確かにやんなくてもいいんですけどね、ね?
「戦う必要って……」
肺助は思わずたじろいだ。確かに、この戦いは既に敗北している命香になぜかもう一度チャンスを作ってやるという、あまりにも無意味なものだった。
「そうだ。この戦いはあまりにも無意味だ。っていうかむしろ阿賀谷戸先輩に有利だ。だけど、おれはこれが、どうしても必要な気がしてならない! だから、やるしかないんだ!」
肺助は叫んだ。
於、合儀家敷地、西の修練場。草木のない、テニスコート四枚分ほどの大きな広場にて、合儀肺助と阿賀谷戸命香は向き合っていた。距離、十メートル。
大声で言う肺助に対し、命香は肩を竦めた。次いで、違うんだよねー、という。
「肺助さんってさ。この合儀の呪術を継ぐ気もないし、呪術師になりたい訳でもなさそうだよね。知ってるよ」
「それは……」肺助は言い淀む。
「だったらさ、ちょうだいよ」
「え?」
「お母さんも、家も、土地も、全部。いらないならくれたっていいじゃん」
――怨。
あまりにも静かであった。しかし、肺助はその時、明確に自分へ向けられた呪いに身を震わせた。
「――それは、できない」
しかして、彼女からの恨みがましい視線を受けてなお、肺助は堂々と言い放った。
「どうして? いらないものならくれたっていいでしょ」
「そういう問題じゃない。先輩は呪いを、人の不幸のために使う。命乞いなら頭を伏せろ」
肺助の頭には、勉強を優先すると宣言し、呪術師の教義を曲げることすら許容する母の姿が浮かんでた。
「不幸って……」
命香はぎり、と歯を鳴らし両手をきつく握りしめた。
「命乞いに見えたなら心外です。所詮はここから出たことのない田舎の『拝み屋』でしょ。言っておくけど、呪術師同士の呪い合いに手加減はしない。わたしは、呪禁も使うし、他の呪術も使う。わたしはあなたを生かす理由もないし、わかってるよね?」
命香はふと、思い出したようにそう言う。肺助は頷いた。
「わかってる。呪術師の殺し合いは、なんでもありだ。見たこともある」
「そう」特に関心を抱く素振りもなく、命香は息を吐いた。
命香の殺気がすう、と収まる。それがしかし、肺助を緊張させた。これで、いつ呪いが行われるか予測がつかない。
(どうする、一体、いつ呪禁を使う? 少なくとも、先手を取られたらまずい!)
肺助は腰を落とし、睨みつけるように命香の様子を伺い、命香自身も緋袴の下で膝を屈曲し、いつでも動ける姿勢を保っていた。
時刻は夜八時。夜風が抜けていく。向かい合う二人を月が見下ろしていた。
「では、試合、開始!」
そして、呪い合いの号令は、合儀椎子が告げた。
瞬間、両者は呪いを口にした。
「躊躇を禁ず!」「急急如律令!」
肺助は地面を蹴り、真後ろに跳んだ。命香も同じく、自身の後方に跳ぶ。すなわち、両者ともに距離を置く形!
それも当然。呪禁に限らず、呪術に必要なのは、『時間』である。
即席で行う呪術には、呪文や印がまず上がるが、このどちらにも言えるのは、一秒以上の時間が必要であること。つまり、距離と時間を稼ぐのは定石である。
ただし、この時、両者にはその意味が全く異なった。
『躊躇を禁ず』
即ち、肺助はあらゆる思いを断ち切り戦うために、禁歌を使った。対象者を指定しない禁歌は、時に自分にも相手にも作用する。諸刃の剣だが、高速で唱える必要のある一手であった。
対する命香の『急急如律令』は、その手に持つ呪符のため!
使った呪術は、伝・五雷正法〈早雲〉=古くは道教に伝わる雷を呼ぶ法術である。
遡ること半年前。遁甲盤を用いた卜占に見た日付と方角にて、一か月の断食で臨んだ阿賀谷戸命香が五臓を廻る気を用いて制作した百八枚の雷を呼ぶ呪符の一つである。
急急如律令の号令で呪符は一瞬のうちに焼け散ったが、代わりに修練場を雷光が埋め尽くした。眩い光が修練場を昼間に変え、雷の爆音が修練場から山全体を巻き込んで揺らした。
一回の落雷で得られる電力は一般的な家庭の数か月分に匹敵し、その電流は一億ボルトを超える。
対して、人体が耐えられる電流はたったの五十ボルト。しかも、体が濡れているか、金属を手にしていた場合はその半分でも耐えられない。
(つまり、走って汗をかき金属の錫杖を握った合儀肺助は感電して死ぬ!)
