悪魔の囁きと、相方の拳
夕暮れの路上に、重く冷たい沈黙が落ちていた。
黒塗りの高級車のヘッドライトが、アスファルトの染みを白く照らし出す。その光の中に立つ男の影が、俺と桜井の上に長く伸びていた。
呼吸ができない。肺がコンクリートで固められたように、ひとかけらの空気も取り込めなかった。心臓が嫌な音を立てて軋み、指先から急速に血の気が引いていく。視界の端が黒く滲み、目の前の男の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
一度目の人生で、俺のすべてを奪った男。
その顔を見た瞬間、忘れていたはずの絶望が、墓場の底から這い出てきた。
「風間さん? どうしたんすか、顔、真っ青ですよ」
隣で桜井が心配そうに俺の腕に触れる。その感触すら、分厚いガラスを隔てたように遠い。俺の異常に気づきながらも、桜井にはこの状況が理解できない。目の前の男が放つ、獲物を品定めするような爬虫類の視線。その意味を、彼はまだ知らない。白石さんの言葉が、不吉な予言となって脳裏で反響する。『良くも、悪くも、色々なものを惹きつける』と。これが、俺たちが惹きつけてしまった最悪の『悪』だというのか。
男は、感情の欠落した瞳で俺を見下ろしたまま、薄い唇をわずかに開いた。
「風間亮、くん。だったかな」
その声は、乾いた砂が擦れるような音だった。一度目の人生で、何度も俺の心を削った音。
「白石くんも、相変わらず物好きな子を見つけるもんだ。君のような壊れた玩具を拾うとはね」
白石さんを『くん』付けで呼ぶ口調。ただの知人ではない。同業者への嘲り以上に、何か個人的で、どす黒い因縁の匂いが立ち上っていた。
「先日のオーディション、審査員席の隅で見させてもらったよ」
(まさか、あの時の……! 笑いもせず、ただ値踏みするように俺たちを見つめ、何かをメモしていた審査員。こいつだったのか!)
男は続けた。その視線が、俺の隣にいる桜井へと滑る。
「あれは、なかなかの上物だ。穢れを知らない、純粋な光そのもの。……それに比べて君は、その光に群がるだけの影だ」
鋭利な言葉が、容赦なく突き刺さる。そうだ、俺は影だ。黒田にも、マスターにも、そして自分自身でも分かっていたこと。こいつは、俺が一番見たくない現実を、いとも容易く暴き出す。
男は一歩、俺たちに近づいた。革靴がアスファルトを擦る音だけで、全身の毛が逆立つ。
「本題に入ろう。その才能、私に預けなさい」
温度のない声が、悪魔の契約を告げる。
「君には過ぎた光だ。その代わり、君のことは『笑いのブラックリスト』から完全に消してやろう。業界の隅で、惨めにではあるが、生き長らえることは保証する」
『笑いのブラックリスト』。
その単語が鼓膜を震わせた瞬間、俺の意識は過去へと引きずり込まれた。仕事が一つ、また一つと消えていく。昨日まで笑いかけてくれたスタッフが、目を合わせなくなる。誰もいない楽屋。鳴らない電話。未来の記憶じゃない。これは、俺が一度体験した、紛れもない地獄の記憶だ。
心が、ぽきりと折れる音がした。
もう、どうでもいい。抵抗したって無駄だ。この男には逆らえない。一度目の人生で、嫌というほど思い知った。
「おい」
不意に、低く、怒りに震える声が響いた。
俺じゃない。桜井だ。
沈黙していた桜井が、俺の前に一歩踏み出していた。状況など何も分かっていないはずの彼が、その全身で目の前の巨大な悪意に立ち向かっていた。
「あんたが誰かなんて知らない! けど、風間さんをそんな目で見るな! 俺の相方を侮辱すんな!」
純粋な怒り。計算も、打算も、恐怖さえない、ただ相方を守るためだけの叫び。
その言葉が、凍り付いていた俺の魂を激しく揺さぶった。
そうだ。俺は、もう一人じゃない。こいつがいる。この光が、隣に。
桜井の声に引き戻されるように、俺の足が動いた。鉛のように重かった足が、震えながらも一歩、前へ出る。桜井の肩をそっと押し、彼の前に立つ。一度目の人生では、恐怖に屈して逃げ出すことしかできなかった。だが、今は違う。
守るべきものが、ある。
プロデューサーの冷たい視線を、正面から受け止める。指先の痺れはまだ残っている。呼吸も浅い。それでも、俺は睨み返した。
「……こいつは、俺の相方だ」
声が、みっともなく震える。
「誰にも……渡さない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。だが、その言葉に嘘はなかった。
俺の予想外の抵抗に、プロデューサーの無表情な仮面が初めて微かに歪んだ。だが、それも一瞬。すぐに氷のような冷笑が浮かぶ。
「愚かな選択だ」
吐き捨てるように言うと、男は俺の耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「……君の父親も、愚かな選択をした」
父親? 何のことだ。思考が追いつく前に、男は身を翻す。
「一週間だけ待ってやろう。その光と共に地獄に堕ちるか、一人で惨めに生き延びるか、よく考えるんだな」
それが最後の言葉だった。男は黒塗りの高級車に乗り込み、エンジン音も静かに闇の中へと消えていった。
遠ざかっていく赤いテールランプを、俺と桜井はただ黙って見つめていた。
車の姿が完全に見えなくなったとき、張り詰めていた全身の糸が、ぷつりと切れた。膝から力が抜け、俺はその場に崩れ落ちる。
「風間さん!」
桜井が慌てて駆け寄り、俺の背中を支えた。彼の掌の温かさが、じんわりと伝わってくる。
何も聞かないのか。お前を売り渡せと言われたんだぞ。お前を巻き込んで、俺たちは地獄に堕ちるかもしれないんだぞ。
言葉にならない感情が、喉の奥で渦を巻く。
桜井を巻き込んでしまった後悔と、それでも守り抜くと決めた覚悟。二つの感情に引き裂かれそうになりながら、俺はただ、アスファルトを見つめていた。
やがて、熱い何かが頬を伝った。
それが涙だと気づいたのは、桜井が何も言わずに、ただ強く俺の背中を支え続けてくれていることに、安堵してしまったからだった。
一週間の猶予。
地獄へのカウントダウンが、静かに始まっていた。




