第二話 彷徨う影と琥珀の瞳
薄明かりが森の木々の間から差し込み、まだ湿り気を帯びた空気がゼンを包み込む。
朝露に濡れた草の匂いが鼻腔をくすぐり、遠くで野鳥のさえずりが聞こえる。
ゼンの黒い髪は、昨夜の焚き火の煙に燻された香りが微かに残っていた。
「くそっ、また外れか」
ゼンは舌打ちをし、空になった水筒を逆さにしてみせる。
昨日からまともな水にありつけていない。
この森は思ったよりも広大で、道標も少ない。地図を広げたところで、自分がいまどこにいるのかも定かではない状況だった。
腰に提げた煙管を取り出し、懐から取り出した東方独特の刻み煙草を詰める。
火打石で火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「ふぅ……」
紫煙が朝日に向かって細く立ち上り、ゼンの琥珀色の瞳が遠くを見つめる。
旅に出てから幾度となく経験してきたことだ。
道に迷うのも、水に困るのも。
それでも、彼の表情には疲労の色はあっても、焦りはなかった。
むしろ、未だ見ぬ森の奥に、何か新しい発見があるのではないかとさえ考えているようだった。
その時、風向きが変わった。腐敗した肉と、鉄のような生臭い匂いが混じった異臭がゼンの鼻を突く。
すぐさま煙管をしまい、愛用の短槍を構えた。
「……厄介だな」
ゼンは小さく呟いた。獣ではない。あの匂いは、魔物のものだ。
しかも、複数いる。
身を低くして、匂いのする方へと慎重に進む。
木々の間を縫うように、足音を立てずに進む。古木の根が複雑に絡み合う地面、苔むした岩、陽の光が届かない場所では、地面から奇妙なキノコが生えている。
どれもこれも、見慣れないものばかりだった。
やがて視界が開けた先に、小さな泉が見えた。そして、その泉の周りには――。
「グアァァァァァ!」
三体のゴブリンが、泉の水を飲もうとする小型の鹿を追い詰めていた。
ゴブリンは緑色の皮膚を持ち、粗末な革鎧を身につけ、錆びた剣や棍棒を手にしていた。
彼らの目は血走っており、鋭い牙を剥き出しにして、捕らえた獲物を貪ろうとしていた。
鹿は既に瀕死の状態で、かすかな呼吸を繰り返している。
ゼンは一瞬、眉をひそめた。見過ごすこともできた。
しかし、彼の性分がそれを許さなかった。
「おいおい、朝っぱらから趣味の悪いものを見せやがって」
ゼンは隠れていた木陰から飛び出し、短槍を低く構えた。
「テメェら、そいつから離れろ」
ゴブリンたちは一斉にゼンを振り向いた。
汚れた瞳に、ぎらついた殺意が宿る。
「人間! ヤル!」
「獲物! ワタシモノ!」
一匹のゴブリンが、奇声を発しながら錆びた剣を振り上げて襲いかかってきた。
ゼンは冷静だった。その動きは単調で、力任せ。
「甘いな」
ゼンは身を翻し、ゴブリンの剣を紙一重でかわす。同時に、短槍の柄尻でゴブリンの顎を勢いよく突き上げた。
鈍い音が響き、ゴブリンは目を白黒させてバランスを崩す。
間髪入れずに、ゼンは短槍の穂先をゴブリンの脇腹に突き込んだ。
「グギャア!」
ゴブリンは苦悶の声を上げ、地面に倒れ伏した。鮮血が泉のそばの土を赤く染める。
残りの二匹は、仲間の死に動揺することなく、むしろ激昂したようにゼンに襲いかかってきた。
一匹は棍棒を、もう一匹は剣を構える。二対一。しかし、ゼンは全く怯まなかった。
彼の戦いは、力ではなく、技術と経験に裏打ちされている。
棍棒を振り下ろすゴブリンの攻撃を、ゼンは右に流しながらステップを踏み、その勢いを殺す。
その瞬間、もう一匹のゴブリンが剣を水平に薙ぎ払ってきた。
「ほう、連携か」
ゼンは冷や汗をかくどころか、むしろ好戦的な笑みを浮かべた。
彼は地面に身を低くし、剣を潜り抜ける。
そして、低い姿勢のまま、短槍の穂先を剣を持つゴブリンの足元に滑り込ませた。
「!」
ゴブリンは足を取られ、派手に転倒する。その隙を見逃さず、ゼンは転倒したゴブリンの胸元に短槍を突き立てた。
一撃で息の根を止める。
残るは棍棒を持つゴブリン一体。
恐怖に引きつった表情で、ゴブリンは後ずさりする。
「ヒ、ヒィ……!」
「さて、お前はどうする?」
ゼンはゆっくりとゴブリンに近づく。
ゴブリンは完全に戦意を喪失していた。だが、ゼンは容赦しない。
森の中で生き残るためには、躊躇は許されないことを知っている。
ゴブリンが逃げようと背を向けたその瞬間、ゼンは一気に間合いを詰めた。
まるで滑るように、流れるように、彼の体は地面を蹴る。
そして、渾身の力を込めて短槍を投擲した。
「終わりだ」
短槍は唸りを上げ、正確にゴブリンの背中を貫いた。ゴブリンは痙攣し、そのまま前のめりに倒れ、ピクリとも動かなくなった。
ゼンは荒い息を整え、倒れたゴブリンたちを見下ろす。
血の匂いが一層強くなった。泉の水は、鹿の血とゴブリンの血で赤く濁っていた。
彼は投擲した短槍を回収し、ゴブリンたちの素材を剥ぎ取る作業に取り掛かった。
手慣れた様子でナイフを扱い、ゴブリンの革や骨、牙などを手早く集める。
素材は金になる。旅を続けるためには、それが必要だった。
作業を終え、ゼンは改めて泉に目をやった。鹿はもう息絶えていた。
しかし、その死が、ゼンに一つの考えを抱かせた。
「せっかくだ、少し休んでいくか」
ゼンは泉のほとりで、持っていた食料を取り出した。
干し肉と、硬いパン。それだけだが、今は十分に贅沢だった。
泉の汚れた水を避け、少し離れた場所の綺麗な湧き水を汲み、喉を潤す。
冷たい水が身体に染み渡り、疲れた体を癒していく。
食事を終え、ゼンは再び煙管を取り出した。
今度は、少し特別な刻み煙草を詰める。
故郷から持ってきた、希少な葉だ。火をつけ、ゆっくりと煙を肺に満たす。
東方の葉特有の、甘く、どこか懐かしい香りが口いっぱいに広がる。
「……故郷の空は、今頃どうなっているだろうな」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく、森の中に消えていった。
旅の目的は、純粋な世界探索。
未だ見ぬ景色、未知の文化、そして世界の真実を知ること。
だが、時折、故郷への想いが、彼の心をよぎる。
遠く離れた故郷の景色や、そこに暮らす人々を思い描く。
ゼンは空を見上げた。木々の間から見える空は、どこまでも青く澄んでいた。
「さて、行くか」
彼は立ち上がり、短槍を背負う。
そして、再び森の奥へと足を踏み入れた。
泉に残された血痕と、倒れたゴブリンの残骸だけが、彼がここにいた証だった。
旅は続く。まだ見ぬ場所へ、未知の体験を求めて。
そして、いつか、この旅の終着点に何があるのかを知るために。ゼンの琥珀色の瞳は、常に先を見据えていた。