9.お互いに訪れた転機
アウグストは私室で服を脱ぎ、あっという間に部屋着に着替えた。それから、テーブルの上に載っている今日の報告書を見ながら、横に置いてあるワインの瓶の蓋を抜いた。
帰宅後、就寝前に一杯飲むのが彼の日課だ。銘柄などはなんでもいい。ただ、アルコールが入っていればそれでいいと彼は思っていた。勿論、商売に使う酒は別だが、それらは仕事で山ほど飲む。家では、どうでもいい酒をどうでも良く、一日の疲れを流すように飲みたい。
「午前中は何やら読書をして、昼はスコーン1つ。刺繍をして、2刻ほど眠って、それから食事をしてそれなりに食べたが、食べ過ぎたようで横になって……まったく、よく眠るな。仕方ないとは思うが……ああ、それに。もっと豪遊してくれよ……」
そう言って、彼はソファにどかっと座った。わかっている。彼女は体力が足りない。それは、主治医にも言われていた。栄養が足りないため、風邪もひきやすい。それを知っていたので、先ほどは慌ててタオルをとってきた。風邪をひかせてお披露目会に欠席、ということになっては困るからだ。
だが。
(初めて、見たな……)
はにかんだような彼女の笑み。邪険に扱っている自分に対しての謝辞とその笑みに、アウグストは少しだけ困惑をした。微笑まれるようなことはしていない。ただ、ショールを少しだけタオルで包んで水分を吸い取って返しただけだ。まだ冷たく濡れていたし、そう大して役に立っていない。
けれど、彼女のその柔らかな微笑みは初めてだった。それはそうだ。彼女が微笑むようなことを彼は何もしていない。昼間は笑っているかもしれないが、夜出会ってわずかに会話をするだけの関係が続いていて、いつも彼女は物静かに話すだけだった。
――わたしには身の丈にあったもののように思えるのですが、きっと、普通の貴族は――
それは、ヒルシュ子爵家が貧乏だという意味だろうか。それは話には聞いていた。だからこそ、金で妻を買えると彼は思ったのだし。
「なるほど、慎ましく生きて来たということか。姉はそれなりに派手に遊んでいたようだが、それでは、確かに噂にもならないだろう……」
彼は、いくらか間違った解釈で彼女の言葉を受け止めた。実際、彼はカミラにもヒルシュ子爵にも会ったことはない。ほとんど噂話から聞いた情報ばかりで、そして、その情報には裏付けが取れていたからだ。ヒルシュ子爵家に美しい令嬢がいるが、貧乏だからか未だに結婚をしていない。その令嬢はあの手この手で色んな男性からの求婚を断り続けているが、条件がいい相手を探しているに違いない。そう聞いたし、調べたらそれは実際にそうだった。
婚前にあれこれと男に貢がせては捨てる令嬢。ならば、そう出来ないほどの大金を積めば、容易に結婚が出来るだろうと彼は思った。そして、自分の領地内で好きに金を使わせれば、町に金が回る。何故なら彼はどれほど稼いでも、彼自身がそこまで金を使わないため、とにかく財は膨らむ一方だからだ。だが、彼は商才を振るう以外のことが出来ないし、それを止めようとも思わない。
領地の経営も専門家を雇って月に数回会議を行って、後は勝手にやらせている。邸宅の管理はディルクに任せている。だから、彼は余計に商売に打ち込むことが出来た。そして、それはもう何年も続いている。
父親と妹は別荘に移って、好きなように生活をさせているし、財を置いているいくつかの倉庫やいくつかの別荘の警備にも金を出している。だが、それでも余るほどの財が彼の元に集まっている。なのに、彼は商売を止めない。手を緩めない。それは「そうすること」が彼にとっての日常だからだ。そうやって彼は生きて来た。貴族社会ではなく、商人の世界に彼はずっとい続けている。
だが、それを馬鹿にする者がいる。彼が愛妾の息子だと馬鹿にし、彼を「貴族とはいえあれは商人の出のようなもの」だと馬鹿にし、挙句に「家族が事故で死んでよかったと思っているのでは」とまで噂をされる。だから、彼は血統が欲しかった。そして、有り余る金を使ってくれる女。商売の幅を広げてくれる女。自分の隣で華やかに立つ女が欲しかった。
