戦乱の火種、予感
「いけ好かないって、別に教える必要もないだろ」
合儀肺助は顔だけを捻って、瀬路原ノツルから離れようとする。だが、ノツルは肺助を放そうとはせず、耳元で囁き続ける。
「そうかなあ。だって、わたしが頼んでも全然使ってくれないじゃん。昔はあんなに……」
ノツルは唇を尖らせた。肺助は周囲の様子を伺い、彼女の言葉を遮った。
「瀬路原、あんまり呪いの話は……」肺助は小声で言った。すると、ノツルは得意げに笑みを浮かべた。
「別に気にしなくてもいいと思うけどなー」
と、ノツルは不満を口にしつつ、周囲を見渡す。
「え、朝っぱらからイチャイチャしてる……」
「合儀君って、そういう人だったの?」
「あいつ、おれ達と同類の陰キャだと信じてたのに……」
「ほら、そういう話をするから変に噂されてるだろ」肺助は顔をしかめる。
「そうかもしれないけど、肺助の言ってることとみんなの噂は方向性が違うと思わない?」
ノツルは少し頬を紅潮させて言う。とはいえ、確かに密着しすぎたかもしれない、と反省する。
(っていうか、汗臭いって思われたらいやだし……)
「わかった! じゃあ、今日の放課後たっぷり教えてよ」
ノツルの提案に、肺助は一瞬眉を顰めたが、仕方なく首を振り振りいう。
「……わかったよ。じゃあ、後でな」
肺助の言葉を聞くと、漸く瀬路原ノツルは肺助から離れた。活発な印象そのままの、外に跳ねた髪を揺らして笑う。
「うん。よろしくね! 例の女の先輩のことも含めてばっちり聞かせてもらうからね」
「例の、女の先輩?」
「合儀君、結構遊んでるの?」
「どういうことだ! あいつは同じ陰キャ仲間のはずなのに!」
周囲が、ノツルの言葉に大いに沸いた。
「え、なんでそれを……」
肺助は絶句した。だが、当の相手はクラスも違うため、さっさかと教室を出て行ってしまう。肺助は呆然と、教室の出入り口を眺めるしかできなかった。
*
放課後になって、しばし肺助は教室のある校舎三階をうろうろしていた。だが、いくらそうしても合儀肺助の浮ついたような気持ちは変わらなかった。
瀬路原ノツルは陸上部に所属し、本人曰く、短距離走が『好きな』部員である。好きな、というのは、得意であるというわけではない事実を彼女なりに言語化した産物である。
『折角同じ高校まで来たのに、これ以上は一緒にいられなくて申し訳ないねえ。どう、肺助も一緒に走らない? まあ、肺助は呪われちゃってるようなもんだから無理かなあ!』
同じ高校に入学するとわかってから、ある日そんなことを言われた。そして、彼女の予言通り、すっかり疎遠になっていたのもまた事実である。
(しかし、一体どうしてこのタイミングで)
肺助は廊下でぼうっと思案していたその時であった。
「なんかまた、どうでもいいこと考えてるでしょ」
「うわあ!」
突然背後から声を掛けられ、肺助は文字通り飛び上がって振り向いた。瀬路原ノツルがそこにいた。
「そんなに驚かなくてもいいのに」ノツルもまた、目を丸くして肺助を見ている。
「……部活はいいのか?」落ち着きを取り繕って肺助は言う。
「今日は休み。なに、やっぱり嫌だった?」
む、と膨れてノツルは言う。
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
しかし、肺助の頭にあるのは、彼女が呪いに関心を持っていること、そして何より、命香すら視野に入れて、何かを聞き出そうとしていることへの警戒心だった。
「じゃあよかった。ねえねえ、実は駅前の商店街にさ、タピオカ屋さんできたんだって! 行こうよ!」
「え、今更タピオカ……? この田舎で?」
流石に時代遅れでは、と肺助は思った。タピオカは、もう過ぎた文化である。
「だめ?」不満そうにノツルは言う。
