祝杯の影、最初の亀裂
楽屋のドアを閉めても、舞台の熱気はまだ肌にまとわりついていた。客席からの地鳴りのような拍手と笑い声が、壁を隔ててもなお鼓膜を震わせる。俺は荒い息を整えながら、楽屋の長椅子に並んで腰掛ける桜井と視線を合わせた。
「…やったな」
「やりましたね!」
満面の笑みで差し出された右手に、俺は力強く自分の右手を打ち付けた。乾いた音が、まだ熱を持つ空間に響く。高揚感が全身を駆け巡り、一度目の人生で味わうことのなかった達成感が、胸の奥から込み上げてくる。トラウマを乗り越えた。俺たちは、最高のスタートを切ったんだ。
熱狂が冷めやらぬまま、俺たちは着替えを済ませて楽屋を出た。蛍光灯が頼りなく灯るコンクリート打ちっぱなしの通路を歩いていた。その時だった。前方からゆったりと歩いてくる人影。見覚えのある、くたびれたスーツの男。あのベテラン芸人だ。
すれ違いざま、男の肩がわざとらしく俺の肩にぶつかった。鈍い衝撃。
「……っ」
「浮かれてる場合じゃねえぞ、小僧」
耳元で、煙草のヤニが染みついた低い声が囁いた。
「お前らはもう、『見られちまった』んだからな」
吐き出された紫煙が、鼻をつく。それは『月影』のマスターが好む洋モクの匂いと同じだった。その言葉の意味を理解した瞬間、俺の全身を駆け巡っていた熱は急速に凍りつき、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
あれから数日が過ぎた。大学の食堂は昼時の喧騒に満ちている。カツカレーの匂いと学生たちの賑やかな声。俺の目の前では、桜井がまだ『ネクストブレイクゲート』の成功の余韻に浸っていた。
「いやー、マジで凄かったすよね!あの最後のくだり、俺たち、神がかってましたよ!」
「…そうだな」
心ここにあらずの相槌を打つ俺の耳には、あのベテラン芸人の言葉がこびりついて離れない。『見られちまった』。その一言が、一度目の人生で経験した「笑いのブラックリスト」の恐怖を呼び覚ます。あの、じわりじわりと社会的に首を絞められるような、逃げ場のない感覚。
その時、ポケットで安っぽいバイブ音が鳴った。事務所から経費で支給された、型落ちの中古の携帯電話だ。小さな液晶画面には「白石恵美」の文字。
「もしもし、風間です」
『ブライトの風間さんね。白石ですわ。単刀直入に言うわ。今度始まる深夜番組、コーナーレギュラーで出てみない?』
予想を遥かに超える言葉だった。レギュラー。それは若手芸人にとって、喉から手が出るほど欲しい椅子だ。
隣で聞き耳を立てていた桜井が、目を丸くして俺の顔を覗き込む。
『もちろん、結果が出なければすぐに打ち切り。あなたたちの実力を試すための、試練だと思ってちょうだい』
電話の向こうで、白石は冷静に告げる。桜井が俺の腕を掴み、無言でぶんぶんと振った。その瞳は期待で輝いている。
断る理由などない。これは、一度目の人生では決して掴めなかった光だ。だが、脳裏をあのベテラン芸人の顔がよぎる。強すぎる光は、深い影を生む。白石自身の言葉も思い出された。
「…やらせていただきます」
覚悟を決めて答えると、桜井が「よっしゃあ!」と小さなガッツポーズをした。
「やった!風間さん、やりましたよ!」
その無邪気な笑顔が、俺には少しだけ眩しすぎた。
初のテレビ局収録日。巨大なスタジオの天井に吊るされた無数の照明、慌ただしく行き交うスタッフ、壁際に並べられた大掛かりなカメラ。その独特の空気に、桜井は子供のようにはしゃいでいた。
「すっげー!テレビで見たまんまじゃないすか!」
しかし、俺はすぐに異変に気づいた。楽屋挨拶に回った時、番組のプロデューサーが俺たちの名前を聞いて一瞬顔を曇らせ、近くのスタッフと何か目配せをするのが見えた。数組の芸人が、俺たちの顔を見るなり目を逸らし、挨拶を返さなかった。すれ違いざまに聞こえるひそひそ話。遠巻きに値踏みするような視線。
――ああ、これだ。