(そういえば。おやすみと言っていた)
そして、それはずっとそうだったのだ。それを実感して、彼はいくらか申し訳ない気持ちになったので「おやすみ」と返した。そうか。彼女は「おかえりなさい」と「おやすみなさい」と自分に繰り返し言い続けていたのだな……それすら気付かないほど、彼は彼女に関心がなかったのだ。いや、関心がないというよりは、見て見ぬふりをしていた、という方が正しい。
(まいったな……)
犬猫でも、一週間二週間共にいれば情が湧く。それが、同じ邸宅内にいて、毎晩のように出会って、言葉を交わせば同じように自分が情を感じるようになっても仕方がない。何も持たない彼女を仕方なく娶ろうと思っていたが、しかし……。
(女に微笑まれて心が動くようでは、まだまだだな……)
手にした資料をテーブル上に再び戻し、彼はもう一杯ワインをグラスに注いだ。
部屋に戻ったアメリアは、部屋着を脱いで寝間着に着替えた。それから、ショールを部屋の椅子の背にかけて少し伸ばす。少し縮んでしまうだろうか。だが、少しぐらいなら問題はない。そっと手でショールを撫でて、静かに見つめる。勿論、彼女が思い描いているのは、もうショールのことではなくてアウグストのことだ。
「ああ、許していただいたわ……よかった……」
ほっと落ち着いて、アメリアはベッドにあがる。まだ少し髪は濡れていたが、枕の上にタオルを敷いて横になる。毛布をかぶって瞳を閉じるが、なんだかどきどきして落ち着かない。こんなことは初めてだ。自分の鼓動がうるさすぎる。そうだ。雨の中走ったし、あの場から去った後も小走りしてしまったからだろうか。そうだ。そうに違いない。
彼女が思い出すのは、彼の低い声。それは、案外と穏やかな声音を伴っていた。
――身の丈がどうこうという話ではない。君がこれを選んだのだから、そんなものは関係がない――
ああ、よかった。もしかしたら、思っていたほど彼は怖い人ではないのかもしれない……その気持ちが少しだけ大きくなっていく。タオルを持ってきてくれた。ショールを拭いてくれた。それらが、本当は「風邪をひかれては困る」という意図で行われたことを彼女は知らず、ただただありがたいと思う。
そして、最後に「おやすみ」と返してもらった。それが、彼女にとってはあまりにも大きな出来事で、素直に嬉しいと思えた。これまで、何度もおやすみなさいと言っては無視をされていたが、それでも何かを言って別れなければと思ってつい口に出していた。そうしたら、やっと返って来た。決して返ってこないと思っていたものの返事が、自分に与えられたなんて。泣きそうだ、とアメリアは毛布の中でぎゅっと胸元で両手指を組み合わせる。
(なんて、なんて嬉しいのかしら。こんなことが……おやすみなさいと言って、言葉が返って来るなんて)
ずっと、誰にも言えなかった。幼い頃、乳母がいた時は当たり前のようにおはようもおやすみも言っていたのに。乳母がいなくなって、誰にも言うことがなかった挨拶。それを久しぶりに口にして、そして久しぶりに返してもらった。なんとそれが嬉しいことか。
侍女たちはいつでも「失礼いたします」と言って部屋に入って来て「それでは失礼いたします」と言って下がっていくだけだった。ヒルシュ子爵邸ですら、誰ともそんな言葉を交わすことがなかった彼女には、それに違和感をまったく感じていなかった。
なのに、まさか。ここで、アウグストとそんなやりとりが出来るなんて。まるで、生まれて初めて言葉が通じたかのように、彼女の心は浮き立った。
(ああ、アウグスト様……ありがとうございます……)
心の中ではいまだに「様」をつけてしまうが、それも許して欲しい。そんなことを思いながら、彼女は温かい毛布に包まれて幸せな眠りについた。