瀬路原ノツルの鋼の意志
合儀家の所有する山がある。
その内、比較的手入れがされている場所を瀬路原ノツルはひたすら走っていた。修行の一環として道着まで借りてそうしていたが、本当の理由は違う――否、理由などわからなかった。
すでに夕方に差し掛かり、山全体は赤どころか紫に塗り潰されかけている。しかし、ノツルは止まらなかった。第一に、彼女はこの山道を知っている。
それは、幼い日、合儀肺助と探検した場所と相違ないからだ。
『ノツルちゃんに肺助さん。遊ぶのはいいですが、ここから先には進んではいけませんよ』
この山で肺助と遊んでいた時、椎子に言われたことをノツルは思い出す。
「はあ、はあ、はあ」
あの頃はわからなかった。この山道の恐ろしさが。
ここは、肺助や椎子、或いは近隣の業者に頼んで整備をしているエリアである。とはいえ、丁寧に舗装されているわけでもなく、その山道は登ったかと思えば下り、下ったかと思えば曲がり、広いと思えば傾斜があり、狭いならば隣は奈落である。
「はあ、はあ、はあ」
しかも、小石や枝、木の根、そのほか種々の植物に侵食され、陸上部で鍛えていたはずのノツルの足はあっさりと音を上げる。このでこぼこ道を走るため、膝の関節や足首が必死でクッションの役割を果たそうとしているのがわかる。だが、それらで緩和できるほどやさしい道ではない。それでもノツルはただひたすらに駆けた――まるで逃げるように。
「はあ、はあ、はあ」
しかして、突然ノツルは足を止めた。目の前に絶壁、崖が現れたからである。それなのに、なぜかノツルは『捕まった』と感じる。
『肺助くん、ここ登っちゃおうよ!』
幼い日、無邪気にそんなことを言ったこともあったけ。だが、今のノツルにはわかる。
――無理だ。
高さ十メートル。三階建てよりも高いだろう。傍に伸びた木の枝すら、その向こうに届いていない。当時の自分にも、今の自分にも、どうすることもできない、崖。
「はあ、はあ、はあ」
汗を袖に吸わせ、拳を固めて身を震わせる。しかし、いくら拭っても汗は止まらない。なぜならば、この汗は走ったからではない。別の原因――この崖に思い浮かぶのは、肺助がただ黙ってあの阿賀谷戸天森なる陰陽師とともに出て行ってしまったときの背中である。
あの時、肺助は命香にまるで皮肉のようなことすら掛けていなくなったが、ノツルにはなんと一言もなかったのである。それも当然であろう。だって、わたしは――
「わたしは……何もできないから……」
それどころか、お荷物である。自分があんなくだらないアガヤドフォーチューンネットワークなる胡散臭いメッセージに引っかかりさえしなければ!
ノツルは膝を折り、その場で一人崩れた。
阿賀谷戸天森の甘言に乗せられ、スマートフォン二台を手に入れた。そしてその使い方を教えてもらい、ついでに髪の毛を提供した。
「だって、そうしたら肺助と同じになれるって……そんなわけないのに」
ついにノツルは涙をこぼす。現実は真逆だった。それどころか、肺助にもたっぷり迷惑をかけ、なんと解決もまた彼任せだった。今でも思う。あの時自分がスマホを粉砕していれば、と。
現実は、肺助の言葉に導かれるまま、否、自分の心の弱さに突き動かされて、破壊すべきスマホを彼に譲って呪いを共に被ってしまった。
「……悔しい」
そういって、ノツルは理解した。自分の弱さが憎かった。そして、起きてしまったことは覆らない。
阿賀谷戸天森。あの男の計画の手の上で踊らされ、今の自分は、精々ここで大人しくしていることぐらいしかできることはないのだ。でないと、肺助は呪い殺されてしまう。
「悔しい」
見上げるは、崖。ノツルは思う――ここは、地獄だ。
あの時は楽しく冒険できた山野が、自分を閉じ込める地獄のように感じた。だが、囲んでいるのは山ではなく自分自身である。故に、解放されるのは容易いはずだ。もう、合儀家に行かず、少し前のように部活にまた通い出せばよい。何事もなかったかのように、全てを忘れて学校に行けばいい。しかし、ノツルにそれはできなかった。
(だって、わたしは肺助のことを忘れることなんてできないから)
それは、呪いなのかもしれない、とノツルは考えた――否。呪いなわけがあるか。これは、もっと単純なもの。
「……だって、わたしは、肺助のことが――」
そこまで言葉にしたが、嗚咽が邪魔をする。顔が熱くなっていた。西日もまた、ノツルの頬を赤く焼いた。地獄とは、こんなにも赤くてあつくて切ないのか、とノツルは道着の胸元を握った。
「どうすればいいの、わたしは……いやだよ、肺助……」
ノツルの目からこぼれた涙が頬を伝った。肺助はこのまま、取引の材料として最後まで過ごすのだろうか。そして、全てを奪われたこの土地をどう思うのか。その時、昔みたいに自分と接してくれるだろうか……否、肺助がどう思うかではない。自分が、許せない!
