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5.夜の逢瀬

 それから3日間。どうやらアウグストはアメリアを避けているわけでもなく、単純に忙しいようで、朝は早くからバルツァー侯爵家を出て、夜は遅くに戻って来る様子だった。ディルクに聞けば「今は大きな商談をしていらっしゃるようなので、仕方がないと思われます」とのこと。ひと月後のお披露目会のため、この10日間程度に仕事を詰めたのだと聞いた。


 アメリアはその3日間でなんとなくバルツァー侯爵邸の人々と会話をして、わずかではあったが心を開いた。彼女からすれば、ヒルシュ子爵邸にいた時の何倍も人々は優しかったし、自由があった。勿論、自分をよく思わない者もいるだろうとは考えたが、それでも人々が自分をそれなりに尊重してくれることは感じ取れた。


 ようやく腹を括って、お披露目会用のドレスを仕立ててもらうため、リーゼと町に出た。バルツァー侯爵に「金を使え」と言われても、使う先は思いつかない。アメリアは悩みに悩んだが、リーゼに任せて仕立て屋で最上級の布地を使ってドレスを発注した。


 それから、リーゼが更に「靴はこれを、装飾品はこれを、それから裾に最上級のレースを追加してください」と上乗せをした。話を聞けば、そこまでやってどうにか「これぐらいやれば侯爵様も一応は納得してくださると思うのですが……」程度なのだと言う。アメリアは心底困って「そうリーゼがおっしゃるなら……」と言えば、言葉遣いを指摘されて藪蛇だった。




 困ったことに、アメリアは町に出て買いものをするだけで少しくたびれてしまった。そのせいで、帰宅をしたらすぐ眠ってしまい、夕食を食べそびれる。だが、彼女は夕食を食べないぐらいはいつものこと。一日スープ一杯とパン一つで過ごす日々だったのだし、なんともない。


「夜になってしまったのね……」


 一応眠る前に室内着には着替えていたが、見れば寝間着が別に用意されている。リーゼが気を利かせてくれたのだろう。が、それに着替える前に、少し歩こうと彼女は部屋をするりと抜け出す。


 バルツァー侯爵は、無駄を嫌う。よって、夜は外回りの警備はそれなりに人数を割いても、邸宅の内側はみな眠りについている。彼が持つ財のほとんどは別の場所に置いてあったし、それらは毎月の巡回でチェックをする徹底ぶり。よって、この本邸には多くの人件費を割かずにすんでいた。


 誰もいない邸宅内を、アメリアは静かに歩く。彼女はもともと、ヒルシュ子爵邸で昼間に出歩くことを禁じられていた――侍女の格好で離れの中で働くことは許されていたが、人目に触れないように――ため、夜、そっと外に出ることが多かった。


 バルツァー侯爵邸には庭園があり、渡り廊下から降りられるようになっていた。彼女はそこに向かった。


「ああ……夜の空気だわ……」


 この一か月、丸一日色々なマナーやら何やらの勉強を詰め込まれ、夜はすぐに眠りについていた。しかし、それ以前はこうやって外に出て、夜の空気を胸いっぱい吸い込むこと。それが、彼女にとっての生きる糧にもなっていた。


 夜は良い。静かで、誰の声もせず、ただ月明かりや星明りに照らされて、耳をすませば時々夜鳴く鳥の声が聞こえる。自分を馬鹿にする者も虐げる者もいない。その者たちが眠りについている時間だけ、彼女は安心をして息を吸えるような気がしたのだ。


「……あっ……?」


 かつん、かつん、と人が歩く音に気付いて、アメリアは身を竦めた。こんな時間に誰だろう。庭園にいることを怒られないだろうか。ぐるぐるとそう考えたが、どこかに隠れる暇もなく、その人物が現れる。


「うん? 誰だ。そこにいるのは」


「あっ、あの……」


「君か」


 そこには、アウグストの姿があった。どうやら彼は今帰って来たばかりのようで、外套を着ている。そういえば、渡り廊下を渡った先に彼の私室があったことに気付くアメリア。


(そうだ。執務室はエントランスに近いところにあったけれど……)


 婚姻を結ぶ間柄なのに、アメリアが使っている部屋と彼が使っている部屋は遠い。だが、きっとそれは彼が一人の時は休みたいと思っているのだろう……そう思っていた。


「はい。あの……お帰りなさいませ……」


 立ち止まったアウグストの元に、少しだけ近づいてアメリアはそう言った。彼はそれに特に何も返さず


「何故ここに」


「夜の……夜の庭園が、好きなので……」


「そうか。風邪には気をつけろ。お披露目会で倒れたら目も当てられん」


 そう言ってアウグストはその場から離れる。アメリアは「あっ……」と小さく声を出したが、彼は気にせず去っていった。


「おやすみなさい……」


 小さく呟いたその声は、彼に届いていなかった。




 次の日も、その次の日も、夜の庭園でアメリアはアウグストに出会った。毎日そこまで遅い時刻に彼が帰宅をしているのかとアメリアは驚く。


 アウグストも「またいるのか」と眉をひそめてアメリアを見たが、特に彼女が夜の庭園にいることを禁じなかった。彼は彼で、仕事を詰めてなんだかんだディルクとリーゼにアメリアを任せたことを少し気にしていたので、日々、庭園で彼女の姿を見ることで「自分も生存確認をしているぞ」と感じていたのかもしれない。