ただし、今回呪符で呼んだ雷の出力は本物に劣った。なおかつ、急急如律令はこの呪術本来の呪文ではないため、せいぜい十分の一だろう。
「一千万ボルトぐらいかな。それでも死ぬんだけどね」
一瞬の昼間すら展開した雷法であったが、すぐに闇が戻る。とはいえ、この場には、その闇すらまともに見えている人間はいなかった。
「参ったな。目が見えないし耳も聞こえない。やっぱり威力が高すぎたか」
命香は雷法を使ったとき、すぐさま身に纏う女の髪を編み込んで作り墨で染めた呪術に耐性のある祈祷済みの羽織で顔を覆っていた。だが、それでも雷の閃光に目が焼かれて視界が白く染まっていた。しばらくは目も耳もまともに機能しないだろう。
「雷霆は天命なり、雷祖、雷母、雷将よ、我が呼び声に応えよ!」
だが、目を焼かれた程度で鈍るような呪術師ではない。命香はもう一枚呪符を、それから五鈷杵を取り出し、雷を呼ぶ。徹底的に焼き尽くし、肺助を殺す算段だった。こうなれば、合儀椎子は阿賀谷戸命香を養子に取るしかなくなる。躊躇はなかった。
「……あれ?」
ところが、命香は眉を顰めた。雷が出ない。いやな予感がした。目を復活させねばならない。
「阿賀谷戸命香の眩みを禁ず!」
慌ててそう叫ぶ。一秒でもいい、今、自分の目の前に何があるのか知らなくてはならない!
同時、雷の爆音で機能していなかった命香の『聴覚』が、偶然同時に回復していた。そうして最初に聞いた言葉は、まさに必殺の一言だった。
「投げられた錫杖の、阿賀谷戸命香に『外れる』を禁じる!」
復活した命香の視界一杯に、真っすぐ飛んでくる錫杖の石突が迫っていた。
「え?」
雷などいらない。どんな人間でも、顔面を錫杖の石突でぶち抜かれれば死ぬ!
惜しむらくは、せめてもう少し早く彼女の耳が回復していれば、呪符の文言を読み取り雷法を察し、錫杖を地面に刺して避雷針として自身は修練場端まで転がり逃げた肺助が、雷をやり過ごした後に放った『阿賀谷戸命香の呪符を禁じる』という呪禁も聞けていたであろうこと。
(おそらくおれと同じく先輩も目や耳は機能していない。人間相手の呪禁は聞かせることに意味がある。禁じるなら呪符の方!)
そして肺助は『錫杖が合儀肺助から離れるを禁じる』で錫杖を呼び戻し、『離呪』と一言呪いを解いた。次いで、目が見えないながらも天高く錫杖を投げ、呪禁で狙いを定めるのみ。それが、『外れるを禁じる』禁歌である。
(近づいて呪符以外で雷法を使われたら死ぬ。遠距離でとどめを刺す)
阿賀谷戸命香の顔面に錫杖が刺さるのは計算外だったが、仕方ない。合儀肺助に躊躇はなかった。
「馬鹿! そんなことあって堪るか!」
ただ、肺助のもう一つの計算外は、命香が視力を取り戻し、その反射神経で錫杖を掌で受け、捌いたこと。
「痛っ……みを禁じる! 五気合一、静にして動、無にして有、これより生じる太極より、雷雲よ来たれ!」命香は思わず漏れた言葉から感覚を禁じて、呪符を手に攻勢に転じた。
だが、まだ呪符は禁じられていた。呪符を禁じたとき、肺助は地面を転がりながら大威徳明王の手印を結んでいたため、より強く呪いがかかっている。また、雷法は禁じられていないため、雷法に躍る五臓を廻る気の高まりは続いており、命香は肺助の呪禁に気づけなかった。これが最終的な隙となる。
「なんで……」
「阿賀谷戸命香の手を禁じる」
「あっ」
命香の手から力が抜け、五鈷杵が落ちて、呪符がひらひらと舞う。あわてて、噛んででも拾おうとしたが、
「阿賀谷戸命香の足を禁じる」
その言葉で、命香は派手に転ぶ。が、ぎりぎり肩から落ち、その場でぐるりと回って受け身を取って大地に伏せた。だが、そこからはまるで芋虫のように体をよじることしかできない。
かしゃん。命香の耳元で錫杖が鳴る。
「口は禁じない。敗北を認めてもらわないといけないからな」
そうして見上げた命香の視力が再び白に染まっていく。最後に、自分の首へ石突を押し付ける肺助が見えたので、それでいいと命香は思った。
「負け、か。自信はあったんだけどなあ。じゃあ、全部喋んなきゃ駄目ね」
命香は肩をすくめ、天命を悟り、全てを語りだそうとした。
(仕方ない。こうなったら、全部教えて、後は本人に頑張ってもらうしかない)
命香は一度、深く息を吐き、吸う。そして、口を開く。すべてを語ろうとした、その時であった。
「いいや、待て」
そんな彼女の行動を制して、肺助は言う。
「やっぱり、何も言わなくていい」