一度目の人生で「ブラックリスト」に載せられた時に経験した、あの粘つくような排斥の空気。見えない壁が、じわりと俺たちを囲んでいく感覚。過去のトラウマが蘇り、俺は無意識に表情を硬くした。
収録が始まった。予定されていた小道具が一つ足りないという些細なトラブルで、現場の空気が一瞬ピリつく。俺はなんとか平静を装い、台本通りのボケを繰り出す。桜井は、持ち前の純粋さで、そんな現場の不穏さには気づいていないようだった。彼のツッコミは、いつも通り鋭く、そして明るい。
なんとか無事に収録を終え、テレビ局を出る。帰り道、桜井が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「今日の俺たち、どうでしたかね?風間さん、なんか元気ないっすよ」
その純粋な問いかけが、俺の胸を抉る。こいつを、この業界の闇に巻き込むわけにはいかない。俺が、守らなければ。
「お前は何も気にするな。ネタのことだけ考えてろ」
気づけば、口から出ていたのは自分でも驚くほど冷たい声だった。桜井が、一瞬傷ついたような顔で息を呑む。違う、そうじゃないんだ。そう言いたかったが、言葉は出てこなかった。守るための言葉が、俺たちの間に見えない壁を作っていく。
その夜、俺は四畳半の薄汚いアパートで一人、膝を抱えていた。窓の外の喧騒がやけに遠い。成功の喜びは、ブラックリストの恐怖にすっかり食い尽くされていた。桜井の信頼が、今は重荷にさえ感じられる。
コン、コン。
不意に、安普請のドアがノックされた。こんな時間に誰だ? 恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは桜井だった。
「風間さん…? 俺、何かしました…?」
不安げに揺れる瞳が、俺を真っ直ぐに見つめる。
「何かあるなら、言ってくださいよ。俺たち、コンビじゃないすか」
その言葉に、喉が詰まる。お前のせいじゃない。全部、俺の問題なんだ。だが、それをどう説明すればいい? 死に戻りのことも、ブラックリストのことも、何も知らないこいつに。
俺は、彼の真っ直ぐな瞳からふいと目を逸らした。何も言えずに、ただ、ゆっくりとドアを閉める。ガチャリ、と無機質な音が響き、俺と桜井の世界を分断した。
ドア一枚を隔てて、桜井がしばらく立ち尽くしている気配がする。やがて、諦めたようなため息が聞こえ、階段を下りていく足音が遠ざかっていく。
俺はドアに背中を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
追い返してしまった後悔と自己嫌悪が、暗い部屋の中で渦を巻いていた。答えを求め、俺は足を引きずるようにバー『月影』へと向かった。
重い扉を開けると、いつものようにマスターが静かにグラスを磨いていた。カウンターの端の席に腰を下ろし、俺は事の経緯をぽつりぽつりと話し始めた。ベテラン芸人のこと、テレビ局の不穏な空気、そして桜井を突き放してしまったこと。
マスターは黙って耳を傾け、俺の話が終わると、磨き上げたグラスに光を透かした。
「影から逃げることはできん。光が強ければ影も濃くなる。お前さんは、その影とどう生きるか決めなきゃならん」
その言葉の意味を噛み締めていると、カラン、とドアベルが鳴った。振り返ると、そこに立っていたのは、あの日の客席にいた男。
黒田剛。
黒田は俺を一瞥すると、何も言わずにカウンターの隣の席に静かに腰を下ろした。マスターが僅かに眉を動かす。黒田は目で合図し、マスターは黙って棚の奥から埃をかぶったボトルを取り出した。この店でも滅多に出ないという、特殊な銘柄の酒だった。二人の間には、俺の知らない時間が流れているようだった。
沈黙が支配する。先に口を開いたのは、黒田だった。その声は、氷のように冷たかった。
「お前の隣にいる男…あいつは本物だ。だが、お前は違う」
黒田の鋭い視線が、俺の心を射抜く。
「お前のその空っぽの目で、いつまであいつの光を食い物にし続けるつもりだ?」