「いや、別にいいけど」
しかして、今更タピオカ? という疑問が、今目の前にいる瀬路原ノツルの誘いを断る理由にもならない。おいしいタピオカミルクティーに罪はない。いつ摂取してもいいし、咎められることもない。
「商店街のさー、スポーツショップあるじゃん。あの隣にできたんだよ」
「確か、ずっとシャッターがかかって、お店が入ってなかったところ?」
「正解! よく覚えてたね」
のっちゃんポイント、十ポイント! とノツルは笑う。
「あそこ、小学生の頃、幽霊が出るって二人でよく見に行っただろ?」肺助も昔のことを思い出していう。ノツルの顔はさらに明るくなり、手を叩いて喜んだ。
「そう! 肺助が除霊するって言ってたよね!」
ノツルは目を輝かせていう。両手を振り回し、どうやら呪術を使う肺助を真似しているようだ。すると、肺助の顔が真っ赤になる。
「オーケー分かった、この話はもうやめようか」一呼吸、それから急に落ち着いた口調でそういい、話題の終了を示した。
「えー?」にやにやと笑みを浮かべてノツルは肺助の顔を覗き込んだ。
「わたし覚えてるよー? 肺助がなんか呪文唱えてこう! こう! してたの!」
「あんまりそういうのは、ちょっと……」肺助はまるで子犬でも暴れ出したかのように手を突っ張り、ノツルを抑えようとした。
「そう? かっこよかったけどなー」
そういわれると、肺助はどこか首だの背中だのがむず痒くなるように感じた。
「そんなことないだろ。ほら、行くんだろ、タピオカ」肺助は学校を出るように促す。ノツルは露骨に顔を伏せ、ぼそりと呟いた。
「……そうだよね。肺助はずっと、そういうのが特別だもんね」
「何、まだあるのか?」早く離れたくて仕方のない肺助は、うっかり彼女の小言を聞き落としていた。
「うん。なんかある!」ノツルは元気よく言う。すると、
「何があるんだよ」と肺助は真顔で訊ね、
「……何をだろうね」と、ノツルも急に真顔で言う。
この奇妙な問答と、ふと空いた間がおかしくて、二人は微かに笑ってしまった。
「よっしゃ、行くか」と、突然瀬路原ノツルは自身の顔を叩き、屈伸をしたり体をひねったり、準備運動を始めた。
「これから、走って先にタピオカ屋さんに着いた方がタピオカを奢る。これが本当のタピオカチャレンジ」
「違くない?」
そう否定しつつ、肺助はつい、準備体操を始めた瀬路原ノツルの体型を注視した。小柄ながら、健康的に筋肉がついた四肢。無駄な脂肪はなく、走るために鍛えられたその体は、如実に滑らかな曲線で全体を構成している。胸回りも陸上競技向きの大きさに抑えられているが、一方で肺助はこうも思う。
(中学の時よりはそういえば迫力があるな。こういうところが陸上が好き、ってところなのか?)
「今、なんか失礼でいやらしいこと考えたでしょ」そう言って、ノツルは自身の両肩を抱いて肺助を睨んだ。
「え、いや、そんなことは……」
肺助は慌てて明後日の方を向いた。その瞬間だった。
「罰として、十秒ハンデね。じゃあ、スタート!」
とノツルは宣言し、早々に走り出した。
「あ、こいつ……!」
「じゃあ、ちゃんと『追いかけて』来るんだよ! わたしのこと、一人にしないでね!」
そう叫び残して、どたどたと忙しく、ノツルは階段を下っていく。
「何故……」
肺助はそう言いながら、脳内で十秒を数え、仕方なく走り出す。
――気付けば、急にノツルが呪いに言及したこと、それから命香のことを気にしていたことなど頭から吹っ飛んでいた。
ただ、肺助もまた忙しなく、階段を下って玄関を目指す。
――そんな、二人の様子を、廊下の影でじっと見ている女がいた。
「え……わたしは一体、何を見させられてたの……?」
そう呟くは、阿賀谷戸命香だった。無意識のうちに、隠れていた柱を握る手に力の籠る。




