2.バルツァー侯爵家への嫁入り
朝早くから家を出て、1日馬車に乗った。その日は近くの宿屋で1泊をして、そして2日目の夕方。ようやく馬車はバルツァー侯爵邸に到着をした。間に2つの領地を挟んだし、馬の取り換えも行った。馬車はあまり良いものではなかった上に、護衛騎士すらつけてもらえなかった。それをヒルシュ子爵は「あまり派手に移動をすれば、嫁入りだと傍目にわかってしまうし、そうすれば盗賊たちに襲われるかもしれない」などと言っていたが、当然それは言い訳だ。きっと、これが自分ではなくカミラだったら豪奢な馬車を用意され、護衛騎士も多くつけられたのだろうと思う。
初めての長時間の移動にすっかりくたくただったが、本当の戦いはこれからだ。アメリアはもう一度小さくため息をついた。きっと、ここで自分は「何故カミラではないのか」と問いただされるに違いない。そして、ヒルシュ子爵への罵詈雑言を聞き、自分に対しても冷たい言葉を聞くだろう。だが、追い返されることだけは回避をしなければいけない。
(そんなことが自分に出来るのかしら)
何度も馬車の中で自問自答した。だが、いつでも答えは同じ。それは否。自分には抗う術が何もない。いくら体裁を取り繕っても、妻になれる資格はないだろうし、だからといって家に戻れと言われても家族は誰も自分を受け入れてはくれないだろう。ならば、ここから追い出されて、どこに行けばいいというのか。
(夕方ですもの。せめて……せめて、追い出されるにしても、朝になってからにしていただければ……床にひれ伏して、頭を下げて、どうにか……)
手が震える。なんとか拳に力を入れる。父親であるヒルシュ子爵に何度も何度も繰り返し「どうにか気に入ってもらうんだ」と言われ続けた。だが、そんな自信はないし、だったらカミラを嫁に出せばよかったのに、と今考えても仕方がないことを思う。
(もう一度深呼吸をして……)
すうっと息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。それとほぼ同時に馬車のボックスの扉が開いた。
「アメリア様。バルツァー侯爵家でございます。どうぞ、お降りくださいませ」
ああ、腹を決めなければ。アメリアは「はい」と返事をして、重い腰をあげた。
バルツァー侯爵家からは、特に歓迎のための者が邸宅外に出るわけでもなく、そのまま邸宅に入ることを促された。馬車の御者は頭を下げて、すぐに馬車に乗って引き返してしまう。
手には小さなトランク1つ。他に嫁入り道具も何もない。それは、バルツァー侯爵家からの要望で「すべてこちらで準備するので身一つで来ていただければ」という話だったからだ。
それが本当なのかはわからなかったが、仕方なくアメリアはトランクをぎゅっと握りしめて歩を進めた。邸宅の出入口には二人の門兵が立っており、じろじろとアメリアを見る。
「ヒルシュ子爵家より参りました。アメリア・ナーシェ・ヒルシュと申します。バルツァー侯爵様はご在宅でいらっしゃいますか」
どう尋ねれば良いのかはわからなかったが、おずおずと問う。すると、門兵たちはハッ、と体勢を引き締めて
「あっ、えっ、あのっ、あなたが……ヒルシュ子爵家の……?」
「はい」
「え……」
2人は互いに目配せをしあう。そうか。きっと、絶世の美女が来るとでも噂になっていたのだろう……そう思ってアメリアは悲しくなる。胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛い。
「失礼いたしました。少々お待ちください」
「はい」
片方の門兵が、邸宅の中に入っていく。ああ、怖い。きっと、話と違う女がやってきた、ということまでも伝えられているのだろう。そう思えば、どんどん肩身が狭くなっていく。
やがて、邸宅から門兵が戻って来て「どうぞ、お入りください」と声をアメリアにかけた。それへ礼を言って、おずおずと邸宅内に入る。
「あっ……」
広いエントランスは明るく、そこに何人もの使用人が立っている。アメリアはすっかり怖気づいたが、足を止めただけでなんとか震える声でカーテシーを行った。本来、使用人しかいない場でカーテシーを行うことはあり得ないのだが、彼女はすっかり動転をしていたのだ。
「失礼いたします。アメリア・ナーシェ・ヒルシュと申します。遅いお時間に参りましたこと、深くお詫び申し上げます……」
すると、それを聞いた執事らしき男性がアメリアに近づいて来る。
「アメリア様、ようこそバルツァー侯爵家に。お待ちしておりました。わたくしはバルツァー侯爵家執事ディルクと申します。どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
「はい」
「大変申し訳ございません。本日、当主でございますバルツァー侯爵が不在でして……真夜中の帰宅予定になっております。ですので、まずはお部屋にご案内いたしましょう。侯爵様とは明日お会いすればよろしいかと」
その言葉にアメリアはほっとする。ああ、それならば、今日一晩はここに泊めてもらえるのだ。罵声を浴びせられて追い出されるとしても、それは明日以降になるのだろう。そう考える。
「ありがとうございます」
「こちらは侍女頭のリーゼです」
「あっ……よろしくお願いいたします」
「アメリア様。よろしくお願いいたします」
