『永劫の丘(Haru)』
『湊』空軍基地から一歩出た所、だだっ広い平原を横切る砂利道の真ん中に、一台の車が止まっていた。
くすんだ橙色《だいだい色》の小柄な車。あまり手入れされていないのがすぐわかる、サンサンと輝く太陽に反射する光は鈍い。
「いい天気だねぇ」
その運転席に座った原田 兵庫は、葉巻を片手にニカッと笑った。
「絶好のデート日和だ」
その時、コンコンと助手席の窓が叩かれた。
「おっ、愛しのマイ・スゥィートハートのご登場か」
固そうに扉を開け、助手席に乗り込んできたのは、
「ごめん、遅くなった」
聖 瑛己、その人だった。
「ううん、あたしも今きた所よ」
「……」
不気味な裏声を出す兵庫に、瑛己は心底嫌そうな顔をした。
「じゃ行こっか、ダーリン」
「……おじさん、降りていい?」
車はドバンと一つ大きく煙を吹き出し、走り出した。
6
しばらくの謹慎を命ずる―――磐木にそう言われ、1週間が経った。
その間、瑛己の怪我はかなりよくなっていた。
そしてここにきて初めて、何事もなく過す事ができた。平和な日常がこれほどありがたいものだとは。21年生きてきて初めて、心から実感した瑛己だった。
のんびりと日々を過す、本を読んだり、音楽を聴いたり。『湊』の町並を散策に行ったりもした。活気のある、中々いい町だと思った。銅レンガの洋風な造りに、似たような建物と入り組んだ路地。最初は迷ったが、道を尋ねれば誰しも、笑顔で気安く案内してくれた。
瑛己はこの町が、この1週間でとても好きになった。
『海雲亭』にもよく顔を出した。店の看板娘・海月に今回の事を話すと、彼女は心配そうな顔と面白そうな顔を両方覗かせた。
「そりゃ一番悪いのは、兵庫だわね」
自分は逃げ出しておいて、瑛己を吹っ掛けるとは……「こっちに顔見せたら、殴っておくから」とニコニコと拳を見せた。
その兵庫は、医務室にあるもう一台のベットに下宿生活をしていた。「瑛己が心配だから」と行く先について周り、彼をからかっては面白がっていた。だが海月の話をすると「殺される。近寄らないようにしよう」と、そこにだけはついてこようとしなかった。
この1週間は、瑛己にとってはそれなりに楽しい日々だった。だがもう1人の謹慎者・須賀 飛は逆に、いつ見ても退屈そうな顔をしていた。
「つまんねー」
煙草の本数を減らすどころか、増えたんじゃないかと瑛己は思った。
腕の怪我が治れるにつれ、ますます、彼の顔は冴えなくなっていった。ボンヤリと虚空を眺め、瑛己や秀一が何を言ってもカラ返事ばかりしていた。
「俺の謹慎いつ解けるか、隊長、何か言ってた?」
飛の頭の中は、それだけでいっぱいの様子だった。いつ謹慎が解けるか、いつ空を飛べるか……。
「完全にお前、中毒だな」
冷やかしがてら医務室にやってきた新は、飛の様子に苦笑を混ぜて呟いた。「そのうち心だけ先に、空に昇っちまうかも」
「作戦中にとり憑かれたらたまらんな」
そう言った小暮に、飛は涙を浮べて嘆願した。
「小暮さーんんんん、どうにかしてくださいよぉぉ」
「悪いが俺は、隊長の鉄拳を食らいたくない」
「新さーんんん」
「あー、俺はもう、隊長の鉄拳を嫌ってほど食ってるから、腹いっぱい」
そう言って、新は自分の左頬を指した。
そこには、黄色い星のマークのペインティングがされていた。
それは、輸送艇護衛の任務を終えた次の日、町に出た時何となく入れた物だった。だがそれを見た磐木は、途端「何だその顔はッッ!!」問答無用に彼をぶっ飛ばした。
もちろんそれは、瑛己・飛の一件で虫の居所が悪かった時―――運の悪い所に出くわした、そういう事である。
「けどお前、それでも消さないんだな」
「あん? だって、気に入ってるもん」
小暮は苦笑いした。同期のこの男の、こういうあっけらかんとした所が、彼は嫌いじゃなかった。
「ともかく、何とな―く言っておくから。大人しくしてろよ」
軽く笑った新に、「期待薄っ……」と呟いた飛だった。
それぞれが、色々な想いを抱いて過ぎた一週間。
「まだ休暇中だろ? 明日、ドライブでもどうだ?」
謹慎中を〝休暇中〟と勘違いしている兵庫に、昨日の夕方、不意に誘われた瑛己だったが。
