかっていた。
ジンは壁に背を預け、ポケットに手を突っ込んでそれを聞いていた。
瑛己は……。ジッと白河から目をそらさなかった。だがその胸には、色々な思いが駆け巡っていた。
「磐木、小暮、元義の3人は、昨日の朝早くに基地を発った」
目指していたのは、巡視船が消えたという〝零地区〟。
「一帯の様子を見て周り、結果如何に関らず夕方に帰還の予定だった。だが、現実、夜が明けても戻らない。どころか、連絡一つないとは……磐木が何の理由もなしにそんな事をするとは……」
「となると、連絡すらできない状況、だと?」
白河はジンを見て、肯定とも否定ともつかない、首を縦横させた。「わからない」
「……確か、巡視船は何かを追って、そのまま行方不明になったんでしたよね? ひょっとして、隊長達が連絡できないのも、同じ事が理由なんじゃ……」
秀一が小さな声で言った。それに総監は「かもしれん」と答えた。
「どちらにしても、何か連絡があったら君たちにすぐに知らせる。今少し、辛抱を頼む」
「辛抱?」
飛の肩眉が、ピクンと跳ねた。
「それは、このままここで、隊長達が死ぬの、待っとれっちゅー事ですかい?」
「飛ッ!」
「同じ事やないか!」
腕にしがみつく秀一に向かって、飛は怒鳴った。
「かもしれん? わからへん? 連絡ができんっちゅー事は、そんだけ、状況がひっ迫しとるっちゅう事やろがッッ! 相手はあの磐木隊長やぞ? それが、動けもできず、何しとるっちゅーんや!! 茶ぁでもしばいとるっちゅんか!! せやのにここで一体、何してろっていうんだ!!」
顔は秀一を向いている。だが、言葉は白河を向いていた。
わかっていて、秀一は黙ってそれを受け止めた。それは、飛の気持ちがわかるからこそだった。
作戦内容どころか、そこに呼ばれる事もなかった。
そして知らされたのは、事態が悪くなってから。
瑛己は黙っている。怒鳴ったりしない……だが、彼も心中は複雑だった。
謹慎中の身だ。それだけの事をした。これでもむしろ、軽いと思っている。
だがせめて―――聞きたかった。教えてほしかった。そう思うのは、勝手な事なのだろうか? 瑛己は瞼を伏せた。
「すまない」
白河の声はかすれていた。「すまない……」
その時、ジンが一歩前に出た。瑛己、飛、秀一の3人が、ハッとその背中を見た。
白河の顔が、かすかに強張った。ジンはソファを挟んで彼の前に立つと、おもむろに、腕の時計を外した。
「風迫君」
「お返しします」
それをカタリとテーブルの上に置くと、彼は背中を向けた。
「待て」
「俺は、自分の目で見た事しか信じない」
ポケットに突っ込んだまま、ジンは目を閉じた。
逆光に背を向けて立つ彼の顔は、瑛己の目には、ほのかに笑っているように見えた。
「待つのは飽きた。いい思い出がないんでね」
それに、隊長には恩がある。
「……風迫君……」
「俺の道は俺が決める―――あんたに、責任はない」
それだけ言って、ジンは瑛己達の横をすり抜け出て行った。
「副長!」
バタン。扉が閉まる音が、心臓に波紋のように広がった。
そしてその瞬間秀一が、大きく目を見開いた。
「……あ……」
途端、その手が震え始めたのを。飛は驚いて彼を振り返った。
「秀」
「……かき」
秀一のその様子に、瑛己と飛は顔を見合わせた。
そして瑛己は大きく息を吸い込むと、小さく吐き出し、まっすぐ白河を見た。
その目は、凛と、澄み切っていた。
「総監、僕らも行きます」
白河は、そんな彼を眩しそうに見つめた。「そうか」
「すまん。……いい。私からも頼む」
磐木達を探してくれ。―――助けてくれ。
「聖……頼む」
「はい」
瑛己は飛と秀一を目で促した。
そして2人が部屋を後にし、最後に戸をくぐろうとした時。瑛己はもう一度白河を見てこう言った。
「必ず全員で戻ります」
その言葉は、白河にとって魔法になった。
「任せた」
ガチャリ。
閉じられた扉を見て、白河は、泣きたい気持ちにかられた。
「聖……頼んだぞ」
白河の瞳には、〝あの日〟の光景が蘇っていた。
凛然と笑い、二度と戻る事なかった友と。
泥と汗と怪我にまみれながらも、自分を殴った、かつての友と。
「……頼む……」
それは、総監・白河の言葉ではなく。白河 元康という一人の男の、心の叫びでもあった。
「秀」
部屋を出るなり、飛は秀一の両肩を掴んだ。
「何を見た」
総監の部屋を出た瑛己が最初に見たのは、戸惑いの表情を浮べる秀一の横顔だった。
「飛……」
「言え。お前……見たんやろ? 何か、今、見たんやないのか?」
「……」
秀一は目をそらした。それを、飛は許さなかった。「言えんような、光景か?」
「隊長達が爆死する所でも見たか? 秀一」
「……おい」
止めようとした瑛己を制したのは、秀一本人だった。
そして、彼は静かにこう言った。
「何かはわからない。けど……ジンさんが総監室から出て行った時、何かが、爆発した」
「磐木隊長か」
瑛己は眉をしかめて飛を見た……さっきから聞いていると、こいつ、実は磐木隊長に死んでいて欲しいんじゃあるまいか……?
