空っぽの器、光の在処
バー『月影』の重厚な扉を背に、風間亮は夜の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。アルコールで火照った頬を、春の夜のひんやりとした風が撫でていく。だが、頭の中では黒田剛の言葉が、醒めることのない酔いとなってこびりついていた。
『お前の隣にいる男…あいつは本物だ。だが、お前は違う』
アスファルトを蹴る革靴の音だけが、やけに大きく響く。街灯が作る光と影のまだらを、俺は踏みしめながら歩いた。桜井は本物。その事実に異論はない。あいつの笑いは、計算も戦略もない、ただそこにある純粋な光だ。では、俺はなんだ? その光を浴びて、さも自分が輝いていると見せかけているだけの、空っぽの器か。一度目の人生で相方に裏切られた記憶が、不意に蘇る。あの時も、才能への嫉妬と焦りが、俺を孤立させた。
「……同じだ」
無意識に漏れた声は、街の喧騒に吸い込まれて消えた。守るためだと言い訳しながら、結局は自分が傷つくのが怖くて、桜井を突き放した。同じ過ちを、俺はまた繰り返そうとしている。
自室のアパートの前にたどり着くと、先日、桜井の前で閉ざしたドアが、拒絶の象徴そのものに見えた。鍵を開け、部屋に入る。明かりもつけず、玄関に立ち尽くす。耳鳴りがするほどの静寂が、俺の孤独を際立たせた。このままではダメだ。このまま一人で抱え込めば、一度目の人生と同じく、誰にも理解されないまま潰れていくだけだ。
桜井を守る。その言葉は嘘じゃない。だが、その方法は間違っていた。俺は、俺自身のエゴと恐怖から逃げていただけだった。
深く、息を吸う。
決意は、静かに固まった。
俺は踵を返し、再び夜の闇へと駆け出した。
深夜、というにはまだ早い時間。桜井のアパートのドアを、ためらいがちにノックする。心臓の音がうるさい。応答がなければ諦めようか、そんな弱気が頭をよぎった、その時だった。ゆっくりとドアが開き、憔悴しきった顔の桜井が現れた。目の下には隈が浮かび、いつも輝いているはずの瞳から光が消えている。
俺のせいだ。
その事実が、ナイフとなって胸に突き刺さる。風間は言葉を発するより先に、桜井の目をまっすぐに見つめ、深く、深く頭を下げた。
沈黙が落ちる。気まずいとか、そういう次元ではない、痛みを伴う静寂だった。やがて、桜井の絞り出す声が、その静寂を破った。
「…俺は、風間さんの道具なんですか?」
その言葉は、純粋な刃だった。疑いや怒りよりも、ただ悲しみに満ちた響きが、風間の心を抉る。顔を上げることができない。死に戻りのことも、ブラックリストの恐怖も、何一つ話すことはできない。そのもどかしさが、喉を締め付けた。
それでも、何かを伝えなければならなかった。嘘ではない、俺の本当の弱さを。
「…違う」かろうじてそれだけを口にし、風間はゆっくりと顔を上げた。桜井の瞳には、傷ついた色が揺れている。
「…お前の才能が眩しすぎて、怖くなったんだ。俺が、お前の足を引っ張るんじゃないかって」
それは、黒田に指摘された俺の核心であり、紛れもない本音の一部だった。俺は空っぽの器で、お前は本物だ。その事実が、俺を怯えさせた。一度目の人生で失ったものすべてを、お前が持っているから。
桜井は、ただじっと風間を見つめていた。その瞳の中で、不信と困惑が揺れ、やがて、何かが氷解していくのが分かった。彼は、風間の言葉の裏にある、不器用なほどの脆さを受け止めてくれたようだった。
「…俺は、風間さんとじゃなきゃ嫌です」
震える声で、しかしはっきりと桜井は言った。
「風間さんが書くネタが好きだし、風間さんの隣でツッコむのが、一番面白い。俺一人じゃ、ただのうるさい奴で終わりだ。だから…だから、俺を一人にしないでください」
堰を切って溢れ出した桜井の言葉に、胸が締め付けられる。亀裂は、塞がった。いや、以前よりもっと強く、互いを繋ぎとめたのかもしれない。俺たちは、深夜番組で共に戦うことを、無言のまま誓い合った。
翌日。大学の空き教室は、昨夜までの重苦しい空気が嘘のように、活気に満ちていた。机の上に散らばるルーズリーフ。新ネタのアイデアを出し合う俺たちの声が響く。桜井の顔には、いつもの屈託のない笑顔が戻っていた。それだけで、救われた気がした。
ふと、廊下からの視線を感じた。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。値踏みするような、冷たい視線。風間は弾かれたように顔を上げ、教室のドアの小窓に目をやった。
誰もいない。ただ薄暗い廊下が続いているだけだ。
気のせいか。だが、肌に残る粟立つような感覚は、気のせいだと笑い飛ばすには生々しすぎた。ベテラン芸人の顔が脳裏をよぎる。『お前らはもう、見られちまったんだからな』。和解したばかりの安堵感は急速に薄れ、得体の知れない脅威が、すぐそばまで迫っていることを直感した。
ネタ作りを終え、大学を出ると、空は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。一日の終わりを告げる穏やかな光景に、さっきの悪寒も少しは和らぐ。隣を歩く桜井が、今日のネタ合わせの反省点を楽しそうに話している。この日常を、今度こそ守り抜かなければ。
その時だった。
俺たちの目の前で、一台の黒塗りの高級車が、エンジン音も立てずに静かに停まった。
場違いなその存在に、桜井が「うわ、すっげー車」と声を上げる。だが、俺は一歩も動けなかった。後部座席のドアが、スローモーションで開く。
革靴がアスファルトに触れる。
仕立ての良いスーツに身を包んだ、痩身の男が、ゆっくりと姿を現した。
無表情。感情の読めない、ガラス玉のような瞳。
その顔を見た瞬間、風間の全身から血の気が引いていくのが分かった。呼吸が止まり、心臓を氷の腕で掴まれたような衝撃に、指先が痺れる。
忘れられるはずがない。一度目の人生で、俺から笑いを、未来を、すべてを奪い去った男。俺を「笑いのブラックリスト」に叩き落とした、因縁のプロデューサー。テレビ局で俺たちコンビ『ブライト』の名を聞いて顔を曇らせたスタッフたちの、その頂点にいる男だ。
男の冷たい視線が、真っ直ぐに俺を射抜く。そして、薄い唇がわずかに動いた。
「風間亮くん、だね。白石くんも、相変わらず物好きな子を見つけるもんだ。少し、お話があるんだ」
静かで、有無を言わさぬ声だった。隣で桜井が、何が起きているのか分からず、戸惑った表情で俺たちの顔を交互に見ている。だが、俺には何も答えることができなかった。逃れられない。過去が、最悪の形で現在に追いついてきた。
夕焼けの光が、男の背後から差し込み、その輪郭を黒い影として際立たせる。その影が、俺の未来すべてを飲み込んでいくように見えた。