「わたしは、何もできない自分が嫌だ!」
ノツルは涙ながらに絶叫した。だが、当然それに応える声などないはず――
『あなたに、できることがありますわ』
ごう、と風が吹き抜けた。はっとしてノツルは立ち上がり、周囲を見渡す。何かが聞こえた気がした。椎子だろうか。
『あなたに、できることがありますわ』同じ声。同じ口調。ノツルは震えあがった。椎子ではない。命香でも、和留でもない。知らない女の声である!
「誰ですか!」
ノツルは警戒心を一杯にして叫んだ。
『あなたに、できることがありますわ』
三度目。最初は呑み込めなかったが、その言葉の意味に遅れて気付く。
(わたしに、肺助が救えるの?)
胸が詰まるような感覚。だが、それとは逆に同時に体が弛緩していくのを感じる。希望である。希望がノツルの指先まで、血管を通して駆け抜けていく。ところが、ノツルは歯を食いしばった。自分で自分を叩きたくなった。
「誰だか知りませんが、間に合っています! それでわたしは……!」
阿賀谷戸天森。ナイススイング正隆。いずれも、ノツルに希望という名の呪いをかけた悪魔である。この正体不明の女の言葉だって、どんな地獄に繋がっているかわからない。
「それでわたしは、好きな人を危機に陥れたのです。騙されません!」
ノツルはきっぱりと言い放った。返事はない。少し寂しい気もした。惜しい気もした。だが、これでいいのだ。そう思うと、何故かノツルは自分の胸の奥に力を感じた。
(でも、わたしにだって何か、何かできることはないか)
「……肺助のために」
ただの子供なのはわかっている。呪術師でもない。それでも! ノツルは踵を返し、まずは合儀家に帰ろうとした。その時であった。また、あの声である。だが、その内容は先ほどとは違う。
『でも、今ならあのいけ好かないぽっと出の陰キャにだけはモテそうな清楚系被った泥棒女狐とか、突然このド田舎に顕現したオタク君にやさしいフリしてしゃぶっては捨てるのが趣味に見える嘘つきスケベドエロギャルを出し抜けますわよ?』
「……話変わってきたな……」ノツルは足を止めた。
『肺助様は、もうすぐ死にますわ。ですが、わたくしの言うとおりにすれば、あの女狐とギャルを利用して出し抜き、そのまま肺助様と二人きりでドキドキちゅっちゅすることができましてよ』
「どっ、どっ、どっ、ドキドキちゅっちゅ?」
ノツルの心臓が高鳴り、夕陽に当てられた時よりも強く顔が熱を帯びる。
『興味、ありますわよね? 大丈夫、わたくしはあなたの良く知る相手。信用してくださって構いませんわ』
ノツルは首を振った。こんな甘言に惑わされてはいけない。それでひどい目に遭ったではないか。人を傷つけたではないか。大きく深呼吸し、正体不明の女の声に、ノツルは震えながらも大いに言い返した。
「は、は、は、話だけなら、聞いてあげなくもなくってよ!」




