蜘蛛の巣の蝶
夕暮れの残光が、アスファルトを気怠げなオレンジ色に染めていた。プロデューサーを乗せた黒塗りの高級車が残した排気ガスの匂いが、やけに生々しく鼻をつく。遠ざかるエンジン音が完全に闇に溶けたとき、俺の膝から力が抜けた。
ガクン、とコンクリートに両膝がつく。視界がぐにゃりと歪み、呼吸が喉の奥で詰まる。ヒュッ、ヒュッと甲高い音だけが漏れ、酸素が脳に届かない。
「風間さん、しっかり!」
隣で桜井が叫んでいる。その声が、水中にいるかのように遠く、輪郭がぼやけて聞こえる。必死に背中をさすってくれる手のひらの熱だけが、かろうじて現実との繋がりだった。だが、俺の意識はすでに過去の濁流に呑まれていた。相方に裏切られ、ネタを盗まれ、業界から干され、10年という時間を無為に過ごし、薄暗い部屋で独り死んでいった、あの日の光景。目の前の男に「君には才能がない」と告げられた、あの冷たい声。すべてが混ざり合い、今の絶望と重なっていく。
「風間さん!」
桜井に半ば引きずられるようにして、どうやって帰ったのか覚えていない。気づけば、四畳半の薄汚い自室の冷たい床にいた。電気もつけず、窓から差し込む街灯の光だけが、部屋の隅でうずくまる俺の影を長く伸ばしている。
「…水、飲んでください」
桜井がおずおずと差し出したペットボトルを、俺は衝動的に振り払った。プラスチックが床を跳ねる乾いた音が、静寂に響く。
「お前には関係ない…出ていけ」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、震えていた。そうだ、こいつを巻き込んではいけない。俺がこいつの隣にいる限り、あの男は何度でも現れる。こいつの才能を、その純粋な光を喰らうために。守るためには、突き放すしかない。一度目の人生で何も守れなかった俺が、今度こそ繰り返してはならない過ちだ。
桜井の息を呑む気配がした。一瞬、その足が後ずさる。だが、彼は引かなかった。暗闇の中、俺の前に仁王立ちする気配がする。
「関係なくない!俺たち、コンビでしょ!」
絞り出すような声が、部屋の空気を震わせた。
「コンビってのは、どっちかが転んだら、もう片方が笑いに変えて立ち上がらせるもんでしょ。一人で勝手に終わらせんなよ」
その声は怒りに震えていたが、それ以上に悲痛な響きを帯びていた。一度は決別しかけた俺たちが、ようやく手にした絆。それを断ち切ろうとする俺への、必死の抵抗だった。その言葉が、絶望という分厚い氷に覆われた俺の心に、小さなひびを入れた。
桜井の覚悟を前に、俺は観念した。諦めたように顔を上げ、断片的に真実を語り始める。業界の権力者に逆らった芸人が、人知れず消されていく闇のシステム。『笑いのブラックリスト』の存在を。
そして、あの男から突きつけられた、悪魔の取引を。
「あいつは言ったんだ…。お前を…」
言葉が詰まる。桜井を失う恐怖と、彼をこの地獄に引きずり込んだ罪悪感で、心臓が軋むようだった。
「お前を…渡せば…俺は見逃してやる、と…」
その瞬間だった。
「アンタ、本気で俺がそんなんで喜ぶと思ってんの?」
俺の告白を遮ったのは、静かな、しかし確かな怒りを宿した桜井の声だった。いつもの天真爛漫さは欠片もなく、その瞳が暗闇の中で鋭く光るのが分かった。次の瞬間、彼は俺の肩を掴み、真っ直ぐに引き起こした。至近距離で見つめてくるその顔は、困惑から悲しみへ、そして静かな怒りへと変わっていく。数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
「俺たちの笑いは、」
桜井が静かに、しかし強く歯を食いしばる。
「そんなもんに売れるほど安くない!」
その言葉は、俺の歪んだ自己犠牲を粉々に打ち砕いた。そうだ。俺はまた間違えるところだった。一人で抱え込み、一番大切な相方を信じずに、過去と同じ選択を繰り返すところだった。
俺は、肩を掴む桜井の手に、自らの手を重ねて強く握った。
「…ああ。そうだな」
ようやく、まともな声が出た。
「逃げない。お前と二人で、あいつに抗う」
それは、誰にも頼らず、誰のことも信じられずに孤立した一度目の人生の俺との、完全な決別だった。
部屋の空気が変わった。絶望の代わりに、静かな闘志が満ちていく。与えられた猶予は、一週間。正攻法で、あの権力者に勝てるはずがない。
「奴が一番嫌うのは、コントロールできない圧倒的な結果だ」
俺は結論を口にした。俺たちには武器がある。深夜番組のレギュラー、そして目前に迫った賞レース。そこで、誰もが認めざるを得ない、規格外の笑いを叩きつける。それが、俺たちの唯一の対抗策だ。
「…ああ。俺たちで、奴が作ったくだらねえ常識ごとひっくり返す。それが俺たちのネタだ」
俺の言葉に、桜井が力強く頷いた。
最後の助言を求め、俺たちはバー『月影』の重い扉を押した。事情を話すと、マスターはいつものように静かにグラスを磨いている。プロデューサーの名前は伏せたが、マスターにはすべてお見通しのようだった。
「蜘蛛の巣に捕まった蝶は、もがけばもがくほど絡め取られる。だが、巣の主を驚かせるほどの風を起こせば、話は別かもしれんな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、ライブハウスの舞台袖で警告してきたベテラン芸人の姿が浮かんだ。彼が燻らせていた煙草。それは、この店のカウンターに置かれている珍しい銘柄だった。まさか、あの人もこの店の常連だというのか…? 点と点が線で繋がる。俺たちの知らないところで、世界は複雑に絡み合っていた。
店を出ると、夜の空気が火照った頬に心地よかった。
「風を起こしましょう!でっかいやつ!」
桜井は拳を握りしめて前向きだが、俺はマスターの言葉の裏にある、更なる困難を予感し、素直に頷けなかった。
その時だった。ポケットの中で携帯が震えた。取り出してディスプレイを見ると、そこに表示された名前に、俺は息を呑んだ。
『黒田 剛』
ライバルからの、あまりにも予期せぬタイミングでの着信だった。




