幸せな呪いの日々(一時間未満)の終わり
「もう、そんなに見たいなら、あるじゃない」
「あるの?!」
命香の弾んだような声に、肺助は思わず叫んだ。結婚などしていないのに、新婚旅行を済まし、あまつさえ写真もあるなど信じられない。
対して、命香は席を立ち、背後の戸棚から、一つの写真立てを取り出した。
「ほら、これ」
そこには、青く透き通った海をバックに並ぶ、アロハシャツを着た肺助と命香の写真が収められていた。肺助は恐ろしくなった。自分が、凡そしたことのない、少しはにかんだような笑顔で立っている。
(多分、グアムだ)
肺助は愕然としてその写真を見下ろした。
「わたしはその写真好きよ」と椎子は言う。
「じゃあ、もう一度、この辺に飾りましょうか」命香が笑った。
「いや! やめておこう!」
肺助は大声を出した。頭がおかしくなりそうだ。最近の合成技術やAIを使えば、あの程度の写真は作れるだろう。落ち着け、と肺助は自分に言い聞かせる。
「その、おれ達の結婚指輪とかは……」
「二人ともまだ学生だから、目立つと困るし、ここにしまったでしょ」
写真立てが入っていた棚を命香が指した。
「なに、家の中だけでもつけたいとか?」今度は、命香がはにかんだような顔をする。
「もういい、やめてくれえぇぇ……」肺助は力なく言う。命香はその身長や長い黒髪などから、凛とした女性のイメージが付きまとうが、存外色んな表情を見せる。それが、肺助の胸の中をかき乱した。
(どう考えたってこれは、おれしか知らない命香の貌だ……)
心が、折れそうだった。合儀肺助の。
(もうこのままゴールしても、いいかな……?)
おそらく、本当に結婚指輪もあるし、婚約指輪もあるだろう。訊けば結婚記念日も結納の日も、それから新婚旅行の日付も、いつこの家に命香が引っ越しのかすら、すらすらと出てくるだろう。
年齢なんて関係ない。肺助の戸籍上の年齢は十六歳でも、周囲だけは十八歳として持て囃して意味をなさないだろう。
二人は結婚している。この呪いだけは絶対だ。それを中心に因果が歪む。それに合わせて現実や、人々の認識が『後に先立つ』のだ。
(これが、呪術!)
本来ならあらゆる言動が自由な自宅でも、呪いで行動が制限され、屁理屈一つ言えなくなる。健康そのものだった人がある日ぽっくり呪殺される。愛し合っていたはずなのに突然別れを切り出されることがある。逆に、不治の病すら一日と経たず快癒する!
(それが、呪い!)
とはいえ、そのすべてが本来ならばあり得ない。呪いだって、無から生じるわけではなく、仕掛けがあり、それがわかれば解くことすら可能なはずだ。まず、肺助は呪いの飲み込まれないよう、必死で正しいことを考えた。この家に誰かが引っ越してきたことなどないし、肺助の部屋だって、そのまま……
「おれの部屋!」
肺助は思わず声を出した。
(せっかく結婚したなら、やっぱり寝室は同じがいい……おれだったらそう思うはず!)
肺助は深呼吸した。
まだ、この呪いには甘いところがある。もしかしたら、物置になっている父の部屋がすっかり掃除され、肺助と命香の寝室になっているかもしれないが、それはそれとして、あまりにもそのまま、無事な状態の肺助の部屋があるのはおかしい。帰ったときに目にした、着替えが散らかり、ぐしゃぐしゃになったベッドの上の布団を思い出す。
(今朝家を出たときは普通だった。それから、自分が家に帰る一時間前に阿賀谷戸命香先輩はまだ校舎裏にいたはず。当然、このわずかな時間で、完璧な結婚生活は作れなかった!)
この綻びに、呪いが見えるはずだ。小道具(結婚指輪、写真、エトセトラエトセトラ……)は予め用意し(あの命香先輩が結婚指輪を購入し仕込みをしている姿は想像するだけで涙が出そうになる)、事前に呪術的儀式も行っていただろうが、十五年に及ぶ合儀家の呪いには及ばないはずだ。
と、肺助は一つ、唐突に思い浮かぶものがあった。
(この呪術は、おれと先輩だけではない。母さんにも作用している)
思考が二人の幸せな結婚に向いていた肺助は、改めてこの呪術の最大の謎に至る。この家の中で最強であるはずの家長、合儀椎子が合儀命香を認めているという点だ。
(どうやって、阿賀谷戸命香は合儀家の『一員』になったんだ?)