人々は、アメリアが「よろしくお願いします」と言ったことにぴくりと驚きの表情を見せたが、アメリアにはそれがわからない。リーゼは四十路ぐらいの女性で、柔らかい笑みを湛えている。まずは正体がわからない自分にもそれなりにしてくれようとしているのだ……アメリアはそう思い、余計縮こまった。
部屋に案内されたが、その一室はあまりに豪奢で、アメリアは腰を抜かしそうになった。だが、きっとカミラならば大喜びするだろうな……そう思いつつ、彼女は小さくため息をつく。
「何かお気に召さないことでもございますか……?」
そのため息をリーゼに聞かれてしまい、ハッとなるアメリア。
「いえ、いいえ。そうではないのです。このような素晴らしいお部屋に、その、一晩お世話になるのだとしても、その……」
「一晩? この先もこのお部屋はアメリア様のものでございますが……?」
「は、はい……」
わたしは、もしかしたら明日には追い出されてしまうかも……とは言えず、口ごもるアメリア。駄目だ。そんな弱気では。自分はどうにかここでバルツァー侯爵に気に入ってもらわなければいけないのに……そう思うが、どこかでそれを無理だと思う。
リーゼは「クローゼットに参りましょう」と言って、彼女を案内する。部屋を出て、更に2つ隣の扉を開けば、そこは大量のドレスや靴が並ぶクローゼットになっていた。部屋そのものがそんなものになっているなんて、と驚き固まるアメリア。
「バルツァー侯爵家では、お部屋にあるクローゼットに三日分の衣類を置いて、日々ご自身で着用していただいております。元になるクローゼットはここになります。ですが、これはバルツァー侯爵のご意向ですので、アメリア様に関してはご自由にとのことです。日々ここからわたしが選んでお持ちすることも出来ますし、勿論アメリア様がご自由にここでお選びになっても構いません」
「はい……」
「アメリア様のドレスのサイズがわかりませんでしたので、3つのサイズをご用意しておりました。見たところ、一番小さいサイズで良さそうですね。明日用にお好きな雰囲気のものもお選びいただいて、今から何着かお部屋にお持ちになっても構いません」
「そう、ですか……」
すっかり困惑したが、今自分が着用しているドレスは2日連続で着ているため、明日は着替えたいと思う。申し訳ないと思いつつ、アメリアは比較的簡素でシンプルな水色のドレスを「明日用」に選んだ。それを元にリーゼは更にドレスを2着ほど、それから室内着を選び、他の侍女に部屋へと運ばせる。
アメリアは一旦室内着に着替えさせられた。残念ながらドレスも室内着も、彼女の体には少し大きい。細い腕は二の腕の袖口を余らせてしまうし、腰も、胸も、ゆとりがありすぎた。しかし、一番小さいサイズで用意されたせいで、少し丈は短い。アメリアは「少しは肉がついたと思っていたが、まだまだ自分は貧相なのだ」と溜息をついた。
とはいえ、ひとまず髪も下ろしてゆっくり休めることになった。今日はバルツァー侯爵が不在なので、部屋に食事を運ぶと言って、リーゼは出て行った。おかげで、一旦アメリアは1人になった。ようやくほっと一息ついて、ソファに体を横たえた。あまりの疲労に、怖いだとか申し訳ないだとかいうよりも「疲れた」という言葉が口から出る。
「ああ……明日……怒られてしまうのでしょうね……ここからまた、馬車に乗って帰ることになるのかしら……いえ……帰るなんて出来ないわ……」
ぽつりと呟いて瞳を閉じる。大丈夫。怒られることは慣れている。バルツァー侯爵に怒られるのは、覚悟の上だ。しかし、このままヒルシュ子爵邸に戻れば、どれほど怒られることだろうか。
そもそも、既にバルツァー侯爵からの結納金はヒルシュ子爵家に届いている。自分が帰るとなればそれをきっとバルツァー侯爵家に戻すことになるだろう。そんなことになったら、父親にどれだけ怒られるか。けれど、彼女にはどうにも出来ないのだ。
「なんとか、なったかしら。ここまで……たった一か月で習ったことを、なんとか……」
少しでも、バルツァー侯爵に気に入ってもらえと言われ、この一か月で多くのことを朝から晩まで叩き込まれた。それまでの生活と一変して、彼女は夜になると泥のように眠り、朝が来てはまたマナー講師やら何やらに多くのことを詰め込まれ、そうして怒涛のように一か月が過ぎて今日だ。
(わたしがどのように扱われていたかを……黙っているように言われたけれど)
父であるヒルシュ子爵には、口酸っぱくそれを言われていた。既に結納金を貰っている以上、何があっても結婚をしなければいけない。そして、ヒルシュ子爵家で彼女がどのように扱われていたのかを話したら最後、きっと彼は「そんな者を金目当てで寄越して」と怒って、結納金の返済を迫られるだろう。だから、それは決して言うな……。
確かにそれはそうなのだ。もし、アメリアが自分の境遇を話したとしても、だからといってバルツァー侯爵が「助けてやろう」と言うだろうか。そんなことはきっとない。だから、自分はなんとかこの一か月で身に着けたことだけで、どうにかカミラの役目を果たさなければいけないのだ……そう考えると、とんでもなく気が重い。
「疲れたわ……」
体から疲労が抜けないところに、この長旅だ。彼女はソファに座ったまま、すとんと眠りについた。もう、くたくたで限界だったのだ。