「違う……と思う。わからない。だけども目の前が真っ白になったんだ。何かが……爆発したのが見えた」
「……そうか」言った飛の顔は、どこか残念そうにも見えた。
「確かなのか」
瑛己は、半信半疑、尋ねた。
秀一が〝予言屋〟と呼ばれる事は知っていた。何度か、出撃前に彼が言った事が当たったのだと……だが、本当にそんな事があるというのだろうか?
未来を見る事ができるなどと―――そんな事が?
秀一は、どこか不安げに首を縦に振った。「ともかく」
「嫌な予感がする……急ごう」
『湊』空軍基地を飛び出した4機の飛空艇は、滑るように駆け出した。
その空は、風一つ吹いていなかった。
西へ。
その先に、一体何があるというのか。
磐木隊長は? 小暮、新は?
〝真実が知りたいだけだよ〟
あの男、田中の姿が、脳裏に浮かんだ。
そして同時に、
〝俺は、自分の目で見た事しか信じない〟
瑛己は前を行くジンの機体を見た。そして、ぎゅっと操縦桿を握り締めた。
西へ―――〝零〟と呼ばれる場所へ。
それが、すべてだ。
◇ ◇ ◇
薄暗い部屋に、ディスプレイの電子的な明かりが、ワンワンと鳴り響いていた。
カタカタカタ
その前に座り、一人の男が延々とキーボードを叩いていた。
その音は、単調にも聴こえる、そして無限にも聴こえる。
男は鼻筋に引っ掛けた片方だけの小さな眼鏡を持ち上げると、「ザ」と言ってまたキーボードを打った。
それは一瞬で溶けてしまったかのような、一つの〝音〟であったが。
「うぃ」
彼の背後に、一人の男が姿を現した。
「首尾は」
男はニヤと笑い、「上々」と言った。
「こっちももうすぐ終わる」
片輪眼鏡の男はディスプレイから目を離さず、マウスに手をやった。
「それで、例の3機は」
それに男はギクリと肩を揺らした。
「捜査中」
「探せ」
「うぃ」
「まだ近くにいるはずだ。見つけ出し、殺せ」
放るようにマウスを置くと、再びキーボードの乱打が始まる。「ザ、指揮はお前に任す」
「うぃ」
ザと呼ばれた男は嬉しそうに返事をすると、敬礼のポーズを取った。
「フズ。そういえば、連絡」
「何だ」
ザは可笑しそうに笑うと、その目をキラリと輝かせた。
「カシラが生きていた」
「わかったのか」
「ああ」
「……後で詳しく聞く。行け。予定を忘れるな」
「イエッサ」
ザがいなくなると、片輪眼鏡の男は小さく口元をほころばせた。
「生きていたのか」
ダンと、大きく最後のキーを打ち込む。
と同時に、ディスプレイの映像が目まぐるしく縦に流れた出した。
男は天井を見上げると、誰ともなく呟いた。
「楽しみだ」
◇ ◇ ◇
その頃、同じく天を仰いだ者がいた。
「……ふぅ」
男は額の汗をグイとぬぐうと、外した眼鏡をかけなおした。
小暮だった。
汚れた飛行服の袖をまくり、ペンチを片手に彼が見つめる先にあったのは。
うっそうとした樹々に囲まれ、緑に覆い隠されるように横たわる、
半壊した、竜の名を持つ飛空艇であった。