光と影の初舞台
コンビ『ブライト』を結成してから、一ヶ月が過ぎた。俺たちは大学の講義の合間を縫ってネタ合わせを重ね、小さな事務所のオーディションに合格。そして今日、幸運にも推薦枠で、若手芸人の登竜門『ネクストブレイクゲート』への出場権を掴み取ったのだ。
ざわめきと熱気が壁一枚を隔てて染み出してくる。楽屋は、香水と汗、焦燥感が入り混じった独特の匂いが充満していた。壁に備え付けられたモニターが、一つ前のコンビのネタを映し出しているが、時折音声が途切れ、観客の反応が正確に掴めない。それがかえって神経を苛んだ。
「うわー、すっげー! もうすぐですね、風間さん!」
隣で屈託なく笑う桜井健太の声が、やけに遠く聞こえる。コンビ結成が決まってからの高揚感を、彼は少しも失っていない。その純粋な光が、今の俺には眩しすぎた。
俺は自分の掌を見つめる。小刻みに震えているのが、自分でもわかった。
これは、コンビとしての初舞台。プロの観客と審査員を前にした、俺の二度目の人生における真の初陣だ。一度目の人生で、同じようなライブで惨敗した記憶が、胃の腑を冷たく締め付ける。周囲の芸人たちが投げてくる、値踏みするような視線が肌に突き刺さる。こいつらは敵だ。誰もが、他人を蹴落としてでも上に行こうとしている。
「風間さん、見ててください。俺たちの笑いで、この会場、ひっくり返してやりましょうよ!」
桜井が拳を握りしめ、少年のような瞳で俺を見る。その真っ直ぐな言葉に、凍りついていた心が一瞬だけ和らいだ。ああ、こいつとだから、俺はもう一度ここに立とうと思ったんだ。
舞台袖への通路は、ひどく薄暗く感じた。スタッフの「次、ブライトさん、スタンバイお願いしまーす」という声が、無機質に響く。
「風間さんとなら、絶対大丈夫ですよ!」桜井の言葉が、震える背中をそっと押してくれた。大丈夫。練習は完璧にこなした。俺の書いた台本に、間違いはない。一度目の人生の知識と経験を全て注ぎ込んだ、完璧な設計図だ。
だが、舞台袖から客席を覗き込んだ瞬間、俺の思考は凍りついた。
客席の中ほどに、見慣れた鋭い目つきがあった。黒田剛。俺の笑いを「魂がない」と断じた男だ。さらに、その数席横、審査員席に座る男の顔を見て、呼吸が止まる。一度目の人生で、俺に引導を渡したプロデューサーの一人。あの日、冷え切った目で俺を見下ろし、「君には才能がない」と吐き捨てた男。
——ダメだ。
過去の失敗が、鮮明な映像となって脳内で再生される。スベり続けた舞台。客の冷笑。相方の呆れた顔。
『違う。ひっくり返すな。計算通りに、完璧に…』
安全策が頭をもたげる。練習通りにやれば、大失敗はしない。そこそこの笑いは取れるはずだ。今は、それでいい。それで……。
『いや、本当にそれでいいのか?俺は、今度こそ…!』
「――ブライトです、どうぞ!」
紹介のアナウンスが響き、眩いスポットライトが俺たちを包んだ。足が僅かに、もつれる。隣の桜井は、光を浴びて輝きを増したように見えた。
マイクスタンドが少しぐらついていた。俺はそれを直すふりをして、コンマ数秒の間を稼ぎ、深く息を吸う。
コントが始まった。
完璧な滑り出し。計算し尽くされたボケとツッコミの応酬に、客席からくすくすと笑いが起き始める。手応えはある。このまま台本通りに進めば、合格ラインには届くだろう。
俺が次のセリフを言おうとした、その時だった。
「――というか部長、そのカツラ、昨日より後退してません?」
桜井が、台本にない一言を放った。
空気が、止まった。
俺の思考も、完全に停止した。アドリブだ。練習では一度も出なかった、予測不能な一撃。脳裏に、一度目の人生で相方のアドリブに対応できず、舞台をめちゃくちゃにした記憶がフラッシュバックする。恐怖で、喉がひりついた。