『合儀肺助の、屁理屈を禁じる』
母の使った呪禁を思い出す。
そう、呪禁という呪術が蔓延するこの家であればこそ、屁理屈的な『呪い』が成立する。通常では膨大な時間と準備が必要であろう『合儀家の嫁になる』という呪術だが、禁歌を支える『屁理屈的要素』それを使われたに違いない!
合儀家の一員になり、この家に蔓延した呪いをすり抜けられる方法があるはずだ。
(阿賀谷戸命香は何かを使って、自身を合儀家の一員として定義したんだ。何かをいじられたはず……何を?)
『もう、お義母さまったら。■■だって、わたしの名前があるでしょう?』
そんなことを言って。
そして、肺助は一つの結論に達した。今日、いろいろなことがありすぎて気付かなかったこと、否、そんなことがなくても常に意識の外ではあるが、確かに家族を内外に示すものがある! それをいじられたのだ。
(こんなに簡単なことだったのか)
肺助は目の前の、あまりにも愛しく、幸せな味のする料理を口に運んだ。その様子を偽の嫁姑は驚いて見ていたが、やがてそれに誘われるように、料理を楽しんだ。
「このお味噌汁なんか、わたしが作るよりおいしいんじゃないかしら」
「もう、照れちゃいますよ!」
そんな会話を聞くたび、肺助は奥歯が割れんばかりに両顎を締めた。
「おいしかったです。ご馳走様」
――完食。料理に罪はない。それが肺助の考えだった。決して、もう終わってしまう幸せな結婚生活に未練があったわけではない。
大きく息を吐き、吸う。それから立ち上がると、さっさと歩いて隣の和室の押し入れを開ける。仕舞われた桐の箱の中から、自身の身長に匹敵する長さの錫杖を取り出した。持ち上げると、杖の頭部分にある六つの遊環がぶつかり合い、かんらかんら、と音を立てた。
「肺助、さん?」
「命香……いや、阿賀谷戸命香先輩。楽しかったです」
その言葉に、命香の顔が険しくなった。
「ですが、こういうのはきちんと手続きすべきです。例えば、校舎裏の伝説の木の下に呼び出すとか、そういうことです」
ぱっと錫杖を振る。それは、かん、しゃん、と遊環の音を立て、命香を隅に追いやった。その音に、合儀椎子すら顔を歪める。
命香が退き、道が開いたその瞬間、肺助はぱっと駆け出し、二人の脇をすり抜けて、玄関の戸を蹴破るように外へ出た。命香の言葉が何やら背を刺したが気にしない!
「やっぱり……」
肺助は、確かに見た。家の外、外壁。インターホンのすぐ真下にある、表札。
『合儀 椎子
命香
肺助』
なる、全く見慣れぬものに差し替えられている、表札を!
「くそ、こんな単純な方法でうちの結界が破られるなんて……」
肺助は唇を噛む。錫杖を握る手に力がこもる。
(呪いには呪いなりの理屈があり、それを満たせばどんな理不尽だって巻き起こる。呪いとは、そういうものだ。一見無理でも、効くときは恐ろしいほどに効く)
「間違った表札を、禁じる」
錫杖の石突で、思いっきり表札をぶっ叩き、突き刺し、砕く。少し、寂しい、という思いが肺助の目頭を熱くした。
「合儀家に掛った、阿賀谷戸命香の呪いを禁じる」
錫杖を表札だったものに刺したまま、錫杖の遊環が揺れる頭部分のすぐ下を拳で叩き、音を立てる。呪禁の効果を高めるものに、呪文や儀式、舞などがあるが、錫杖の遊環の音も近しい効果がある。
こうして、阿賀谷戸命香の奇怪な呪術は解かれた。何となく、家を覆っていた不気味な影が去ったような気がした。びょう、と大きく風が吹く。
「くそ! もう終わったのに、なんでちょっと……」
砕かれた表札のあった位置から、錫杖を引き抜く。肺助は俯いて体を震わした。
「惜しかったね。あともう少しで、合儀家はわたしのものだったのに。一応、わたしの部屋も作ったんだよ。一緒に見に行く?」
そんな肺助の背中に、少女の声がかかった。
「何が、目的だ。どうしてこんなことをした?」
肺助は、その少女、阿賀谷戸命香のことをぎぎぎ、と睨んだ。




