罠でもなんでももういっか
「何やってんだ!」
叫んだ合儀肺助の手の中に、夜風和留の手がある。間一髪、肺助は柵の向こうに消えかけた彼女の手を掴んでいた。
「ちょ、痛いって」
そういう夜風和留は笑っていた。それもそのはず、そもそも落ちて大怪我をするような場所でもなかった。崖っぽくはなっているが垂直に切り立っているわけではなく、せいぜい六十度ぐらいだろうか。落ちても転がるだけである。しかも、高さは二メートルもない――打ち所が悪ければもちろん大事にはなるだろうが。
対する肺助は真顔、かつ無言で和留を引き戻す――だが、その時、彼女は思いっきり肺助に体重をかけると、そのまま朽ちかけのベンチに肺助を押し込んだ。
「え、ちょ……」
途端、肺助の仏頂面は崩れ、困惑に没した。鼻先同士が触れ合う程の距離に、和留の顔があった。しかも、いつの間にか、彼女の手首を強く握っていた肺助の手は解かれ、なんと指同士を絡めて握り合っていた。
苦しい――そう合儀肺助は感想する。そう、この状態、ベンチに腰掛けた肺助の上に、夜風和留が跨り、その腰、腹、胸を正面から押し付ける形になっている。密着。甘ったるくて強い匂いが今は、肺助の鼻腔を通じて交じり合い、体内から一つになっているようだった。
「えっちだね」
十センチほどしかない距離で和留が笑った。その呼気が顔に掛り、振動は擦れとなって肺助の全身を舐めるように揺する。服越しに柔らかな感触と熱が伝わり、応じて自分の体もまた熱く脈動し始めるのを肺助は自覚した。
(勘弁してくれ、もう……!)
「勘弁してくれ、もう……!」
肺助は涙を浮かべて言う。
(何考えてんですか!)
「何考えてんですか……」
「背中に手、掛けて」
ところが、和留は肺助の容態に一切気を掛けず、そういった。自身の指を絡めた右手を持ち上げる。人差し指だけ器用に動かし、肺助の左手の甲を撫でた。
(もうそれはいろいろと終わりですよ!)
「もうそれはいろいろと終わりですよ……」
消え入りそうな声で肺助は言った。だが、相変わらず和留は、肺助の様々な事情などお構いなしに行動する。彼女はついに、肺助の肩に自身の顎を乗せるようにして、耳元で囁いた。
「あたしね、逃げてきたんだ」
「……」
「こんな朝早くから、こんなところで一人でいるなんて、そういうことしかないじゃん」
(この状況で、同情を買うつもりなのか……?)
一方で、夜風和留の全体重(推定四十キロから五十キロ?)を全身に浴び、匂いも、そして彼女の帯びた熱さえ混ざり合ったこの状況、肺助はどんどん思考力が低下しているのを感じる。
「そこういうこと、ない?」
「それは……」肺助は言い淀んだ。否、これがギャルの術中なのであれば堂々と跳ねのけるべきだろうが、肺助にはもう無理だった。
「ある、かも……」
肺助は今朝の家での出来事を回想していた。
「よかった。じゃあ、あたし達一緒だね」
肺助は返事をしなかった。返事をしたらもう終わり、とか、すっかりもう、なんと返せばいいのかわからなくなって、ではない。彼は言葉を返す代わりに、解いた左手で夜風和留の背を強く抱いた。五指が彼女の、衣服、皮膚、脂肪層を超え、意外に鍛えられた背筋にやさしく埋まる。腕全体がまた夜風和留の熱と混ざり、溶けるよう。和留の空いた右手は、肺助の後頭部に回っていた。少しくすぐったかったが、心地よかった。
「でもさ、こういう逃げたくなる時って、逃げても解決しないし、向き合ったってよくわかんないじゃん。だからね、ママがよくこうしてくれたの」
肺助の上で、和留の体が縮む。否、彼女が身をよじり、肺助により強く抱き着いた。
「解決はしないけど、落ち着くでしょ」
「そう、かも」
呼吸する度、彼女の匂いが体内を廻り、表皮は彼女の熱でいっぱいになっている。首後ろの血管が広がるようで、肺助も少し体を動かした。
「なに、くすぐったい」
本来なら邪魔と思うであろう彼女の髪が頬にぱさぱさと触れることさえ、今はなんと幸福に溢れているのだろう。
「こういうこと、誰にでもするんですか」
ふと、肺助はそんな間抜けなことを聞いてしまった。和留が苦笑するのがわかる。
「さあ。どうだろうね。でも、彼氏いたら彼氏にするし、見て」
和留が自身の左手を持ち上げ、肺助にも見えるようにする。その指先が、かすかに震えていた。
「はいぴーだから、こうしてる。ママにしてもらう以外は初めてだから、受け入れてもらえるか心配だったけど」
「え……」
「何その反応。めっちゃ恥ずかしいのに。もっとちゃんとして」そう言って、和留はより肺助の首元に自分の頭をうずめた。
「遊んでるって思ってたでしょ、あたしのこと。でも、全然そんなことないよ。言ったでしょ、逃げたくなることばっかだって。でも簡単に逃げられるんなら、こうはならないじゃん。でも今日、爆発しちゃったんだ……誰のせいだろうね」
肺助は自然と、自身が遭遇した出来事を思い出していた。
――爆発。
自然と、和留の背に回した手に力が入る。
「これで、はいぴーも落ち着いた?」
「それは……」
「きっと、はいぴーもあたしと同じでしょ。どこかから逃げてきたんじゃない?」
どうやら、最初からすべてお見通しだったらしい。
「そうかも。なんか、これはこれで……」
肺助はつい、自分の頭を和留の方に押し込むように傾けた。こつん、と頭同士がぶつかり、互いの頭蓋骨が共鳴しあう音叉のように微かに揺れ合うのを感じる。
「そっか、それならよかった。こういうのも初めてだったから、どうしよっかなって思ってたんだ。年寄相手だったら何も考えないですぐなんだけど、流石に年が近いと可哀想だなって」
「え?」
その時、一瞬冷たい風が吹き抜け、肺助の頬を切った。
「あたし、これからはいぴーのこと、殺さなきゃいけないんだ。聞いてるでしょ、刺客の話。あたしはその三人目」