「……おじさん、この車、大丈夫なの?」
嫌な音を立てて走行する車に、瑛己は心配そうに兵庫を見た。
だが当の運転手は気楽そうに口笛を吹くと、「大丈夫大丈夫」とアクセルを踏んだ。
「あり? アクセルが利かない。ありゃりゃ、ブレーキもダメだわ」
「エッ!?」
「―――なんちって。冗談だよ、ハッハッハ」
「……」
瑛己を驚かせる事を趣味としている兵庫は、高らかに笑った。もちろん瑛己は溜め息を吐いた。
「それにもし事故ったら、白河に請求書出せばいいさ。これ、『湊』の倉庫に置いてあった奴だから」
「……その前に、無断で持ち出した事を咎められるんじゃ……?」
「咎める! 瑛己、難しい言葉を知ってるなぁ。さっすがぁ。立派になっちゃって、おじさん超嬉しい」
「……」
だめだこれは……瑛己は大きく息を吐くと、外の景色に集中する事にした。
窓の外では、草原が広がっている。その向こうにチラリと見えるのは海だろうか。
「どこへ行くの」
瑛己は尋ねた。
だが、どんな返事が返ってくるか、彼はわかっていた。
「内緒」
「……」
瑛己は再び車窓に目を向けた。
昔からそうだ……兵庫は決まって、行き先を言わない。どこかへ連れて行ってくれる時も……自分がどこかへ行ってしまう時も。
そして、瑛己は思った。
兵庫おじさんがこんなふうに自分を誘う時。それはまた、自分の前からいなくなってしまう時なんだ……。
〝自称・郵便屋さん〟。だが彼が本当はどんな仕事をしているのか、瑛己はよく知らない。
しかし瑛己は、別に知らなくたって構わないと思う。
(それで、何が変わるわけでもない)
自分の兵庫に対する気持ちも。その存在も。何も揺らぐわけじゃない。
瑛己はそっと目を閉じた。
窓から吹き込む風が心地いい。
(永遠の別れでもないし)
「……」
瞼に少し、力が入った。
そしてもう一度、同じ台詞を呟いた。
◇ ◇ ◇
『咲ちゃん……』
『どうしたの、一体……その怪我……!?』
『咲ちゃん……ごめん……』
『兵庫くん……?』
『ごめん……俺、俺……』
守れなかった。
『ハルを……ハルがッ………ッ、ハルがッ…………!』
◇ ◇ ◇
「瑛己、おい、着いたぞ」
「……ん、あ、ああ……」
どれくらい走ったのだろう。いつの間にか眠ってしまったらしい……瑛己は目元を擦ると、窓の外を見た。
「こっからもう少し歩くから」
運転席から降りると、兵庫はうーんと伸びをした。
瑛己も車を出た。ほんの少し立ちくらみがして、目を閉じる。
草のにおいがする。
空を仰ぐと、痛いほどの青に、波のような白い雲がサッと流れていた。
「行くぞー」
片手をポケットに突っ込んで、口を尖らせて言う兵庫に、瑛己は短く「ああ」と返事をした。
まっすぐに伸びる道をそれ、車を背中に、草原の中を歩く。
瑛己はチラときた道を振り返った。が、兵庫は迷いなく先へ先へと向かった。
しばらく無言で2人、歩いた。
そして。目の前に海が見えてきた。
沿岸に沿って歩いて行く。そしてさらに行った所で。
「着いた」と兵庫が呟いた。そこは小高くなった丘の上だった。
瑛己は小さく息を漏らした。
そしてそこに、世界が広がっていた。
まるでこの星のすべてのように……180度見遥かな、満天の蒼空。地平線がグルリと線を描き、雲が世界を翔けている。
そしてその半分は碧色の海。崖になった向こうに、海が遥か彼方、太陽を受けて光輝いていた。それはさながら、翼を持つ者を誘うかのような。引き込まれそうな風が髪を揺らし、体の横を抜けていった。
「ここは……」
瞳は、世界に目を奪われたままだった。
兵庫は懐から葉巻を取り出すと、ゆったりとした動きで火を点けた。
「この大陸で、一番西に位置する場所だ」
ふと兵庫を振り返る。と、その傍らに彼の背丈半分ほどの石塔があるのに気付いた。
「色んな呼ばれ方がある……忘れられた場所、最西端の地……だが、俺達、空で生きるもんの間では、こう呼ばれている」
兵庫はふっと息を吐くと、ポツリと呟いた。
「永劫の丘」
「……」
そして兵庫は、その石塔を見た。
その目は、空の蒼と海の碧に洗われたかのように、とても穏やかで、静かなものだった。