 朝、アウグストが邸宅を出る時にはまだいつもアメリアは眠っていた。彼の朝は早く、馬車の中でいくらか睡眠をとっていく。だから、目覚めの時刻に彼女が起きないことは当然だと思っていた。そもそも、ディルクですら時には目覚めていないのだし。よって、2日に一度はディルクやリーゼからの報告すら紙になっていた。


 そんな折、夜ほんの一瞬彼女の姿を見えることは、彼にとっては「面倒だが、生きていることがわかればいい」ぐらいのことだったのだろう。


「お帰りなさいませ」


 その夜、初めてアウグストは、彼女が自分に「お帰り」を言っていることに気付いた。いや、きっとそれまでも言っていたに違いないのだが、疲れて帰って来た彼の耳に届いていなかったのだ。


「……ああ」


 アウグストは足を止めると、燭台を庭園の方へと向けながら曖昧な返事をした。そして、薄暗がりの中で立っているアメリアを見て、ようやく


「前髪を切ったのか」


と気付いた。


 俯けばばさりと落ちる長い前髪。貴族は髪を結うものだからそれで特に問題はないはずなのだが、アウグストが彼女と会ったのは彼女が髪を下ろしている時ばかりだった。だから、いつでも長い前髪は彼女の顔を隠し、伏し目がちな表情すらも隠していた。だが、今の彼女は前髪を眉の下ぐらいまで切っており、顔立ちがよく見える。清楚だ、とアウグストは内心驚いた。


「えっ……あ、あの、3日前に……」


 そう返されて、言葉に詰まるアウグスト。3日前。ここ数日は毎日彼女に会っているはずなのに、気付いていなかった。いや、考えれば、一昨日読んだリーゼからの報告書に書いてあったような気がする……。


(商人たるもの)


 相手のほんの少しの造形、顔色、仕草などに気付かないとは。そう思う反面、彼は「本当にどうでもいいと自分は思っていたのだな」と考える。


(いや、違う。そうではない)


 ディルクが言っていたではないか。


――艶やかな金髪に、美しい水色の瞳をなさっておられますよ。それに、あまり顔を上げてくださらないようですが、綺麗なお顔立ちです――


 それを聞いて、自分は彼女をよく見ていなかったと思った。だが、そんなことがあるだろうか。自分が誰かをよく見ていない、だなんて。


(わたしは、彼女が噂と違う偽物を掴まされたと思って……だが、それは、今まで自分が嫌っていた女たちがわたしにやったことと同じことだったのだし、その報いを受けたのだと思った……)


 だから、彼は過剰に苛立ち、そして彼女に対して過剰に邪険にしてしまった。その上、彼女を見ないことで、自分がやったことから目を逸らした。アウグストは無意識で深くため息をついた。


 すると、そのため息にアメリアが反応をする。


「あの……バルツァー侯爵様……?」


 その声に「ああ、そうだな……それも言わなければいけなかった」と彼は彼女に話しかける。


「呼び名を改めろ。いつまでも、バルツァー侯爵と呼ばれても困る」


「あ……」


「まあ、今変えずとも、結婚をすれば嫌でも変えることにはなるんだが」


「なんとお呼びすれば?」


「普通に名前で呼べばいい」


 そのアウグストの言葉に、庭園に立つアメリアは薄暗闇の中、困ったようにもじもじする。そんなに名を呼ぶのに苦労をするのか、とアウグストが思っていると、彼女はなんとかか細い声を発した。


「あのっ……お、お名前、を、存じ上げておりません……」


「!」


 それは、予想外のことだった。アウグストはあまりのことに驚き、それから小さく「ははっ」と笑った。呆れを通り越して、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。だってそうではないか。自分も、ヒルシュ子爵家の令嬢の名を知らぬまま婚姻を申し込んだ。それと同じで、彼女もまた自分の名を知らずにここにいるのだと思えば、ほとほと馬鹿馬鹿しいと思えた。


「アウグストだ。ミドルネームはない」


「アウグスト様」


「アウグストでいい。お披露目会では、うまくわたしを呼べるな?」


「えっ……」


「呼んでみろ」


 アメリアは「出来ません」と消えそうな声で答える。だが、アウグストは引き下がらない。


「アウグスト、だ」


「アウグスト様……」


「もう一度。呼び捨てで」


「……アウグスト」


 恥ずかしそうに名を呼ぶアメリアを見て、アウグストは「可愛いところもあるじゃないか」と思う。


「それでいい」


 彼はそう言ってその場を離れた。それは、いつも通りだった。彼は彼女とそう会話をする気もなく、何も言わずにそこから離れて私室へ行く。常に彼の頭の中は仕事のことでいっぱいだったし、ここで彼女の様子を少し見られればそれで「今日もいつも通りだな」と彼は納得するからだ。


 だが。


「おやすみなさいませ」


 背後からかけられた声。ああ、そうか、と彼は足を止めた。


 この声は、今日が初めてではない。昨日も、一昨日も、確かに聞こえていた声だ。だが、アウグストはそれを無視していた。聞こえていても聞こえていないように。彼は「ああ」とだけ言って、自分からは「おやすみ」を返さなかった。


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