否定しろ。軌道修正しろ。台本に戻せ。
俺の中の臆病な自分が叫ぶ。
だが、視線の先にいる桜井は、悪戯っぽく笑っていた。その瞳は、俺を試すように、何より心の底から信頼するように、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
——こいつは、俺を信じている。
——俺が、このボールを拾うと。
コンマ数秒の葛藤。それは、永遠にも感じられた。
過去のトラウマか。未来への覚悟か。
俺は、奥歯を噛み締めた。
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
恐怖でひりついていた喉の奥が、覚悟の熱でじわりと潤うのを感じた。
「……うるさい!これは後退やない。俺が前進しとるんや!」
俺の口から飛び出したのは、自分でも驚くほどの、完璧なタイミングと声量でのツッコミだった。
その瞬間、客席が揺れた。
それまでのくす笑いが嘘のような、腹の底からの大爆笑が、波となって舞台に押し寄せる。
桜井の目が、驚きと喜びで見開かれた。
「乗る!」
心の中で叫ぶ。こいつの光を、俺が最高の形で受け止めてやる。
そこからは、もはや台本など存在しなかった。桜井が放つ予測不能な光の矢を、俺が10年分の経験で培った「目」で的確に捉え、ツッコミという名の矢で撃ち返す。計算と偶発性が螺旋を描きながら、笑いをどこまでも増幅させていく。凄まじい化学反応。俺たちは、間違いなく今、この瞬間に「ブライト」になった。
鳴り止まない拍手と喝采の中、俺たちは舞台袖へと戻った。
「やりましたね、風間さん!マジで、最高でした!」
興奮で顔を紅潮させる桜井とは対照的に、俺はただ客席の闇をじっと見つめていた。熱狂の渦の中に、いくつかの冷たい視線が混じっているのを、確かに感じ取っていたからだ。嫉妬、悪意、値踏みするような昏い光。
成功は、光だけを連れてくるわけじゃない。
「素晴らしい化学反応だったわ」
凛とした声に振り返ると、そこに立っていたのは白石恵美だった。その表情は冷静だが、瞳の奥には確かな熱が宿っている。
「あなたたち、面白いわね。でも覚えておきなさい。強すぎる光は、深い影を生む。あなたたちは、その両方を背負う覚悟をしなくてはならない」
彼女の言葉は、単なる称賛ではなかった。それは、この世界の深淵を知る者からの、最初の警告だった。
楽屋に戻り、汗で湿ったシャツを着替えながら、まだ耳の奥で歓声が鳴り響いていた。成功の余韻と、白石の言葉がもたらした微かな不安が胸中で混じり合う。
「坊主、相方選びは間違えなかったな」
不意に、背後から低い声がかけられた。振り返ると、タバコを燻らせたベテラン芸人が、値踏みするような目で俺を見ていた。
「…ありがとうございます」
「だが、光に目が眩んで足元を掬われるなよ」
その言葉には、称賛の中に確かな棘があった。男が吐き出した紫煙が、やけにゆっくりと流れていく。
その紫煙の香りには、覚えがあった。バー『月影』のマスターが好んで燻らせている、珍しい洋モクの匂いだ。
その顔を、俺は知っていた。
いや、正確には、死に戻る前の記憶の中に、その顔があった。
『笑いのブラックリスト』。業界から才能ある芸人を何人も消してきた、闇のリスト。その事件の噂話の中で、何度か名前を聞いたことがある男。
成功の絶頂にいたはずの身体から、急速に血の気が引いていく。背筋に、氷のように冷たい汗が一筋、流れ落ちた。
俺たちの初舞台は、確かに大成功だった。
だが、それは同時に、光が深い影を呼び覚ます、始まりの合図だったのかもしれない。




