特別な少女
もう、覚えてないのかな。
ある日、瀬路原ノツルは、カラマ商店街の一角をみてそう思った。
『タピオカ屋まんまるティー』
そんな変な店ができていた。昔、そこが煤けたシャッターを下ろしていた時から知っている身としては、心中複雑であった。
『ここに、幽霊がいる!』
ノツルがそんなことを言ったのは、小学校に上がる前だっただろうか。相手は、近所に住む一人の男の子。名前を、合儀肺助という。
ノツルの家の近所には、不思議な呪文を唱えて怪我や病気を治せる子供がいた。ノツルがある日、近所の公園で転び、膝をすりむいて一人で泣いていると、いつの間にか一人の男の子が立っていた。
「一人?」
彼の問いかけに、ノツルはずっと泣いて答えなかった。すると、少し困った表情をしたのち、彼は周囲を注意深く見まわした後、何か小言で唱えた。
「立てる?」
彼の言葉に、ノツルは思わず目を丸くした。足から痛みが消え去っていた。傷は残っているが、それだけだった。
「どうして? 全然痛くない!」
「そういうものだから」ノツルの問いに、彼はそう答えた。
この日から、ノツルは不思議な友達を手に入れた。
「あのにゃんこ、全然懐かないの」
「お母さんからもらった鞄、なくしちゃった」
そんな悩みに、彼はあっさりと応えてくれた。
「ちょっと呼びかけるから待ってて」
「占いによると、こっちだと思う」
彼がそうして、不思議な何かを使って自分の願いを叶えてくれるのは心地よかった。まるで、おとぎ話に出てくる魔人と知り合ったようだった。自分のためだけに、願いをなんでもかなえてくれるのだ。
彼と一緒にいると、わたしは特別なのだ、と。そう感じた。
ところがある日、そんな中で、ちょっと試してみよう、とノツルは行動起こした。
小学生になるかならないか、それくらいの年齢のノツルと合儀肺助は、カラマ商店街のとあるシャッターの下りたテナントの前に来た。
「ここに、幽霊が出るの?」眉間にしわを寄せ、肺助はノツルに訊ねた。
「うん。見た。すごく怖かったの」嘘だった。
「わかった。絶対に助ける!」
でも、ノツルが堂々と見たといえば、肺助は深く目を閉じ、一心不乱に呪文を唱えて、いもしないはずの幽霊と戦い始めた。
『オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ』
知らないノツルにとっては少し馬鹿にもしたくなる不思議な言葉の羅列。それを、彼は繰り返し繰り返し唱える。
(なんて、馬鹿みたいな)
と、ノツルは思った。当時のノツルに滑稽なんて語彙はなかったが、それに似た嘲りや呆れの感情が胸に浮かんだ。魔人の正体は、自分の妄言に振り回される哀れな男の子だった。
――彼は、結局のところ、やっぱり特別ではなく普通の子供だ。呪文だって、嘘に違いない。
「やめなさい、肺助!」
ばちん!
ところがそれはあまりにも突然のことで、ノツルは目の前の出来事に思考がついていかなかった。
いきなり二人の前に一人の女、肺助の母親である合儀椎子が現れたのだ。そして、彼女は一切の躊躇なく、肺助の頬を平手で打った。
「肺助さん、勝手にそんな呪いを使うなんて、ありえないでしょう。何を考えているのですか!」
そう厳しく怒鳴り、そのまま椎子は肺助を連れ去っていく。椎子の声が異様に響いて商店街全体の時間が止まったよう。当の肺助は目に涙を貯めつつ、それでも一言も不満を露わさず、まるで人形のようについていってしまった。
ノツルには、何が起きたのかさっぱりわからなかった。ただ、ノツルだって母親に怒られることはたくさんあっても、あんなに恐ろしかっただろうか、と思う。
その日以来、どこか肺助を見る目が変わった。今までは遊び半分、気軽に接していた彼との関係だったが、命香は少し惧れをもってあたるようになった。それが正しい、と思う機会も増えた。
「知ってる? 合儀さんのとこの相談料、五十万円もするんだって。なんか怖くない?」
小学校も高学年になれば、お金の概念も十二分に理解できる。すでに、周囲は合儀家が『拝み屋』であり、近所を影で牛耳る少し不気味な一家であると察していた。
「でも、うちのおばあちゃん、合儀さんで腰を治してもらったって」
「お母さん、お父さんに浮気したら合儀さんとこ行くからね、とかよく言ってるよ」
