15.交差する心
ヒルシュ子爵邸に戻ったアメリアは、問答無用で再び離れに軟禁された。門兵たちには彼女を邸宅から出さないようにと言いつけ、彼女宛てに送られてくるアウグストからの金は、ほぼヒルシュ子爵の懐に入った。食事に関しては、彼女を痩せさせることはよろしくないと思ったのか、本館から離れに運ぶように指示をする。だが、それ以外の待遇は、彼女がヒルシュ子爵家を出るひと月前とほぼ変わらなかった。
ヒルシュ子爵は「このままお前に毎月バルツァー侯爵から金が入るなんて、なんとありがたいことだ」と大喜びしていたが、アメリアはそれに反発をした。彼女の反発にヒルシュ子爵は「バルツァー侯爵家で口答えを覚えて帰ったようだな」といささか驚いたが、それ以上は特に気にすることなく、変わらず彼女を蔑んでいた。
バルツァー侯爵邸から持ち出したものは、そう多くない。沢山何かを持って行っても、ほとんど奪われるのではないかと思っていたからだ。案の定、ドレスを3着木箱に入れて運んだが、それらは没収をされてしまった。なんとか、リーゼから受け取った銀貨を隠すことが出来たのは幸運だったと思う。そして、刺しかけの刺繍と、ちょっとした下着類、それから町で購入した小さな本が2冊と、白いレースのショール。それらは彼女の手元にどうにか残った。
「ああ……もうすぐ、出来てしまうわ……こんな、あまり上手ではない刺繍が」
刺した糸はがたがたで、まっすぐ揃っていない。だが、気持ちだけは込めている。初めて自分が刺した刺繍。図案通りにすることがこんなにも難しいなんて。ただそこにあるものをなぞっているだけなのに、うまくいかない。
だが、それまで何かを作ることがなかったアメリアには、それを完成させることに胸が躍った。それすら、初めての体験だった。
(これを、アウグスト様にお見せできるのだろうか……)
自分は、バルツァー侯爵家に戻ることが出来るのだろうか。心はずっと不安でいっぱいだ。
だが、離れたからこそ、彼女にもまた気付いたことがある。
夜、アメリアはそっと庭園に出る。あまり手入れが行き届いていないヒルシュ子爵邸の庭園。それでも、彼女にとっては息抜きが出来たはずの場所。長年通っていたその場所に立ち、彼女は月を見上げた。
「きっと、アウグスト様はたくさんお金をくださったのでしょうね……」
父親が大喜びしていた様子を見て、それは察した。だが、その金は庭園の手入れなどには割かれず、きっと、カミラの婚礼に使われてしまうのだろう。世話が行き届かない植物たちを見ても、以前はなんとも気にならなかったが、今ならばわかる。バルツァー侯爵家の庭園は美しかった……そう思い出すと、心の奥が締め付けられるような気持ちになる。
(でも)
でも、それだけではなかったのだ。日々、庭園でアウグストと行き会って、話をするようになって。それが、自分にとってどれほど嬉しいことだったのかを、今更アメリアは痛感をしていた。じんわりと瞳に涙が浮かび上がって、それをぐいと手の甲でぬぐう。だが、ぬぐってもぬぐっても涙が溢れて止まらない。
――思った以上に美しいな――
そう言ってくれた彼の声音には、威圧的なものが一切なかった。彼に褒められたことが嬉しかった。これまでの自分が報われたのだとも思った。
それから。彼は、自分が買ったレースのショールを見下したりしなかった。
――人と言うものは、何かを欲して、選んで、物を手に入れるものだ。わたしが知る限り、君がここでそう欲して手にしたものはこれが初めてだろう――
――ならば、それは尊重する。身の丈がどうこうという話ではない。君がこれを選んだのだから、そんなものは関係がない――
ああ、とっくに。とっくに自分は恋に落ちていた。今更気付いてもどうなるものではない。ただ、会いたいと思う。アメリアはしおれた花がそのままになっている庭園で、心を決めた。
(手紙を書こう。今は、まだお会い出来ないのかもしれないけれど……)
ここから手紙を出すことも禁じられていた。だが、アメリアには考えがあった。明後日、カミラの結婚式が行われることを彼女は知っている。そして、そこに自分は参列出来ないことも。彼女が参列をしたら、結婚を知っている者は「バルツァー侯爵はどうした」という話になって彼に迷惑をかけてしまうだろう。そして、それ以前にアメリア自身を「あれは一体誰だ?」という者も多く現れるに違いない。
それでも、大きな結婚式に花嫁の妹が参列出来ないことは相当おかしいことだ。だが、アメリアがいないことは何の不都合もヒルシュ子爵家にはない。彼女は再び「いるけれど、いない」存在になったのだ。
