第五話 古塔の残響、東風の煙
深い森の奥深く、苔むした石畳の道が細々と続いていた。
鬱蒼と茂る木々の間から差し込む木漏れ日が、薄暗い足元に斑模様を描く。
ゼンは首元で結んだ艶やかな黒髪を軽く揺らしながら、慣れた足取りで進んでいた。
腰には愛用の短槍と、使い込まれた革製の腰袋、そして東方独特の紋様が施された煙管が提げられている。
琥珀色の瞳は、周囲の僅かな音や気配さえも見逃さぬよう、常に鋭敏に研ぎ澄まされていた。
「まったく、こんな奥地にまで魔物の気配が濃いとはな……」
ゼンは独りごちた。ここ数日、依頼を受けた古塔の調査のため、この“忘れられた森”を探索している。
塔の周辺に生息する魔物の排除が主な目的だが、同時に古代の遺物でも見つかれば儲けものだ。
東方からこの西方大陸に渡って久しいが、未だ見ぬ景色や文化、そして世界の真実を知ることへの好奇心は尽きることがない。
不意に、草木のざわめきとは異なる、微かな金属音が聞こえた。
ゼンはぴたりと足を止め、右手に短槍を構える。音のする方へゆっくりと視線を向ければ、朽ちかけた石の門が見えた。
かつては威容を誇ったであろうその門は、蔦に覆われ、半ば土に埋もれている。
そこから、錆びた甲冑を身につけたゴブリンが三体、醜い顔を覗かせていた。
奴らは門の前に群がり、何かを漁っているようだった。
「…厄介な」
ゼンは小さく呟くと、隠形を使い、身を低くして物陰に隠れた。
ゴブリンが身につけている甲冑は、この森の奥で発見された古代の遺物だろう。
錆び付いてはいるが、並の武器では傷一つつけられない。
厄介なのは、その数だ。三体を同時に相手にするのは骨が折れる。
ゴブリンたちは、地面に転がる古びた武器を拾い上げ、甲冑を打ち鳴らして仲間を呼ぶような音を立てていた。
その瞬間、ゼンは動いた。
素早い足運びで一気に間合いを詰め、最も近くにいたゴブリンの背後へ回り込む。
「甘いな」
刹那、ザンッ! と風を切る音が響き渡り、ゼンの短槍がゴブリンの首筋を的確に貫いた。
甲冑に守られていない唯一の急所だ。
ゴブリンは甲高い悲鳴を上げることすらできず、その場に崩れ落ちる。
残りの二体が、唸り声を上げてゼンに襲いかかってきた。
一体は錆びた大剣を振り回し、もう一体は粗末な槍を突き出す。ゼンは冷静だった。
大剣の重い一撃を精緻な体捌きで紙一重でかわし、その勢いを利用して相手の懐へ潜り込む。
柄頭でゴブリンの顎を打ち上げ、体勢を崩したところへ、回転しながら短槍を突き出した。
ガキン!
と鈍い音がして、槍の穂先がゴブリンの甲冑に弾かれる。
だが、ゼンは怯まない。
流れるような動作で体勢を立て直し、もう一体のゴブリンの槍の突きを足裏でいなし、その腕を掴んで捻り上げた。
ゴブリンはバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。ゼンは倒れ伏したゴブリンの喉元に、容赦なく短槍を突き立てた。
「ふぅ……」
息を整えながら、ゼンは辺りを見回した。これで残るは一体。
大剣を持っていたゴブリンが、恐怖に怯えたような声を上げながら、後ずさる。
だが、ゼンに容赦はなかった。
獲物を仕留める傭兵の顔つきになり、ゆっくりと歩みを進める。
ゴブリンは、観念したかのようにその場に立ち尽くした。
「観念しろ」
ゼンは一瞬で間合いを詰め、短槍をゴブリンの頭上に振り上げた。
大剣で受け止めようとしたゴブリンだったが、ゼンの突きはそれを上回る速さだった。
穂先は甲冑の隙間を縫うように、ゴブリンの目を貫いた。
ゴブリンは絶叫し、その場に倒れ伏した。
静寂が森に戻った。ゼンは手早く魔物たちの素材を剥ぎ取る。
甲冑は重くて持ち運びが難しいが、ゴブリンの皮や牙、そして魔石は金になる。
慣れた手つきで作業を終えると、ゼンは古塔の入り口へと目を向けた。
苔むした石造りの古塔は、まるで時の流れから取り残されたかのように、静かに佇んでいた。入り口は崩れかけているが、なんとか通り抜けられそうだ。
中へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を包み、黴と土の匂いが鼻をくすぐる。
「ずいぶんと……古びたものだ」
壁には、風化した壁画がかすかに残っていた。古代文字のようなものが描かれているが、判読はできない。
しかし、この塔がただの建造物ではないことを物語っていた。
ゼンは探求心をくすぐられ、慎重に奥へと進む。
塔の最上階まで辿り着くと、そこには簡素な祭壇のようなものがあった。
そして、その中央には、手のひらほどの大きさの、淡い光を放つ水晶が置かれていた。
魔力探知の腕輪が、微かに震える。
「これは……まさか」
ゼンは息を呑んだ。この水晶は、ただの魔石ではない。かつて東方の書物で読んだ、古代文明が残したとされる「星の欠片」に似ている。
もしこれが本物なら、途方もない価値がある。
ゼンは水晶に手を伸ばそうとした。その瞬間、塔全体が大きく揺れた。
轟音とともに、天井から砂埃と小石が降り注ぐ。
何かが、塔の外部から破壊を始めたのだ。
ドンッ!
