無駄な抵抗はよせ、お前は結婚している
合儀宅には、一般の家庭にあるものに紛れ、そこかしこに呪術に関わるものが置いてある。壁には母・合儀椎子が書いた『書』が堂々と額縁に入れて飾られていたり、奥の和室の床の間にも、呪術にまつわる掛け軸がかかっていたりする。その下には、儀式で使う刀も祭られていた。
「どうしたの、肺助。もう眠いなら寝てもいいんじゃないかしら」
「それとも、お口に合いませんでしたか」
母と、命香が肺助に言う。呪術師の中でも特に呪禁を主とした禁歌は、日々の生活に制約が多い。それは、そもそも呪禁が、平安期、貴族や天皇をはじめとした人々の健康管理を目的とした『持禁』という術を発端に置いているからである。毒となる行動や、食事を禁じ、心身を健康に保つ方法を実践し、提言する。それが、呪禁師の始まりだ。
故に、食事の時間、内容から、風呂や瞑想、就寝時間は厳しく定められている。それが健康と、呪禁の精度に深く関わっているのだ。呪禁師がただ一言、××を禁じる、と、それで一秒でも相手の行動を制限できるのは、持禁の徹底にある。
呪禁師としての生き方は、合儀家の基本だ。
それは、肺助だけでなく、母も一緒だ。否、肺助より長い時間、持禁を実践し、守ってきた。
(たとえそれが、商売だとしても)
それが今、一人の少女、阿賀谷戸命香によって破られている。あの厳密な母親が、こうやって部外者を家に置き、あまつさえ嫁と呼ぶなどありえないし、まさか、飯も食わずに早く寝ろ、などというわけがない。
肺助は、固く閉じていた拳を開いた。
「大丈夫、おいしいよ」
肺助はそう言って箸を手に取り、肉じゃがをかき込んだ。うまかった。だが、意識は家中に拡散し、異常を検知しようとしていた。
確かにこれは、ある種、理想の世界だ。だが、偽りでもある。
「今日の肺助さんはちょっと変ね」
「実は、今日、肺助さん、学校で呪術を使ったんですよ」
「え?」命香がそのことに言及するとは思っておらず、肺助は思わず顔を上げた。
「それが、友達のためなんです。誰かのために、人知れず一晩中頑張って、かっこいいって思いました。わたし、真っ先にそういうことができる人と一緒になれてよかったって、そう感じたんです。だから、今日ぐらいはちょっと変でも見逃してあげてください」
(そんなことまで言うのか……)
肺助は絶句した。
「まあ、そうなのね! じゃあ今日ぐらいは見逃してあげようかしら」椎子は微笑む。
「はい、そうしてあげてください、お義母さま」
母兼師・合儀椎子がそんなことを言うわけがない。合儀肺助は母の認識を歪め、家を支配しようとする未知の女、阿賀谷戸命香の正体を暴かねばならないと固く誓った。
(おのれ、阿賀谷戸命香……おれに、幸せな夢を見させやがって)
勝手に唾液が湧き出るほどに美味しい肉じゃが、粒の立った米、適度に歯ごたえの残ったほうれん草の胡麻和えと言い、食事は完璧、なにか呪術のかかった食材を使っているなどではないと肺助は思った。これは、ただ単に滅茶苦茶うまいだけだ。
「母さん、今日家で、変なことなかった?」
「変なこと? 別に何も。どうかしたの?」椎子は一瞬の思案もなく即答した。
「いや、なんでもない。たださ、思ったんだよ――模様替えしてるだろ?」
肺助は攻勢に出た。そう、さっきから、合儀肺助は違和感がないことに違和感を覚えていた。この部屋は、命香を除いて普通過ぎる。
「模様替え?」命香は眉を顰めた。
「ほら。おれ達の結婚式の写真とか、新婚旅行の写真とか。あっただろ?」
肺助は、自分でそう言いつつ、思う。
――そんなもの、あるわけがない。
「それは……」肺助が問うた途端、命香の歯切れが悪くなった。
肺助はこの様子に光明を見出した。これでいい。何らかの呪術により合儀家の絶対である椎子の結界は破れ、今や阿賀谷戸命香に支配されつつあるこの空間も、所詮は仮初のものなのだ。
(このまま、結婚の事実を補強するものが『ない』ことを突き付けるだけでこの呪いは解ける!)
阿賀谷戸命香破れたり! このまま、新婚旅行先や婚姻届を提出した場所や日付、そもそも二人の馴れ初めに関する質問で、あっという間にこの呪いは矛盾で崩壊するだろう。肺助は小さくガッツポーズをした。
「写真なら、肺助さんが恥ずかしいからって片付けちゃったじゃない」
と、言ったのはほかでもなく合儀椎子であった。肺助はさすがに目を丸くした。
(なぜ母さんがそんなことを言うんだ!)
「もう、そんなに見たいなら、あるじゃない」
「あるの?!」
命香の弾んだような声に、肺助は思わず叫んだ。