(きっと、その日は離れの監視も緩むはずだわ)
アウグストが行ったお披露目会は、王城近くの貴族はそう多く呼ばれていなかった。一方のギンスター伯爵は王城近くに住んでおり、王城近辺の貴族を多く結婚式に呼んでいると聞いた。だから、会は大きく格式も必要なため金がいる、とヒルシュ子爵が言っていた。
その、カミラの結婚式の間ならば。式はギンスター伯爵の別荘で行われるらしく、そこはヒルシュ子爵家の領地にだいぶ近かった。そこで、ヒルシュ子爵家の使用人も手伝いに行くほどの大きな結婚式を開催すると言う。要するに、アメリアを見張る者はいないだろうし、門兵の目もかいくぐりやすくなるのではないのかと思う。
(それに、侍女の服を着ていれば、わたしだとバレないかもしれないし……)
そんな風に、自分から何かをしなければと思うなんて、アメリアには初めてのことだった。今まで、彼女には何もなかった。何一つ。何の要望もなく、どう生きたいのかもわからず、ただひたすら日々を過ごしているだけだった。
けれども、バルツァー侯爵家に行ってから、自分は変わったのだ……それに気づき、彼女は胸を熱くした。ああ、自分は欲が深くなったのだろうと思う。けれど、それをきっと、アウグストは許してくれるのではないかと思う。
(そう思ったら、明後日までに手紙を書かなくちゃ……それから、手紙を届けてくれる商業組合がどこにあるかわからないけど……この家を出れば、辻馬車が近くに止まっていると思うし……)
辻馬車さえ見つかれば。彼女は、リーゼから受け取った銀貨が入った袋をバルツァー侯爵家から持ってきていた。それは、リーゼが「何かにお使いになられるかもしれませんから、隠してお持ちください」と言ってくれたので、バルツァー侯爵家に返さずに手元に残したのだ。それさえあれば、辻馬車に頼んで商業組合まで乗せてくれることだろう。
「ああ、わたし……」
薄暗闇の庭園の中、何か一筋の光が見えたような気がする。
(出来るかどうかはわからないけど、でも、何かをやってみようだなんて)
自分は、変わったのだ。どこがどう変わったのかはわからないが、間違いなく何かが変わった。それは本当にわずかなきっかけだったのかもしれない。たった一か月、バルツァー侯爵家にいただけで、こんな風に思えるようになったなんて。
(わたしには、大切な人たちが出来た)
アウグストが。ディルクが。リーゼが。使用人たちが。たとえ、自分がアウグストの妻になる身分だから優しくしてくれていたのだとしても、それでも彼らのおかげで、自分は少しだけ変わることが出来たのだと思う。
この離れでたった一人で生きて来た、長い年月。それを容易に覆してしまったバルツァー侯爵家での生活。勿論、自分に金を使ってもらっているから良い生活であることは間違いない。だが、彼女は「良い生活」だからバルツァー侯爵家に戻りたいとおもっているのではない。そこに、自分を人間として扱ってくれる人々がいるから。たとえ、自分がアウグストの妻だからそうしてくれているのだとしたって、それでも彼女にとっては大切な世界だ。
(ああ、なんだか、胸が熱い……)
自分が変わろうとしている瞬間を、彼女は今感じている。そして、脳裏にはアウグストの姿が浮かんだ。あの、少し癇癪持ちで、少し不器用な男。だけど、商人としての腕は確かなのだから、きっと表面上ではそんなところはみじんも見せないに違いない。
そんな彼が今まで彼女に見せた面は、案外と激情に流されたり、かといって穏やかだったりと印象が一定ではないけれど、それがまた人間らしいと彼女は思う。
「わたし、アウグスト様に会いたいんだわ……」
そう言葉にすると、心が決まる。自分が呟いた言葉は静かな空間で空気に溶けて行ってしまったけれど、それを心の中で何度か反芻した。
アメリアは庭園に背を向け、部屋へ戻ろうと歩き出す。その彼女の後ろで、枯れた花がぽとりと落ちた。
カミラの結婚式当日。アウグストは欠席の知らせを出していたものの、会場に向かった。それは、アメリアがそこにいるかどうかを確認しようと思ってのことだった。
彼はようやく心から「アメリアに会いたい」と強く思う。まるで手のひらを返したかのような、自分の我儘さ、自分勝手さに呆れていたが、リーゼが「アウグスト様。それは、恋という厄介なものですよ」と彼に告げ、ディルクは「それは困ったものですが、時には心に素直になることが一番かと」と彼を諭した。
まったく彼らは余計なことばかりを、と思いつつ、いい歳をして自分はまだまだ子供のようだとアウグストは苦笑いを見せた。ああ、本当に自分は馬鹿だな……彼は馬車の中で、仕事の書類すら見ずにぐるぐると考えていた。