という衝撃音とともに、塔の壁が内側へめり込む。現れたのは、巨大な岩のような体を持ち、鋭い爪と牙を持つ魔物――ロックゴーレムだった。
奴の片腕は、塔の壁を打ち砕いたばかりのようだった。
「とんだ歓迎だな」
ゼンは冷静に短槍を構えた。ロックゴーレムは、塔に侵入したゼンを排除しようとしているのか、その巨体を揺らしながら迫ってくる。
身動きの鈍いゴーレムに、ゼンの素早さは有利に働くはずだ。
「まずは、その腕からだ!」
ゼンはゴーレムの懐に飛び込み、その脚を駆け上がった。
ゴーレムは巨体を揺らしてゼンを振り落とそうとするが、ゼンは短槍を地面に突き刺し、体を固定する。
そして、ゴーレムの関節の隙間に短槍を突き刺した。ガキン! と金属が軋むような音がして、ゴーレムの腕が大きくひび割れる。
ゴーレムは激怒し、もう一方の腕を振り上げてゼンを叩き潰そうとする。ゼンは間一髪で身をかわし、ひび割れた腕の隙間へと飛び込んだ。
「ここだ!」
渾身の力で、ゼンは短槍をゴーレムのひび割れた腕の奥深くへと突き立てた。
バキィッ!
と鈍い音が響き渡り、ゴーレムの腕が砕け散る。バランスを崩したゴーレムは、塔の壁に激突し、さらに大きく塔を揺らした。
塔は崩壊寸前だ。ゼンは素早く祭壇の水晶を掴み取ると、ゴーレムの腹部へと駆け上がった。
ゴーレムは残された腕でゼンを捕まえようとするが、ゼンの動きはそれを上回る。
ゴーレムの胴体には、古代の呪文が刻まれた紋様が浮き出ていた。
それが、ゴーレムを動かす核だろう。ゼンは、その紋様が最も集中している場所へと短槍を突き立てた。
ドゴォッ!
という爆音とともに、ゴーレムの体が内側から砕け散った。
石の破片が降り注ぎ、塔全体が崩壊し始める。
ゼンは、砕け散るゴーレムの残骸から飛び降り、崩れ落ちる塔を駆け降りた。
間一髪で塔の外へ飛び出すと、轟音とともに古塔は完全に崩壊した。
砂煙が舞い上がり、辺り一面が白い霧に包まれる。ゼンは、手に握りしめた「星の欠片」をじっと見つめた。
淡い光が、ゼンの琥珀色の瞳に揺れる。
「厄介な目に遭ったが、悪くはない収穫だ」
ゼンはそう呟くと、腰袋から煙管を取り出した。指で東方独特の煙草を詰め、火を点ける。甘く香ばしい煙が、ゆったりと宙に溶けていく。
一服することで、高ぶった心がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
空はすでに夕暮れに染まり、森の木々の間からは、宵闇が忍び寄ってきていた。
ゼンは、懐に「星の欠片」をしまい込むと、腰の酒袋を手に取った。
コルク栓を抜くと、芳醇な葡萄酒の香りが立ち上る。
一口喉に流し込むと、旅の疲れがじんわりと溶けていくようだった。
「さてと、今夜は野営か。それとも、もう少し歩いてどこかの村を探すか……」
ゼンは煙をゆっくりと吐き出しながら、思案顔で空を見上げた。
どんな困難な状況でも、楽天的な思考を忘れないのがゼンの流儀だ。
この「星の欠片」を売れば、しばらくは旅に困らないだろう。
そして、また新たな土地へと足を踏み入れ、未知の景色や文化、そして美食と美酒を求めて歩き続けるのだ。
東方の風が、ゼンの黒髪を優しく撫でていく。