その石塔には、こう書かれていた。
―――永劫の鳥 この空に 眠る
◇ ◇ ◇
「あの日の事を、お前にはどう話してあったかな」
「え……?」
兵庫は瑛己を向くと、ゆるく微笑んだ。
「出発前にもう一度、話しておこうと思ってな」
「おじさん」
「んな顔すんな。別に遺言じゃねーよ」
「……」
「本当は、ちょこっとのつもりだったんだ……けど、瑛己があんまりかわいくて、ついつい仕事も忘れて長居しちまった」
「……」
瑛己は顔をしかめようと思って、やめた。兵庫なりの、気の遣い方だとわかっている。
「けどその前にな……お前にもう一度、話しておきたいと思った」
あの日、何が起こったのか。
「俺はお前に、何て言った? あの日の事を……ハルの事を」
兵庫の真剣な瞳に、瑛己は一瞬たじろぎ、言葉を探した。
「……〝空の果て〟」
「ああ」
「父さんは、そこに、消えて行った」
「そうか」
兵庫は目を伏せ、そして海を振り返った。「この先」
「ここをさらにずっとずっと西に行った所……どの国にも属さない、広い海域がある」
「……」
「〝零地区〟そう呼ばれる場所だ。すべてはここで終わり、」
そして始まった。
兵庫の吐いた息が白くもならず、風に溶けて舞い上がった。
「12年前の冬のある日、俺達はその海域を目指し飛んでいた」
不審な艇団が海域にたむろしている。その情報を聞きつけ、兵庫達は直ちにそこへと向かった。
「俺はシンガリを勤めた。斜め前には磐木もいた。そして先頭を走っていたのが、ハルだった」
父さん……瑛己はドキリと眉を揺らした。
「しばらくして、〝零地区〟まできた時、俺達は奴らを見つけた」
そして、空戦が始まった。
「向こうは物凄い数だった……空に真っ黒になって襲ってきやがる。俺も、一度に3機も4機も相手にしなきゃならないような状況だった。周りを見ている余裕もない。考える暇さえなかった」
「……」
「どんくらいそんなふうに飛んでたかな……手の感覚も足の感覚も、よくわからなくなり始めた頃だった」
翔ける飛空艇に、ポツリと、雨粒が落ちてきた。
「実際雨だと思った。俺は、やべぇなと思った。それで初めて、辺りを見回した。入り乱れる飛空艇の中に、キラキラと光るものが降っている。仲間はどうなっただろう、ハルは……? まぁ、あいつがどうこうなるとは思わなかったが、それでも俺はグルグルと周囲を見た」
「……」
「そして俺は、空の暗さに気付いた。そりゃ雨が降っているんだ、暗いに決まっている。だけど……違う。その時の暗さは自然のものじゃなかった。雲に覆われてできる暗さ、それとは明らかに違っていた」
例えて言うなら、夜の闇―――いや、それよりも濃く、深く。
「そしてそう思った時、ふと、今まで雨粒だと思っていたもんが、違う事に気付いた」
兵庫はその瞬間、背中に物凄い寒気を感じた。そして、
「空を、仰いだ」
そこに。
「俺は……一瞬、目を疑った」
空が、割れていた。
パラリ、パラリ、卵の殻でもむくかのように。硝子の城が、崩れていくかのように。
「空が割れていた。そしてその向こうに、黒い空が広がっていた」
空……? 兵庫は自分で言いながら、その言葉に眉をしかめる。
―――あんなもん、空じゃねぇ。
「夢でも見てるのかと思った。でなくば、俺はもう死んでいて、あの世への階段を上っているか、だ。だけども爆音が夢オチを許してくれなかった。周りを飛ぶたくさんの飛空艇が、無線から流れるノイズ、吹き荒れる風、そしてハルの機体が……」
兵庫は無線に向かって叫んだ。何を言ったのかよく覚えていない。ただ、滅茶苦茶になって叫んだ。
自分の生を、誇示するように。
「空が割れるにつれて、機体を取り巻く風は強くなっていった。空戦どころの話じゃなかった。操縦桿を握り締め、もっていかれないようにするので精一杯だった。そして次第にその風は、割れ目に向かって吹き出した。俺は何もしてないのに、勝手に機体はそっちに向かいやがる」
ただな、兵庫は葉巻を吹かし、視線を流した。
「一番難儀だったのは、そんな状況になったにも関らず、敵さん、なおも攻めてきたって事だよ。あの根性には参ったよ。こっちはそれどころじゃねーっつーのに」