(あれから、毎晩)
渡り廊下を歩いて、庭園で彼女の姿を探している自分に気付いた。いつも「ただそこにいるだけ」だった彼女に、気が付けば「そこにいてくれる」と感じるようになったのはいつだったのか。
控えめな「おかえりなさい」と「おやすみなさい」が当たり前になったのはいつだったのか。
彼女の部屋を見た。主を失った部屋は、驚くほど彼が準備をしたものから何も変わっておらず、そして、何故か「清廉だ」と思った。誰かがそこに存在したことをかすかに残しながら、だが、何も増えず。何も減らず。静かに彼女がそこで暮らしていたということを、如実に表していたあの部屋。
それを見て、彼は「いや、それは自分を騙そうと」とちらりと思った。が、そうではない。そうではないのだ。
(わたしは、自分がこれ以上傷つきたくなかったから……)
ただ、それだけだった。彼は逃げたのだ。その自覚はあった。しかし、その逃げの末、彼女を失ってから見えたものがあった。それは。
「アメリア……」
彼女に会いたい。彼女は彼に対して何をするわけでもなかった。ただ、夜の庭園で会って、おかえりなさいとおやすみなさいを言って。時々一緒に食事をして。ただそれだけだった。
なのに、どうだ。「それだけ」だったのに「それだけ」ではなかったのだ。アウグストの胸にぽっかりと空いた空虚な穴。それを埋めるのは、他の誰でもない。彼女しかいない。
「なかなかの人出だな……」
カミラの結婚式会場に、時間より少し早く到着した。人々は忙しなく動いている。あまりにも大きな会場に、アウグストは辟易をした。贅を凝らしたその別荘は、いささか古臭い。古臭いけれど広く、そこここに大きな花で飾り立てられ、彼の目からみても「行き過ぎだ」と思うほどの人員が走り回っている。
入口の受付もまだ整っていない状態だったが、彼は声をかけた。
「失礼。ヒルシュ子爵はいらっしゃるか」
「あっ、はい、いらっしゃいますが……」
「アウグスト・バルツァーと言う。式に参列出来ないため、ご挨拶だけでも」
やがて、受付の者がヒルシュ子爵を探し出して連れて来てくれるまで、彼は10分ほど待った。その間、彼の目に映っていたのは「本当の貴族ならばここまでの式を行うのだ」と言わんばかりの派手な装飾品やら、大きな花やら、贅を尽くしたものばかりだ。
(ギンスター伯爵側だけがこの金を出したとは思えないな)
彼が知るギンスター伯爵家は、財は相当なものだが、正直なところ少しケチだ。商売をしていれば、相手がどれぐらいの財を保持して、どれぐらい財布の紐を緩めるかぐらいはわかる。むしろ、商売をしていなければ、そこまでは測れないだろう。
(わたしが出した結納金が、すべてここに流れているということか……)
「バルツァー侯爵様!」
聞き覚えがある、耳障りの悪い声。にこにこと作られた笑顔を顔に貼り付けて、ヒルシュ子爵がやって来た。
「ヒルシュ子爵。突然申し訳ない。本日、式には参列出来ないが、祝いのお言葉を」
心にもないことを言いながら、ヒルシュ子爵を見る。彼の瞳からは、祝い金への期待がにじみ出ていたが、それについては口にしない。
「ありがとうございます。そのお気持ち、しかといただきました」
「ところで、わたしの妻は今日は……?」
「そ、それが、残念なことに、アメリアは体調不良でして……バルツァー侯爵家からの長旅で疲れたのでしょう。折角の姉の結婚式ではありますが、欠席をすることになり……もともと、体が弱い子ですので、まさかとは思いましたが、いや、残念です」
もっともらしい言葉。だが、そうではないことをアウグストはわかっている。彼女は目標となる日取りがあれば、それに合わせて体調を整えることが出来ると、お披露目会でわからせてくれた。もし、本当にカミラを祝いたいと彼女が思っていれば、いくら体調が優れなくとも彼女は少しでも無理をして列席をするに違いない。アウグストはそう思った。
「そうですか。それは、よろしくお伝えください」
「ありがとうございます」
「後ほど、祝い金をヒルシュ子爵邸にお届けいたしますので……邸宅にはどなたかお残りでいらっしゃいますね?」
「はっ、はい! 邸宅には、執事代理人が残っておりますので、そちらの者に……!」
「わかりました。それでは、これで」
アウグストはそう言ってその場からあっさりと去った。彼の背後で見送るヒルシュ子爵は、口の両端をにんまりと釣り上げて、祝い金のことで頭がいっぱいの様子だった。




