影の証明、光の覚悟
バー『月影』の重厚な扉が閉まると、喧騒は壁の向こうに吸い込まれた。途端に、春の夜気が肌を刺す。隣を歩く桜井は「さっむ!」と大げさに肩をすくめた。プロデューサーという巨大な壁に二人で立ち向かうと決めた直後だというのに、その表情には一片の曇りもない。こいつのこういう強さが、今はどうしようもなく眩しい。
その時だった。ポケットの中で携帯が震え、けたたましい着信音が静かな路地に響き渡った。画面に表示された名前に、俺は息を呑む。
『黒田 剛』
「……」
指が止まる。出るべきか、出ざるべきか。思考が数瞬、停止した。
「風間さん? 誰から…って、黒田ァ? なんであいつが!」
俺の携帯を覗き込んだ桜井が、あからさまに顔を歪める。その声には、プロデューサーに向けたものと同質の、純粋な敵意が宿っていた。前回のライブで俺たちの笑いを「魂がない」と切り捨てた男。桜井にとっては、相方を侮辱した許せない相手だ。
「出る必要ないですよ! どうせまた嫌味に決まってます!」
「…いや」俺は桜井を制し、深く息を吸った。「出る」
絶望的な状況で、ただ待つだけの時間は終わった。蜘蛛の巣に絡め取られる蝶が、せめてもの抵抗で風を起こすように。敵の意図を知る。それが、俺たちが今できる最初の能動的な一歩だった。覚悟を決め、通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
『…やはり出たか。風間』
電話の向こうから聞こえてきたのは、予想通り、温度のない静かな声だった。まるでこちらの状況をすべて見透かしているかのような口ぶりに、背筋が冷たくなる。
「何の用だ」
『単刀直入に聞こう。お前、あの男に何かされたな』
あの男、という言葉だけで、プロデューサーのことだと分かった。なぜ、こいつが。思考が追いつかない。一度目の人生では、黒田とプロデューサーに接点などなかったはずだ。だが、俺が過去を変えたことで生まれた、新たな因果の波紋か。
沈黙する俺に、黒田は追い打ちをかけ、最も抉られたくない核心を突いてきた。
『お前は桜井健太という光の隣に立つ資格があるのか?』
頭の中で、何かが割れる音がした。一度目の人生、すべてを失った10年間の果てにプロデューサーが投げつけた言葉と、寸分違わず同じ響き。過去の絶望が、冷たい霧となって心を覆っていく。足元がおぼつかなくなる感覚。
だが、その霧を切り裂いたのは、隣にいる桜井の存在だった。こいつを侮辱されることだけは、我慢ならなかった。
「…お前に何が分かる」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
『分かるさ。お前の目は、一度死んだ人間の目だ。そして、隣の光を食い物にして生き長らえようとしている』
黒田の言葉は刃物だ。的確に、容赦なく、俺の弱さを突き刺してくる。
『証明してみせろ、お前自身の価値を。影のままで終わるな』
怒りで震える拳を、俺は強く握りしめた。
『一週間後、俺が出るライブに乗り込んでこい。そこで客を一番笑わせられたら、プロデューサーに対抗するヒントをやる』
「…は?」
予想外の提案に、思考が追いつかない。敵対するライバルからの、あまりに唐突な取引。それは罠か、あるいは気まぐれか。だが、その声には単なる敵意だけではない、複雑な響きがあった。
しかし、今の俺たちには、藁にもすがりたい状況だった。
「…分かった。やってやる」
電話を切ると、全身から力が抜けていく。膝が笑い、危うく路上に崩れ落ちそうになるのを、隣の桜井が慌てて支えた。
四畳半のアパートに戻ると、外の寒さが嘘のように空気が澱んでいる。黒田の言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。『光の隣に立つ資格』。俺に、そんなものがあるのだろうか。
「風間さん、大丈夫ですか?」
心配そうに顔を覗き込む桜井に、俺はうまく言葉を返せない。自己不信の沼に、足を取られていく。
そんな俺の様子を見て、桜井は何かを決意したように、ぐっと拳を握った。
「風間さんは影なんかじゃない! 俺が、俺が証明します! あんな奴の言葉、気にする必要なんてこれっぽっちもありません!」
その真っ直ぐな瞳。揺るぎない信頼。
桜井の言葉は、冷え切った俺の心に小さな火を灯した。そうだ、一人じゃない。俺には、こいつがいる。プロデューサーにも、黒田にも、見返してやる。俺たちの笑いで。
「…ああ。そうだな」
俺は頷き、テーブルの上にノートを開いた。「やるぞ、桜井。誰も見たことのない、『規格外の笑い』を作るんだ」
それから、地獄のネタ作りが始まった。時間は一週間しかない。焦りだけが空回りし、何も生まれない時間が過ぎていく。
「だめだ…何も出てこねえ…」
深夜、俺は頭を抱えた。途端に、バチン、と音を立てて部屋の電気が消えた。ブレーカーが落ちたのだ。一瞬の暗闇が、俺たちの絶望を映し出していた。
「うわっ! マジかよ!」
桜井の慌てた声。暗闇の中、手探りでブレーカーを上げに戻る。再び明かりが灯った部屋で、俺はふと、ある記憶を思い出した。以前、小劇場の隅で桜井がうなだれていた時に見た、ノートに書き殴られていた意味不明な単語や絵の羅列。あれは確か…。
本棚の隅に追いやられていた桜井のノートを引っ張り出す。ページをめくると、あった。支離滅裂な言葉の洪水。常人には理解不能な発想の断片。
だが、その無秩序な混沌の中に、一筋の光が見えた。
「…これだ」
桜井の常識外れの発想。それを、俺が一度目の人生で培った構成力で磨き上げる。純粋な熱量と、計算された技術。二つが組み合わさった時、俺たちにしかできない化学反応が起きる。
反撃の狼煙となるネタの原型が、ここに誕生した。
翌日の深夜。疲れ果てて眠る桜井の寝息だけが、静かな部屋に響いていた。
俺は一人、完成に近づいたネタのノートを広げる。その寝顔を見つめながら、静かに誓う。
(…ああ、守るんだ。今度こそ。たとえ、俺がどんな手を使っても)
ペンを握る手に、力を込める。
そして、覚悟を決めた表情で、ノートに最後の一行を書き加えた。
それは、桜井の信じる純粋な笑いを守るため、俺がたった一人で背負うと決めた『毒』。人を傷つけない笑いを信条とする桜井との間に、新たな亀裂を生むかもしれない、後戻りのできない選択だった。
翌朝。
「すっげー! 風間さん、これマジでヤバいですよ! 絶対ウケます!」
完成したネタの骨子を見た桜井は、子供さながらにはしゃいでいた。その革新的な面白さに、純粋な興奮を隠せないでいる。
しかし、読み進めるうちに、桜井の笑顔がすっと消えた。俺が昨夜書き加えた一行に、その視線が釘付けになる。
部屋に、沈黙が落ちる。
やがて、桜井は凍りついた表情のまま、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「風間さん、この部分…本気ですか?」




