第十三話 忘れられた古道と獣人の咆哮
灼けた夕日が西の地平線に沈み、大地を茜色に染め上げていた。
ゼンは、古くからの旅人しか知らないという細い獣道をたどっていた。
地図にないその道は、鬱蒼とした森の奥深くへと伸び、陽の光すら届かないほど木々が密生している。
「まったく、この道を選んだのは正解だったのかねぇ……」
ゼンは腰の煙管を取り出し、懐から取り出した東方の煙草を詰める。
火打石で火をつけ、深く吸い込むと、甘やかな香りが鼻腔をくすぐった。
吐き出された紫煙は、鉛色の空へとゆっくりと溶けていく。
「しかし、これだけ草木が生い茂っているとはな。以前ここを通った旅人も、まさかここまで荒れるとは思わなかっただろうよ」
古道の両脇には、人の背丈ほどもある雑草が伸び放題で、獣の気配がそこかしこに漂っている。
足元はぬかるみ、時折、大きな獣の足跡が泥の中にくっきりと残されていた。
「これじゃあ、夜までに次の宿場に着くのは無理だな。どこかで野営するしかないか」
ゼンは肩に担いだ革袋の重さを確かめた。
中には最低限の食料と水、そして旅の途中で仕留めた魔物の素材がいくつか入っている。
今日は運良く、希少な薬草をいくつか見つけることができた。これは街で高く売れるだろう。
突然、数メートル先の茂みが大きく揺れた。ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
ゼンは反射的に右手を腰の短槍に添えた。
琥珀色の瞳が警戒心に満ち、獲物を狙う獣のように鋭く光る。
「……誰か、いるのか?」
静寂が答えだった。しかし、風が木の葉を揺らす音とは明らかに異なる、不自然な気配がする。
ゼンはゆっくりと、しかし確実に距離を詰める。
茂みの中から、低い唸り声が聞こえた。
それは人間のものとは違う、獣じみた唸り声だった。
次の瞬間、茂みから飛び出してきたのは、全身が褐色の毛で覆われた、二足歩行の獣人だった。
鋭い爪を持つ手が、ゼン目掛けて振り下ろされる。
「ちっ!」
ゼンは素早く身を翻し、獣人の攻撃を紙一重でかわす。
獣人の爪が地面を深くえぐり、土煙が舞い上がった。
「こんな所に、奴らが縄張りを広げているとは……厄介だな」
ゼンは瞬時に状況を判断する。
相手は一体ではない。獣人の背後から、さらに二体の獣人が姿を現した。
三体か。厄介だが、どうにか対処できる数だ。
「おいおい、歓迎してくれてるのはありがたいが、もう少し手加減してくれねぇか?」
ゼンは軽口を叩きながらも、短槍を構える。
愛用の槍は、東方の熟練した鍛冶師によって丹念に打ち出されたものだ。
しなやかでありながら、その穂先は鋭く研ぎ澄まされている。
獣人たちは一斉にゼンに襲いかかった。
左右から挟み撃ちにするように、両腕を振り上げて飛びかかってくる。
「っらぁ!」
ゼンは低い姿勢で地を這うように滑り込み、右側の獣人の懐に飛び込んだ。
同時に短槍を鋭く突き出す。
獣人の脇腹に穂先が食い込み、鈍い呻き声が上がった。
獣人が怯んだ隙を逃さず、ゼンは反転してもう一体の獣人の攻撃を回避する。
「おっと、そっちは急ぎすぎだぜ」
左から迫る獣人の腕を、短槍の柄で受け流す。その勢いを利用して、ゼンは体を回転させ、獣人の顎めがけて穂先を突き上げた。
ゴキッという嫌な音が響き、獣人は仰向けに倒れ込んだ。
しかし、最初の獣人が再び体勢を立て直し、背後からゼンに飛びかかってきた。
ゼンは視線を動かさずに、その気配を感じ取る。
「まだやるか!」
ゼンは地面を蹴り、大きく跳躍した。
獣人の頭上を軽々と飛び越え、背後を取り、着地と同時に短槍を獣人の背中へと突き込んだ。
ぐっ、と獣人の体が硬直し、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
残るは一体。その獣人は、仲間が倒されるのを見て怯んだのか、少し距離をとって警戒している。
だが、その目は怒りに燃え上がっていた。
「逃げるなら今のうちだぜ。これ以上は、俺も手加減できねぇ」
ゼンはゆっくりと間合いを詰める。獣人は低い唸り声を上げながら、ゼンに突進してきた。
その動きは、先ほどの二体よりも速く、獰猛だ。
ゼンは冷静だった。獣人の突進を横に避け、迫りくる獣人の腕を短槍で払い上げる。
獣人の体勢が崩れた瞬間、ゼンは迷わず短槍を突き出した。狙うは心臓。
ドスッ!という鈍い音と共に、穂先が獣人の胸を貫いた。獣人の動きが止まり、そのままゆっくりと地面に倒れ伏した。
「ふぅ……」
ゼンは小さく息を吐き、血に濡れた短槍を土に突き刺し、何度か地面に打ち付けて血を落とす。
周囲には、獣人たちの荒々しい体臭と、血の匂いが混じり合っていた。
「まったく、油断も隙もありゃしない」
ゼンは倒れた獣人たちを検め、使えそうな素材を剥ぎ取っていく。
鋭い爪や硬い毛皮は、街でそこそこの値が付くだろう。
手際よく作業を終えると、ゼンは再び煙管を取り出した。
今度は深く、そしてゆっくりと煙を吸い込む。
「よし、これで今夜の酒代は稼げたな」
空を見上げると、月が薄雲の合間から顔を出し始めていた。
遠くで、夜行性の鳥の鳴き声が聞こえる。
このまま進んでも危険だと判断し、ゼンは近くの開けた場所を見つけて野営の準備を始めた。
焚き火の炎がパチパチと音を立てて燃えている。ゼンは、獣人の肉を串に刺し、火にかざしていた。
脂が滴り落ち、香ばしい匂いが周囲に漂う。
「悪くない。獲れたての肉は、やはり最高だな」
こんがりと焼けた肉を一口食べる。
獣人の肉は少し硬かったが、独特の野趣あふれる風味が、旅の疲れた体に染み渡るようだった。
懐から取り出した革袋に入った酒を一口飲む。それは、先日訪れた村で手に入れた、少し癖のある地酒だった。
「この酒も、なかなかやるな。この苦味が、今の俺にはちょうどいい」
煙管をくわえ、再び煙草に火を点ける。
東方の煙草の香りと、獣の肉の香ばしい匂い、そして地酒の風味が混じり合い、至福の時を作り出していた。
夜空には満天の星が瞬いている。
故郷の夜空とは異なる星の並びだった。
ゼンは、故郷を離れてからの旅を思い返していた。
様々な土地を訪れ、多くの人々に出会い、時には危険な目に遭い、時には心温まるもてなしを受けた。
「この世界は、本当に広い。そして、まだまだ俺の知らないことばかりだ」
ゼンは煙をゆっくりと吐き出す。煙は星空へと吸い込まれていく。
静かな夜が更けていく中、ゼンは焚き火の明かりを頼りに、小さな手帳を取り出した。
そこに、今日の出来事を簡潔に記す。
古道の獣人、そして手に入れた薬草と獣の素材。
「明日は、この道の先に何があるか、もう少し探ってみるか」
ゼンは静かに目を閉じ、明日の旅路に思いを馳せた。




