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第一話 辺境の村と牙の襲撃者


 鉛色の空が、辺境の村「石抱き(いしだき)」を押し潰すように低く垂れ込めていた。

 降り続く雨が泥濘んだ道をさらに深くし、軒先から滴る水滴が地面を叩く音だけが、ひっそりとした村に響いている。


 土壁の家々が身を寄せ合うように建ち並び、その屋根からは細い煙がわずかに立ち上っていた。


 村の外れにある唯一の宿屋兼酒場、「木の葉亭」。その薄暗い店内は、薪がはぜる暖炉の音と、煮込み料理の香りで満たされていた。

 カウンター席の片隅で、一人の男が静かに煙管を燻らせている。


 男――ゼンは、黒い旅装のフードを深く被り、その顔は薄闇に隠れていた。

 卓上には、飲みかけの濁った地酒と、骨付き肉の煮込みが入った木皿が置かれている。


 彼はゆっくりと煙を吐き出し、琥珀色の瞳で窓の外をぼんやりと眺めていた。


 「へい、あんたさん。この雨じゃ、まだまだ足止めだろうな」


 恰幅のいい宿の亭主が、愛想の良い笑顔で声をかけてきた。

 ゼンは視線だけを彼に向け、静かに頷く。


 「……そうですね。もう少し、この地の恵みに預からせてもらいますよ」


 ゼンはにこやかに答えた。彼の声には、故郷の異国情緒が微かに滲んでいた。

 この村へは、近くの山でしか採れないという薬草の噂を聞きつけ、立ち寄ったのだ。


 しかし、数日前からの長雨で道は寸断され、足止めを食らっている。


 「へへ、そりゃどうも。しかし、こんな奥地まで、一体何の御用で?」


 亭主の言葉に、ゼンは肩を竦めた。


 「見ての通り、しがない旅人ですよ。ただ、まだ見ぬ土地を巡り、珍しいものに触れるのが性に合ってましてね」


 彼はそう言って、煙管の火を落とした。

 煮込みの肉を一口齧る。野趣あふれる獣肉は、煮込むことでとろけるように柔らかく、香辛料が絶妙に効いていた。


 旅で疲れた体に、温かい食事がじんわりと染み渡る。


 「それにしても、この雨はひどいですね。いつもこれほど降るのですか?」


 ゼンが尋ねると、亭主は顔を曇らせた。


 「いや、こんなに続くのは珍しい。それに、最近は山の様子もおかしいんだ」


 「……と、言いますと?」


 「妙な唸り声が聞こえたり、家畜が襲われたり。数日前には、近所の猟師が森の奥で牙狼がろうの群れを見たって。この雨で餌を探しに出てきているのかもしれねぇ」


 牙狼――その名を聞き、ゼンは僅かに眉を動かした。牙狼は、その名の通り鋭い牙を持つ大型の魔獣で、群れで行動し、一度標的を定めると執拗に追い詰めることで知られている。


 「それで、村の者は?」


 「ああ、もちろん警戒している。だが、ここらじゃ牙狼なんて滅多に出ねぇんでな。みんな、困惑しとる」


 ゼンは黙って、残りの煮込みを平らげた。

 食べ終えると、彼は腰の革袋から銅貨を数枚取り出し、カウンターに置いた。


 「ごちそうさまでした。おかげで良い英気を養えました」


 「へい、まいどあり!」


 立ち上がり、店を出ようとしたその時、突然、村全体を揺るがすような轟音が響き渡った。

 続いて、耳をつんざくような人々の悲鳴と、けたたましい獣の咆哮が村中に響き渡る。


 「な、何事だ!?」


 亭主が慌てて店の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 激しい雨の中、村の広場で巨大な影が蠢いている。


