わたし達、結婚しました?
気を失った真壁動太を運ぶのは一苦労だった。本来、呪禁の効き目は一分も持たないが、合儀肺助が一晩清めたあの場所で使われた呪禁は例外である。
(それに、呪禁を使う前に動太の心理を揺さぶる言葉をかけていた)
この場から逃げたい、忘れたい、楽になりたい、そう言った心理が備わっている相手に意識を失わせる禁歌はたやすく機能する。それを自覚するよう、事前に囁くのも禁歌においては有効である。
そのおかげで、肺助は真壁動太という大男を十分もかけて引き摺り保健室に運ぶ。幸か不幸か、誰も部屋にはいなかった。投げ捨てるように肺助はこの大男をベッドに落とす。
――このまま帰ってもいいが、一応起きるまでは付き添っておこう、と肺助は思った。
(目が覚めたとき、パニックになったりしたら大変だし)
しかし、動太の目覚めは実に普通だった。ベッドに転がして五分。
「何があった?」
目をこすりながら、あっさりと彼は上体を起こした。
「校舎裏で倒れたんだけど、覚えてない?」
肺助の問いに、しばし動太は思案し、
「うーん、なんかあったような気もするが、よく覚えていないな。何か大事なことだった気もするが」と答えた。
「手紙とか書いたり、今日の放課後、忘れちゃいけないことがあったと思うんだけど」
肺助はまるで祈るように訊ねた。
「なんだそれ。確かに何か、手紙を書いた記憶はあるが、誰宛とかは覚えていないな。まさかおれは、誰かに果し状でも書いて、負けたのか?」
その様子、目つきに、まさか真壁動太はお前に負けたのか、という疑惑が混じっていることに気づき、肺助は慌てて首を振った。
「おれはたまたま、真壁さんを見つけただけです」
「ふーん、そうか。ならいいんだが。まあいい、校舎裏で転がされているのはさすがにダサいしな。助けてくれたんなら、ありがとう」
そういって、しばしじっと肺助のことを見つめた。
「それから、知っている気もするが、お前の名前だけ聞いておこう。迷惑をかけただけなら悪いからな。そのうち何かで返させてくれ。あ、でも、すぐにとはいかないな。おれは高校生だし、ここは学校だから、勉強に専念しないと。勉強より大事なものはないからな、高校生には」
*
こうして、合儀肺助は肩を落として下校した。その足取りは重いようで、しかしふらふらと浮くようでもあった。
部活動にも所属していない合儀肺助の下校時刻にしては遅く、夕方、大分傾いた日の中で、自宅のドアノブをひねる。
「ただいま、帰りました」
肺助は低い声でそう言い、習慣通り履物を揃えて家に上がった。
「おかえりなさい、肺助さん。もう晩御飯の準備ができていますよ」
女の声。濡れたように黒く艶やかな髪の女が肺助に一礼してそう言った。地味なエプロンとはあまりにもミスマッチな美少女が笑いかける。肺助は内心、この人はそんな顔もできるのかと感心しつつ、二階に上がって自室に入り、制服を脱ぎ、ベッドの上のぐちゃぐちゃになったままの寝間着の上に投げる。そして。
「待って待って! 今の何! 誰がいた?」
肺助は叫んだ。玄関で肺助を出迎えた『少女』など、本来この家にはいないはずだ。
この合儀家邸宅は二階建ての一軒家だが、住んでいるのは母であり家長の合儀椎子と、その息子合儀肺助だけ。家の表札からも、父・合儀肝悟朗の名が排されて久しい。勿論、家政婦などは雇っていない。
「あのエプロンは、確かに母さんのもの。それを、他の誰かがつけるものか」
加えて、あの少女を合儀肺助は知っている! だが、そうだとするとますます理由がわからない。とにもかくにも、慌てて肺助は一階に下りた。一階の廊下はすでに、醬油や味醂、各種出汁の匂いに満ちていて、その前には、肺助が感じていた恐怖や疑惑がどんどん失せていく。
(まずい、何かとんでもないことが起ころうとしているのに!)
しかし、そんなわずかな理性すら、一瞬で吹き飛んでしまいそうになる。
「お箸を並べておいてくださる? 肺助さんがそろそろ降りてくるから」
「大丈夫です、もう済ましておきましたから。お茶を用意しておきますね」
「あら、気が利くのね。ありがとう。できたお嫁さんが来てくれると、お母さんも楽だわ」
「もう、それほどでも……ありますけど!」
「まあ! 言ってくれちゃって! でもかわいいから許しちゃう!」
「……何の会話だよ」
肺助は居間のドアを開けるのが急に恐ろしくなった。だが、突然ドアが向こうから開き、中から手が伸びてきた。白くて、適度に細く、整った長い指が肺助の手首を握った。
「あ……ッ!」
「もう、肺助さん! どうしたんですか、そんなところで固まっちゃって」
もしかして、照れてるの? そう微笑みかける少女を、肺助は知っている。
「え、あの、なんで、阿賀谷戸先輩が家の中に……?」
肺助の手首を掴み、悪戯っぽく首を傾げる少女こそ、ほんの『一時間前』に罪斗罰高等学校校舎裏で、真壁動太の告白を断った女子生徒、阿賀谷戸命香であった。
肺助の問い対し、阿賀谷戸命香は今、拗ねたように唇を尖らせた。
「もう、そんなの決まってるでしょ」
そう言って、肺助のもう一方の手まで取り、両手を揃えてぎゅう、と握った。途端、肺助の心臓が高鳴った。背筋がぞわりとし、顔の皮膚の下の毛細血管が広がるのを感じる。
だが、そんな肺助の緊張など知らぬ様子で、事もあろうに命香は肺助へぴったりと身を寄せた。あまつさえ体重さえかけて、つま先立ちになり、肺助の耳元で囁く。
「だってわたし達、結婚したじゃない」




