はじまる幼馴染と
呪禁師の一日は、日の出とともに始まる。日の出とともに目を覚まし、外に出て駆け足で修練場へ出向き、川辺に至り禊をして身を清め、野に出て自然の空気と自分を綯交ぜにする。卜占で得た方角に出向き、太陽に向かって座禅を組み瞑想する。或いは真言を唱えるなどをして心身を調える。
そして、下山ののち、川の水で身を清めてから小屋で一休憩。そのあと、家に帰るのだ。これが、主な合儀肺助の呪禁師としての持禁の一環である。
だが、この日。家の前で肺助は足を止めた。
合儀家の表札が、ない。
それは、肺助自身が破壊したからである。昨晩はいろんなことがあった。いつの間にか黒髪ロングのFカップ女子高生(清楚系の先輩)と結婚したことになっていて、当然それはまやかしであった故、なんとかその悪しき『まじない』を看破した肺助は、いよいよその張本人と対決、勝利した。
だが、その勝利の代償は大きかった。
肺助はその表札のない家の前と同じく、何か大事なものが欠けた気持ちでそこにいた。
(違う! あれは忘れろ!)
首を激しく振って、邪念を払う。
(おれは、この家や土地の人たちを、守る。それでいいんだ。何が結婚だ、何が清楚系なのにちょいちょい動作がかわいい先輩だ、惑わされるな。これから先、また別の呪術師がここに来るらしいが、負けはしない。今日からおれの新しい日々が始まるんだ)
肺助は大きく深呼吸して気を落ち着け、家のドアを開けた。
「ただいま帰りました」
「お義母さま、お味噌汁の味見、お願いしてもいいですか?」
「もちろんよ。いただくわね!」
「……様子がおかしいな」肺助はつぶやいた。
玄関にはすでに、本日の朝餉であろう味噌汁や白米の炊ける匂いが充満していたが、それに交じって賑やかな会話が跳ねていた。
「おいしい! やっぱり命香ちゃんはお料理が御上手ね」
「いえ、お義母さまの教え方ですよ。こんな素敵なお家の娘になれて、わたし、幸せです」
「命香ちゃん……本当にいい子……」
「どうなってんだよ!」
台所に駆け込んだ肺助は思わず怒鳴った。
コンロの前には、ぴったりと身を寄せ、肩を合わせながらみそ汁の味見をしあう嫁姑……ではなく、母・合儀椎子と『???』・阿賀谷戸命香(長い髪を一つ結び、制服+エプロンの姿)がいた。
「肺助さん、お帰りなさい」「お帰りなさい」
これまた、椎子と命香は同じタイミングでそう言った。
「いや、あの、状況を説明してください」
肺助は目を白黒させながら言う。
「それとも、これは夢の続きか……? いや、呪いだ! またくだらない呪いを……」
肺助は命香を頑張って敵とみなして睨みつけた。ところが。
「いいえ。いいですか、肺助さん」
椎子は、ずい、と前に出て肺助に言う。
「命香さんには、見所があります」
「……見所が……ある……?」
理解不能であった。肺助はあんぐりと口を開ききり、母の次の言葉を待った。
「そこで、お帰りいただく前に、合儀家の呪術を学んでいかれるよう、説得しました」
「ちなみに、わたしは二つ返事でオッケーしました」
「それは説得じゃないだろ」
「というわけで、これから命香ちゃんはうちで呪術を学ぶ妹弟子です。弟子なので一緒に住みます」
「わたしから、月謝をお家賃込みで毎月百万円ほどお包みする契約です。まあ、折角いい機会だし、ちょっとわたしもお勉強したいなって思ったから」
「じゃあもうそれは生徒だろ。っていうか、師匠と弟子なのにお義母さんとか言ってなかった?」
「それは、楽しいからです」
「……楽しいから……です……?」
「ねー、命香ちゃん?」
「はい、お義母さま!」
肺助はもう考えることをやめた。そんなことはない気もするが、この家の中で家長の言うこと、決定は絶対である。つまり、この事態に向き合うことの面倒くささから、肺助は逃げた。
(落ち着け、向かってくるなら戦うだけだ。おれはそう決めたはずだ!)
着替えて今に戻ってきた肺助のテーブルに、阿賀谷戸命香は先んじて着いていた。いただきます、と手を合わせて細い箸で焼き魚(干物・鯵)の小骨を分けつつ丁寧に食べるその姿を見ながら、肺助は味噌汁(豆腐とわかめ)を啜り、自身の決意を必死で唱えた。
(落ち着け……確かおれは、向かってくるなら戦うだけのはず……おれはそう決めたはずだ……)
「今日のご飯も本当においしい! 命香ちゃんの旦那さんになる人は幸せね!」
「もう、やめてください! 褒めるの禁止、恥ずかしいです!」
きゃっきゃっ!
(くそ、人の家を荒そうとした敵の癖に!)
その日の朝食は、まるで味がしなかった。
「冴えない顔してるなあ! 肺助!」
学校にいても、肺助は今朝の出来事が頭から離れなかった。そうして、教室でボーっとしている肺助の背中を叩く女子生徒がいた。
「なんだよ、瀬路原」
肺助は少しむっとして相手の顔を見る。瀬路原ノツル。小柄だが、随分と活発そうな少女が肺助に満面の笑みを向けている。
「もう、水臭いなあ。聞いたよ、肺助」
そう言って、ぎゅう、と肺助の肩を掴み、瀬路原ノツルは体を密着させて囁いた。ノツルは陸上部に所属している。きっと朝練から戻ってきたばかりであろう彼女の制服の下から、制汗剤のシトラス系の香りが広がり、それを感知した肺助の小鼻が動いた。勿論、匂いだけではない。肺助の背中にノツルの胸が密着し、その感触と一緒に体温が伝わってきた。身を震わせることを何とか抑えつつ、しかし、肺助は浸透する彼女の体温に熱せられる皮下を自覚した。
「呪い、使ったんだって? 幼馴染のわたしに、そういうことを内緒にするっていうのは、なんだかいけ好かないなあ」