それは、地獄だった。
「実際、本当にそれどころじゃなかったんだ……そんな事している場合じゃなかったんだ。敵も味方も、次から次へと吸い込まれて行く。俺はそれでも必死に抗い飛んでいた。操縦席から逃げ出す事もできなかった。飛び出した人間は、紙クズ同然に、あっちの世界に消えて行った」
兵庫の耳に、様々な断末魔の声が蘇った。
ぎゃぁぁぁ、助け、吸われる、母さん、うあぁぁぁああああ…………。
だが、それを瑛己に聞かせたくはない……そっと耳にフタをする。
「ふと見れば、そこには、残り少ない敵さんと、ハルと俺だけになっていた」
『兵庫』
兵庫の脳裏に響く声は、色あせない。
そしてその声を聞くたびに、あの日の光景が蘇る。
『逃げろ』
兵庫は叫んだ。馬鹿野郎と。
「こりゃもう、人の身分じゃどうにもできない……人知なんてとっくに超えてる。逃げるぞ、俺は必死に叫んだ」
だが、晴高は言った。もうエンジンが死んでいる。自分はこの風に抗えない。
『咲と瑛己を頼む』
『ばッか野郎ッッ!!!!』
「ザザつく無線のノイズの向こうで、ハルがどんな顔していたのかはわからない……けど俺は許せなかった。てめぇの大事なもんは、てめぇで守れ!! そう叫んだ」
ノイズに混じって、晴高が何かを言った。
そしてそれが、最後の通信となった。
『生きろ』
兵庫は晴高を振り返った。
猛然と荒れ狂う嵐の中で。だが、兵庫の目に焼き付いている。
聖 晴高。
最後に見た奴の顔は。
「笑っていた」
―――そして彼は、〝空の果て〟へと消えて行った。
「その後は……よくわからない。気付いた時、俺はボロボロの機体と共に浜に打ち上げられていた」
「……」
「あの時生き残ったのは、俺を含め、わずかな人数だけだった……磐木もその1人だ。その証言を元に後に調査団が向かったが、その時はもう何もかも終わった後だった。〝空の果て〟なんか、どこにも存在しなかった」
静かで勇壮な、空と海が広がっていただけだった。
瑛己は海の彼方を見た。
「〝空の果て〟……」
「けど俺は覚えている……現実に、それはそこに存在した。そしてお前には、少し、知っておいて欲しくてな」
酷かもしれない。これは自分の、ただのエゴでしかないのかもしれない。
(この肩に背負わせるには、)
だが……兵庫はポツリと思った。
知らなければならない。瑛己はすべてを、知らなければならない。
それは、空で生きる事を選んだ以上。父と同じ道を選んだゆえに、父と同じ運命を辿らぬためにも―――。
「瑛己」
兵庫は彼を見た。
「……わかってる、……」
瑛己はたった一言、そう言った。そして兵庫を振り向いた。
その目に、兵庫は小さく苦笑を浮べた。
兵庫は心の中で嘆息を吐き、そして呟いた。
すまない、と。
◇ ◇ ◇
基地に戻ると、兵庫は瑛己を下ろし、「またくる」と別れを告げた。
それ以上お互い、何も言わなかった。瑛己は「ああ」と頷いて、後ろを見ずに去って行った。
兵庫はその背中が見えなくなるまでそこに立ち続け、そして自分も出発しようと思った矢先。
「兵庫」
呼びかける声があった。
兵庫はその声にビクリと眉を揺らした。そして、ゆっくりとそちらを向いた。
「……おぅ」
そこに、海月が立っていた。
「お前、どうしたんだ、こんな所に……」笑顔を見せるが、海月はムッとした様子で兵庫を見ていた。
「私に一度も顔を見せず、そのまま行くつもり」
「……」
「あんたのやる事と言ったら、わかってるんだから」
「……」
すまない。兵庫は目をそらした。
「いい……けどあんたも、私が何を言いたいか、わかってるでしょう?」
「……」
海月の目が、すっと緩んだ。
兵庫はその目を見て、小さく頷いた。
「……またくる。その時は、そっちにも寄るから」
「待ってる」
その言葉に、兵庫は苦笑した。
「……じゃぁ、行かないわけにいかないな」
「ええ」
兵庫は笑った。そして運転席へと乗り込んだ。
「気をつけて」
車が、音を立てて走り出した。
基地に背を向けて去っていくその姿を見ながら、海月は思った。
―――これ以上、自分を責めないで。
12年。
振り返ってしまえば、一瞬の事だが、
一言で言うにはあまりに長い歳月。