怪物が、来る
合儀肺助はとにかく走った――否、逃げた。急に距離を詰めてくる幼馴染(女子)、それをどこか意味深に(嫉妬深げに)見つめてくる学校の先輩(女子)と、そんな二人を得意げに侍らせている母親。
「なんなんだよ、あれ!」
気付けば、肺助は徒歩三十分かかる最寄り駅に至っていた。この田舎町といえど、朝は多少の賑わいを見せる。これからより都心部に出かけるスーツの男や、わずかばかりの学生、それから遊びにでも行くのか着飾った婦人が一方向へぞろぞろと移動する。
時計は八時近く。今から学校に行っても間に合わない。途中から出席してもいいだろうが、そんな気は一切起きなかった。
(ノツルや先輩がいるのは間違いないし……)
とはいえ、家には帰らないといけない。そうするときっと二人(となぜか得意げな母親)がいる。
「おれは、何がしたいんだ……」
肺助は朝の喧騒の片隅、主に線路に沿った駐輪場の看板の傍に体重を預けた。金網が肺助の体重を緩く跳ね返した。
自分でも情けない。ただ家の環境がガラッと変わり、そこから正真正銘逃げてきた。肺助は頭を抱えた。
とはいえ、とにもかくにも、家に帰る気は起きなかった。肺助は取り留めもなく、こんなことを考える始末。
(いっそのこと、なんか帰んなくてもいいような、言い訳になる事件でも起きねえかなあ)
あまりにも不謹慎な考えであった。
「いや、よくない……最悪だ」
そうして自己嫌悪。すっかり、女子二人のおかげでペースが乱れている。肺助は悶々と思索に溺れる以外にできることがなかった。そう思った。
「助けて!」
そんな叫びが聞こえるまでは。
はっとして顔を上げると、朝の喧騒に小さな人だかりが生まれていることに気づく。といっても四人ほどの男達がおどおどと困惑しているのみ。だが、その隙間から、五、六歳の少女が泣きそうになっているのが見えた。それが、助けを求めている!
あまり、良い動機でもない。だが、まるで肺助は縋るように少女に向かった。すると、気になる声が聞こえてきた。
「なんだあれ、見たことないぞ!」
「怪物か? なんて恐ろしい見た目をしているんだ」
「おいおい、あんなの警察だってどうにもできない!」
集まっている男達はそんな情けない言葉を漏らすばかり。
「やめて! わかんないよ!」
対して、人だかりで見えないが、少女は腕を振り回して何かと戦っている。だが、それにしても、誰も止めようとすらしないのが異常だと肺助は感じる。
男達に少女が怯えているのではない。男達が怪物と呼び、少女が相対する『何か』がいる!
(怪物――か。そうだ、おれは守ると決めたんだ)
いまだにはっきりと自分の守りたいものを守れたか、確信はない。だが、それでも今ここから逃げる理由にはならない。
(母やノツル、先輩からは滅茶苦茶逃げてるけど、これ以上逃げて目の前の子どもすら見捨てたら、もう呪術師失格だ)
肺助は唾を飲み、ついに『なにか』を囲む五、六人の人だかりを押し退け、敵に相対した。
「ちょっと、何をして……!」
「ああん?」脅すような、女の声。しかしその声に、否、風体に、肺助はあっさりと硬直した。
――怪物。この駅前の人だかり、男達が口にしていた言葉を思い出す。
(しまった、相手は本当に、本物の怪物だ! それがこんな小さな女の子に迫っていたなんて!)
肺助は動揺を隠せない。こういうとき、どうすればいいかさっぱり見当がつかなかった。
「これは……まさか、本物の黒ギャル……?」
そう、合儀肺助が勢い良く守るという覚悟で相対した敵こそ、日焼けと化粧で褐色に染まった肌、目元の濃い化粧、つけ睫毛等により強調されたはっきりとした目、脱色までして染め上げた金髪、サイズの大きいセーターを制服、シャツの上に着ているが、それはともかく短いスカート、健康的な肉付きの腿から下に視線を下ろせば、膝から踝までルーズソックスが固めている。
そう、それこそが、このド田舎ではついぞお目に掛ることがない『怪物』黒ギャルという生物だった。
――合儀肺助と黒ギャルの因縁は、五年以上昔に遡る。