「本当に効くのかなあ。よくわかんないね」
そんな会話が、肺助のいないところで行われているのをノツルは聞いた。
(呪いってそういうもんなんだ。やっぱりみんなは、肺助を避けてる)
ただ、この時すでに、ノツルにとっての呪術とは、あまりにも身近になりすぎていた。
「ノツルの足が、みんなより遅いのを禁じる」
中学校に上がって、初めての運動会を控えたある日。ノツルはいつも通り、肺助に呪術をお願いしていた。肺助はさも当然と言った表情で、ノツルの足に九字を切りながら呪禁を口にする。通学路の十字道。その陰に二人はいた。
「ねえ、こういうことってみんなにもしてるの?」
わかり切った質問をした。
「別に。誰も頼んでこないし」
肺助は当然、といった口調で答えた。彼は、ノツル以外には呪いを使わない。頼んでこない以前に、誰も肺助の呪いを恐ろしがって近付かないからだ。だから、彼が本当に呪いを使って、なんでも解決できる、恐れるようなものではない、というのは二人だけの秘密なのだ。
(やっぱり、みんなは肺助を少し怖がって何も頼らないんだ。本当は、肺助は頼めば真剣に解決策を考えてくれるのに)
ただ、この日は少しいい気になって、こんな質問を続けてしまった。
「ところでさ、今まで気にしてこなかったけどさー、それっていくらするの?」
何の気なしにノツルはそんなことを口にしていた。
「別に、これはそういうもんじゃないだろ。なんで急にお金の話なんてするんだ」
肺助は不思議そうに言う。
「だって、肺助の家ではお金取ってるって前に聞いたことあるけど。『拝み屋』なんでしょ? それでお金もらってるって」
「え? そんな馬鹿な事あるわけないだろ。どういうことだ?」
ところが、これがどうも肺助にとっては一つの転換点になってしまったらしい。この時ばかりは肺助も目を丸くして、指先を震えさせ、全身で動揺を示していた。きっと、口では否定しつつも、思い当たることがたくさんあったのだろう。
以後、肺助はすっかり友達とも喋らなくなり、自然とノツルとも距離を開けるようになった。
合儀肺助は、幼馴染に頼まれれば、母親に引っ叩かれようが呪いを使ってくれるお人よしだった。それが、自分の家族の生業、生計を知り、隠すようになってしまったのだ。
以来、ノツルも肺助から距離を置くようになっていた。
(もしもお金を取るぞ、なんて言われたら、わたしは肺助にどんな顔をすればいいんだろう。わたしは、特別ではなくなってしまう)
「また、早く走れますように、とか、やってくれないかな……」
自室のベッドで横になり、天井の蛍光灯に向けて足を延ばす。
「それとも、もう忘れちゃったのかな」
せめて、もう一度ちゃんと話をしてみたい。でも、改めて考えると、なんと声をかけてやればいいのやら。
「わたし、普通になっちゃったのかな」
同じ高校に行くことが分かったとき、頑張って話しかけてみたが、肺助の反応は実に淡泊だった。
『ああ、そう。じゃあ、頑張って』
(みんなと同じ扱いだ)
ノツルは直感した。それが決定的なものになり、ノツルはいよいよ肺助を見かけても、声すら掛けなくなった。
最後、中学一年生の時、九字を切ってもらった脹脛を撫でてみる。だが、それで何かが起こるわけではない。
「もう一度、肺助の特別になってみたいな」
ぼそり、とノツルはつぶやいた。言葉にしてみると、随分と恥ずかしい。だけど、その気持ちに嘘はない。
どんなに小さなことでも親身になって話を聞き解決してくれる。必死で、真面目な顔で何もないシャッターに呪文を唱えたり、畏まって自分のために九字を切ってくれるあの少年に、もう一度会いたい。
(でも、どうやったら特別に戻れるのだろう。普通に話しかけるのは、怖い)
その時であった。
ずずず。
ノツルは、枕の横に置いていたスマートフォンが鳴ったのに気づく。深夜二時。普通、この時間に着信があるなんてことはないはずだ。
何事だろう、と体を回転させてスマートフォンを手に取り、通知欄を確認した。
『あなたを、特別にしてあげます。合儀肺助君を、助けてあげませんか』
あまりにも胡散臭いメッセージが表示されている。スパムメールのような文面。だが、不思議と惹かれるようにその内容を、読むだけならとノツルは開いた。