 それは、体毛が濡れて黒光りし、飢えた目を爛々と輝かせる牙狼の群れだった。

 先頭に立つ一際大きな牙狼が、口から涎を垂らしながら村人を威嚇している。


 「牙狼だ! 本当に現れたぞ!」


 村人たちはパニックに陥り、家の中に逃げ込もうとする者、腰を抜かして座り込む者など様々だ。

 牙狼たちは、その俊敏な動きで次々と村人を襲い始めた。


 鋭い牙が容赦なく肉を引き裂き、鮮血が雨に濡れた地面に飛び散る。

 ゼンは一瞬の逡巡もなく、宿屋の軒下に立てかけていた自身の短槍を手に取った。


 槍身は使い込まれて鈍い光を放ち、先端の穂先は鋭く研ぎ澄まされている。

 彼はゆっくりと息を吐き出し、獲物を狙う狩人のように静かに構えた。


 「――まったく、せっかくの旅路が台無しだ」


 彼は静かに呟くと、広場へと飛び出した。


 「お、おい! あんた一人で何を――!?」


 亭主の声は、牙狼の咆哮にかき消された。


 ゼンは、牙狼の群れの中心へと一直線に駆け込んだ。彼に気づいた一匹の牙狼が、唸り声を上げながら飛びかかってくる。

 その巨体は雨の中を疾風のように駆け抜け、鋭い爪を剥き出しにして襲いかかる。


 ゼンは冷静だった。彼は腰を低く落とし、迫る牙狼の突進を紙一重でかわす。

 獣の体が彼のすぐ横を通り過ぎた瞬間、彼の持つ短槍が閃光のように突き出された。


 「シュッ!」


 という乾いた音と共に、穂先は牙狼の脇腹の急所を正確に貫く。

 牙狼は一声も上げられず、その場で前のめりに倒れ、ピクピクと痙攣した後、ぴくりとも動かなくなった。


 その鮮やかな動きに、一瞬、村人たちの悲鳴が止んだ。

 しかし、牙狼の群れは怯むことなく、仲間が倒されたことに怒り狂ったように、一斉にゼンに襲いかかってくる。


 二匹、三匹と、飢えた狼たちが唸り声を上げながら迫る。

 ゼンは焦らない。彼はその場に留まらず、広場を縦横無尽に駆け巡りながら、槍を振るった。


 「はぁっ!」


 一匹が背後から跳びかかる。ゼンはまるで地面に吸い付くように体をひねり、その攻撃を回避すると同時に、柄の底部で牙狼の顎を打ち上げた。


 「ゴッ!」


 と鈍い音が響き、牙狼は体勢を崩して宙に浮く。その隙を逃さず、彼の短槍が素早く突き出され、牙狼の喉笛を貫いた。

 鮮血が雨水に混じって地面に広がる。


 別の牙狼が、彼の足元を狙って低い体勢で突進してきた。ゼンは槍を地面に突き刺し、それを支点にして体を宙に舞い上がらせる。

 彼の体が牙狼の頭上を越えていくと同時に、空中でくるりと体を反転させ、落ちてくる勢いを利用して槍の穂先を牙狼の頭部に叩きつけた。


 「ガァン!」


 という耳障りな音と共に、牙狼は脳震盪を起こしたかのように、その場で倒れ伏した。

 彼の動きは、無駄が一切ない。


 まるで踊るように、時に軽やかに、時に力強く槍を操る。

 牙狼たちの猛攻を捌ききり、その都度、的確な一撃で息の根を止めていく。


 雨で滑りやすい地面でも、彼の足捌きは淀みなく、まるで地面が彼に味方しているかのようだった。


 「ひ、ひえぇ……なんだ、あの人は……」


 隠れて見ていた村人の中から、震える声が漏れた。彼らの目に映るのは、まるで嵐の中で舞い踊る精霊のような男の姿だった。

 牙狼の群れは、予想外の抵抗に戸惑いを見せ始めた。


 仲間が次々と倒れていく光景に、本能的な恐怖を覚えたのだろう。

 最初にゼンに挑みかかった牙狼のリーダー格が、鋭い牙を剥き出しにして咆哮した。


 それは撤退の合図だった。牙狼たちは、怯えたように残りの仲間を引き連れて、来た道を森の奥へと逃げ去っていく。

 牙狼の咆哮が遠ざかり、村に再び静寂が訪れる。


 残されたのは、激しい雨音と、血の匂いだけだった。

 ゼンは、残された最後の牙狼の息の根を止めた後、ゆっくりと槍を下ろした。


 彼の体からは湯気が立ち上り、濡れた髪からは水滴が滴り落ちている。


 広場には、何匹もの牙狼の死骸が横たわっていた。しかし、村人の犠牲は、数人が軽傷を負ったのみで済んだ。

 ゼンが間に合わなければ、甚大な被害が出ていたことは想像に難くない。


 「あ、ありがとうございました!」


 「あなた様のおかげで、村が救われました!」


 恐る恐る家から出てきた村人たちが、ゼンに感謝の言葉を述べ、深々と頭を下げた。

 ゼンはゆっくりと首を振った。


 「大したことはありません。これも、この村の恵みに預かった礼ですよ」


 彼はそう言うと、倒れた牙狼の一匹に近づき、懐から小刀を取り出した。

 慣れた手つきで、牙狼の鋭い牙を器用に剥ぎ取っていく。


 そして、その毛皮を裂き、肉の一部を切り取った。


 「これは、いい獲物だ。しばらくは食い繋げますね」


 彼はそう言って、満足げに微笑んだ。

 その顔には、先ほどの死闘の疲れは微塵も感じられない。


 村人たちは、そんなゼンを複雑な表情で見つめていた。まるで嵐のように現れ、村を救い、そして何事もなかったかのように獲物の処理に取り掛かるその姿は、彼らにとって理解しがたいものだった。

 ゼンは獲物を手際よく捌き終えると、再び「木の葉亭」の扉をくぐった。


 亭主は呆然とした顔で彼を見ていたが、すぐに我に返ると、満面の笑みで迎えた。


 「あんたさん、とんでもねぇ腕前だ! まさか、たった一人で牙狼の群れを追い払っちまうなんて!」


 「……ま、これも旅の経験というやつですよ」


 ゼンはカウンターに座ると、亭主に手招きした。


 「すいません、もう一杯お願いします。それと、今夜は、この牙狼の肉で一番美味い酒の肴を作ってくださいな」


 彼はそう言って、亭主に剥ぎ取ったばかりの牙を差し出した。

 琥珀色の瞳は、先ほどとは打って変わり、好物を見つけた子供のように輝いている。

亭主は驚きながらも、その牙を受け取った。


 「へへ、あんたさんには一生頭が上がらねぇな! 今夜はとびきりのを出すぜ!」


 その夜、「木の葉亭」では、牙狼の肉を焼く香ばしい匂いが立ち込め、普段にも増して賑やかな宴が開かれた。

 村人たちはゼンを囲み、彼の武勇伝を語り合った。


 ゼンは、村人の感謝の言葉に照れくさそうに笑いながら、熱燗になった地酒をゆっくりと味わっていた。

 雨はまだ降り続いていたが、村人たちの心には、辺境の旅人がもたらした、一筋の希望の光が灯ったようだった。


 ゼンは、再び煙管を取り出し、紫煙をゆっくりと天井へと昇らせる。

 明日になれば、雨も止み、再び旅路につくことができるだろう。




 新たな土地で、どんな出会いや発見が待っているのか。彼の好奇心は、尽きることがなかった。


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