第三話 古塔の秘薬と招かれざる客
湿り気を帯びた石の匂いが、ゼンの鼻腔をくすぐった。
足元には苔むした瓦礫が散乱し、天井のひび割れからは僅かな光が差し込んでいる。
ここは「静寂の古塔」。かつては高名な錬金術師が隠棲していたと伝えられる塔の地下室だ。
ギルドからの依頼は、「錬金術師が残したとされる、魔物をも癒やす秘薬の発見」。
報酬は破格だった。
「まったく、こんな埃っぽい場所でよく研究に没頭できたもんだ」
ゼンは煙管を取り出し、懐から取り出した東方の煙草を詰める。
ふと、壁に描かれた複雑な紋様が目に入った。魔術的な記号だろうか、それとも単なる装飾か。
好奇心が顔を出す。
「おや、これは……」
紋様を指でなぞると、冷たい石壁の奥から微かに風が漏れていることに気づいた。
隠し通路。ゼンの顔に笑みが浮かぶ。
旅人の勘が「あたり」だと告げていた。
彼は愛用の短槍を背中に固定し、狭い通路を慎重に進んだ。
進むにつれて、空気はさらに重くなり、どこからか得体の知れない魔力の気配が強まってくる。
やがて、通路の先に開けた空間が現れた。そこは円形の広間で、中央には厳重に施錠された石の台座が据えられ、その上には古びた木箱が置かれている。
目的の「秘薬」は、この中だろう。
「ふむ、これまた頑丈な鍵だ」
ゼンは鍵穴に短槍の穂先を差し込み、手首を返す。カチャリ、と鈍い音がして、鍵が開いた。
木箱の蓋を開けると、中には琥珀色の液体が入った小さな小瓶が鎮座していた。
これが、魔物をも癒やすという秘薬か。
「まさか、こんなあっさり見つかるとはねぇ」
ゼンは小瓶を手に取り、透かすように眺めた。その時、背後で微かな足音がした。
「誰だ!」
ゼンは素早く振り返り、短槍を構える。
そこに立っていたのは、粗末な革鎧を身につけた男が三人。
いずれも剣や斧を携え、顔には不気味な笑みを浮かべていた。
どうやらギルドの依頼を嗅ぎつけ、横取りを企む輩のようだ。
「へへっ、お兄さん。そいつ、俺らのもんだぜ?」
男の一人が下卑た笑みを浮かべた。
ゼンは小さくため息をつく。
「残念だが、これはギルドから依頼されたものだ。横取りは感心しないね」
「うるせぇ! 黙って渡しな!」
三人の男たちは同時に襲いかかってきた。
ゼンは冷静だった。彼らは力任せに振るうだけの素人同然の連中。
一歩、二歩と後退しながら、ゼンの短槍が唸りを上げた。
最初の一撃は、正面から剣を振り下ろしてきた男の剣を、穂先で器用に弾き飛ばす。
キン!
と乾いた音が広間に響き渡り、男の手にしびれが走った。
すかさずゼンは間合いを詰め、槍の柄で男の顎を突き上げる。
グワッ、と情けない声を上げて、男は膝から崩れ落ちた。
残り二人が左右から挟み撃ちにしてくる。
ゼンは瞬時に判断した。彼は左に跳び、斧を振りかざしてきた男の攻撃を紙一重でかわす。
同時に、短槍を低く構え、もう一人の男の足元を払った。
バランスを崩した男が体勢を立て直そうとした瞬間、ゼンの槍が唸った。
「甘いな」
槍の柄が、男の鳩尾に正確に突き刺さる。
ゴフッ、と男は呻き、倒れ込んだ。残るは斧の男一人。
男は顔を真っ赤にして叫んだ。
「てめぇ、ただの旅人のくせに!」
その言葉に、ゼンは一瞬、眉をひそめた。彼はただの旅人ではない。
遥か東の地で、生きていくために磨き上げてきた技がある。
「旅人だからこそ、生き残る術を知っているのさ」
ゼンは男の攻撃を巧みにいなし、間合いを詰めては離れるを繰り返す。
彼の動きはまるで舞踏のようだった。
短いリーチの短槍を、体捌きと足運びで最大限に活かす。
男の斧が空を切るたび、ゼンは男の隙を見つけ、狙いを定める。
一瞬の静寂の後、ゼンの槍が閃いた。男の構えがわずかに崩れたその時、ゼンの短槍が男の腕を滑るように駆け上がり、手首の腱を正確に掠めた。
「ぐあっ!」
斧がガラガラと音を立てて床に落ちる。
男は痛みに顔を歪ませ、その場にうずくまった。
ゼンは倒れた男たちを一瞥し、深々とため息をついた。
「もう面倒はごめんだね」
男たちを縄で縛り上げ、ギルドに通報できるよう、塔の入り口付近に放置する。
さて、とゼンは一息ついた。
秘薬を携え、地上へと戻る。塔の外に出ると、夕日が傾き、空は茜色に染まっていた。
街に戻ったゼンは、ギルドに秘薬を提出し、報酬を受け取った。
分厚い金貨の束を手に、彼は馴染みの酒場へと向かう。
「大将! 今日は景気がいいぞ! 一番美味い酒と、それに合う料理を頼む!」
ゼンの声に、酒場の主人「グエン」はにこやかに答えた。
「おう、ゼンさん! お待ちかねだ! 今日は『炎鱗魚の香草焼き』があるぜ。酒は、最近入ったばかりの『蒼穹の雫』だ」
香ばしい匂いが食欲をそそる。
運ばれてきた料理は、焼かれた魚の皮目がパリッと香ばしく、肉厚な身からは芳醇な香りが立ち上っていた。
口に運ぶと、魚の旨みがジュワッと広がり、香草の風味が後を追う。
「こりゃ美味い! 魚の脂と香草のバランスが絶妙だ」
ゼンは満足げに頷いた。次に『蒼穹の雫』を一口。琥珀色の液体が喉を滑り落ちる感覚は、まさに至福だった。
深いコクと、ほのかに感じる甘みが、旅の疲れを癒やしていく。
「ふぅ……」
食後、ゼンは煙管に火を点けた。
東方独特の甘く、どこか懐かしい香りが、喧騒に包まれた酒場に小さな安らぎをもたらす。一服するたびに、彼の琥珀色の瞳は遠くを見つめていた。
故郷の景色、そしてまだ見ぬ世界の光景が、その瞳の奥に広がっているようだった。
塔での騒動はあったが、結果的には素晴らしい酒と料理にありつけ、報酬も手に入った。
旅とは、まさにこういうものだ。予期せぬ出会いと困難、そしてそれを乗り越えた先にある喜び。
ゼンはゆっくりと煙を吐き出し、グラスに残った酒を飲み干した。
「さて、次はどこの土地へ行こうかねぇ……」
彼の口元には、変わらぬ旅人の笑みが浮かんでいた。
未だ見ぬ世界が、彼を呼んでいる。