呪い合い、前
肺助の問いに、阿賀谷戸命香は顎に手を当ててしばし思案した。そして、次のように答えた。
「わたしが目的、言うと思った?」
悪びれもせず阿賀谷戸命香は答える。肺助の錫杖を握る手に力が籠った。
「言わないよ。じゃあ、わたしは帰るね。荷物はまた今度取りに来るから……」
「いいや、だめだ。荷物は今すぐにでも、燃やす」
「え、燃やすって、なに?」
帰ろうとしていた命香は慌てて足を止めて振り返る。対して、肺助は大きく息を吸ってから叫んだ。
「あんなもん、家にずっと置いてあったら、おれの頭がおかしくなるだろ!」
結婚式、新婚旅行の写真、結婚指輪、水族館のチケットの半券、レンタカーで伊豆に行った時のレシートも、実はちゃんと取ってある……否、そんなわけがない! それなのに、肺助の頭の中にはいまだに存在しない甘酸っぱくてほろ苦い幸せな記憶であふれていた。
「……あれ? もしかしてまだ、わたしにチャンスある?」
肺助の様子がおかしいことに命香は気付いた。背中側に手を組み、上体を倒して肺助の表情を下から盗み見ようとする。図らずとも上目遣いになった。
「な……ない!」
肺助は首を振る。そうでもしない限り、決意が揺らぎそうになる。
「わたし、肺助さんのためにお料理していた時間も、お義母さんとお喋りした時間も楽しかったよ」
「うぎっ」肺助は思わず悲鳴を上げた。
「お部屋のお掃除とか模様替えも楽しかったなー。ね? 今度は肺助さんともお掃除したいな」
「なんで、どうしてそこまで……」再び目に涙を貯めながら、肺助は消え入りそうな声で言う。
「どうしてでしょう。しいて言うなら、わたしの肺助さんが、真壁君と仲良さそうだったから? とか。わたしを置いてさ」
「え? 嫉妬?」と思わず口走ってから、当然罠だと思考が跳ねる。命香はいたずらっぽく笑うのみ。
(このままでは負ける! 方法を考えろ!)
そうして一つ、このシチュエーションに対して、有効な方法があると気づいた。
『あなたとはもうやっていけません。離婚です。この家から出て行ってください』
『待ってくれ、椎子! おれ達はまだやり直せる、そうは思わないか?』
『いいえ。それ以上粘るなら、わたしにも考えがあります』
合儀肺助は、数年前に合儀家で行われた凄惨な儀式の様子を反芻した。
「先輩、呪禁師なんでしょう。だったら、呪禁であなたの存在を禁じるしかありません」
その言葉に、阿賀谷戸命香は合点した。
「なるほどね。別にわたしは呪禁の専門じゃないけど、要は呪い合いってこと?」
頷くに代わりに、肺助は全長百七十センチの錫杖をびょう、と回転させて石突を地面に打ち付けた。かしゃん、と錫杖が唸る。
「そうです。呪術師らしく、呪術で決着をつけましょう。勿論、この表札を折られた時点で先輩の負けは決定しています。だから、大人しく洗いざらい理由を吐いて、今晩中に荷物を持って帰ってくれるなら見逃します」
大した自信、と命香は笑った。
「まさか。でもその代わり、肺助さんが負けたら、わたしと今度こそちゃんと結婚してね」
そういって、ウィンクまでして見せる、阿賀谷戸命香。相も変わらず、その清楚な雰囲気に反する可愛げのある動作に、肺助は顔を伏せて表情を隠した。
(くそ! 猛烈に負けたい……いや、そんなことはない! 耐えろ! 相手は何を考えているかわからない女狐だ!)
「――おれは、現代の太公望になる」
「何言ってんのかわかんないけどさすがに大きく出すぎじゃない?」
「合意とみてよろしいですね!」
そんな二人の間にひょっこりと、合儀椎子が現れた。
「母さん?」「あ、お義母さま」
「それでは、合儀家の敷地である西の修練場をお使いなさい。命香さんは場所がわかりますか」
「はい。下調べ済みです」
(こいつ本当になんなんだよ)
「よろしい。では、修練場に駆け足!」
急急如律令! なる椎子の呪術ジョークとともに、肺助と命香は駆け出した。
西の修練場とは、合儀家が保有する広大な山々に含まれる、草を刈り土だけとした殺風景な広場であった。
――五分後。
合儀肺助、家から出たままの、スウェットにTシャツ、サンダル、錫杖一本を持って、徒歩(全力疾走)にて現着。
――二十分後。
阿賀谷戸命香、白い小袖に禍々しい黒の大きな羽織、緋袴、長い黒髪を赤い紐で結い、白足袋と下駄で、合儀椎子の運転する自動車にて現着。
「もう、本当にかわいー! わたしも若い時はそういうの結構着たんだよねー!」
「え、そうなんですか? 絶対、今着ても似合いますよ、お義母さんなら。今度一緒に合わせましょうよ!」
きゃっきゃっ!
仲良く小突きあいながらハイエースより降りてくる二人を、肺助は次のように怒鳴りつけた。
「なんで先輩は着替えてるんだよ! あと車!」
(絶対に殺す!)
ここに来て漸く、自分を枠の外において盛り上がる二人に肺助は殺気を覚えた。そも、自分は合儀家最大のピンチを打開した功労者故。それなのに、自分は徒歩、命香は車というのも腹立たしい。
「ねえねえ命香ちゃん、小袖の下は大丈夫? 結構胸あるでしょ? 戦ったら出ちゃうかもよ」
「うーん、実は最後に着た時よりまた胸が大きくなってて……今、Fあるんです」
「えー! ホントに? 高校生で? しかも結構細いのに……お義母さんが確かめてあげるからちょっと触っていい?」
「だめです! おさわり禁止! お義母さんのおさわりを禁じます!」
(もう負けてもいいかもしれねえ)
肺助は天を仰いだ。じゃれ合う実母と学校の先輩。しかして、身長含め、体格は肺助の母・合儀椎子の方が命香より小さく、こうして二人が並ぶと、姉妹にも見えなくもなかった。
「けちー」
「もう、戦う前から乱れちゃいますってば」
明香は肩で息をしつつ、やや乱れた服装を正す。そして。
「さあ、存分に呪い合いましょう!」
びしり、と今度は凛々しく決め顔で命香は言う。
(かわいい)
「いや待て! どういうテンションで戦えばいいんだ!」
すでに、肺助の頭の隅には、敗北の二文字が浮かんでいた。
「どういうって……そもそも、わたし達、本当に戦う必要あるのかな?」
命香は今更ながらに顎に指を当て、もじもじと体をひねりながら肺助に問うた。




