12.暗雲立ち込める
「あっ、お父様、痛い、痛いです……!」
ヒルシュ子爵は早足でアメリアをバルコニーに連れて行く。よほどのことがあったのか、とアメリアは警戒をした。バルコニーの手摺に背をかけて、ヒルシュ子爵は鷹揚な声音で告げた。
「アメリア。バルツァー侯爵に取り入って、カミラの婚礼への祝い金を出させるんだ」
「えっ……?」
「あの男に先日カミラの結婚式の招待状を出したんだが、欠席の知らせが届いた。お前の姉となれば、あの男の義姉だろうが。婚礼の祝い金を出すのは当然だろう?」
「あの、お父様。では、カミラはわたしの婚礼に、その、祝い金を……」
「ああ? 出すわけがないだろうが。お前たちは結婚式そのものもやらなかったんだろう? それに、バルツァー侯爵からカミラの祝い金を貰うため、カミラの婚礼を後にしたんだぞ?」
「!」
アメリアはヒルシュ子爵の言い草に驚いて目を見開く。なるほど、アメリアより先にカミラが結婚をすれば、まだバルツァー侯爵としては「義姉」ではない。だが、先にアメリアが結婚をすれば……というわけだ。
「だというのに、あの男、カミラの結婚式にも出ないと言い出したし、祝い金も出さないとの返事が来た。なんて強欲な奴だ。なあ? アメリア。お前がどんな風にあいつに言い寄ったかはわからんが、その調子で祝い金を出すように仕向けられるよな?」
「そんなことは……それに、わたしは言い寄ったわけでは……」
「なあ、アメリア」
ヒルシュ子爵は、慣れない甘い声を無理に出そうとする。
「お前が取り入って、カミラの結婚式にも多額の金を出させるんだ」
アメリアは困惑をしてヒルシュ子爵を見た。彼の表情は以前感じたのと同じ醜悪なものだ。言葉を失って、眉を寄せるアメリア。そんな彼女の肩を、ヒルシュ子爵はぽんぽんと叩く。
「お前もよく結婚まで持ち込んでくれた。よくやったな。さすがわたしの娘だ」
嫌だ……アメリアの体はわなないた。ただただ、彼の口から出る言葉たちはアメリアには聞きたくないものだったし、どれも勘違いをしていると思う。だが、それに対して彼女はうまく言葉を紡げない。彼女はこれまでも、誰に対しても怒りを露わにしたり、口にしたことがほとんどなかった。けれど、何かを言わなければと思う。思うが、どうにもならずにヒルシュ子爵を睨むだけだ。
「お前は頑張れる子だ。たった一か月でうまく振る舞えるようになったし、わたしの見込み通りのことをやってくれた」
見込み通りのこと? うまく振る舞えるように? 一体彼は何を言っているのかとアメリアはぞっとする。それから「ああ、お父様は、わたしを褒めて喜ばせようとしているのだ」と気付き、眉間にしわを作った。彼の言葉は一つも嬉しくない。それどころか理解に苦しむ。アメリアは「気持ちが悪い」と思った。
「今後も侯爵に気に入ってもらえるよう、うまくやるんだぞ。お前があの男に可愛がってもらえるならば、可愛いお前を嫁に出した甲斐があるというものだしな……」
可愛いお前。そんな風に思ったことなぞないくせに。アメリアは無性に腹が立ち、ついに震える声で「お父様」と声をあげた。が、それとほぼ同時に
「話はそれで終わりか。ヒルシュ子爵」
聞き慣れた声が響く。はっと2人が振り返れば、そこにはアウグストが立っていた。ヒルシュ子爵は「あっ」と声をあげて
「これは、侯爵様! その、娘と親子水入らずで話をする機会をいただきまして……」
と、彼にすり寄る。だが、それを無視して、アウグストはディルクを呼んだ。
「アメリアは疲れているようだ。部屋に送ってくれ」
「はっ……」
ヒルシュ子爵はその後も何やらアウグストに声をかけていたが、彼はさっさと背を向けてパーティーの席に戻って行ってしまう。アメリアは一体何が起きたのかわからなくなって、ディルクに「あのっ……」と声をかけた。
「防ぐことが出来ず、申し訳ございませんでした。アメリア様、お部屋にお送りいたします」
「わ、わたし、まだ、大丈夫です……」
「ですが、侯爵様がああおっしゃるので」
ディルクは申し訳なさそうな表情を見せる。彼を見れば、アメリアはそれ以上我儘を言えない、と察したようで「わかりました」と静かに彼と共にパーティー会場を抜けた。途中で彼女に声をかけてくる来賓はいたものの、すべてディルクがうまくあしらってくれて、彼女は賑やかな場から姿を消したのだった。
ドッドッドッドッ……
アウグストは「少し席を外します。ご歓談を」と人々に笑顔で一礼をして、控室に入った。そこは、誰も来ない部屋で、彼とアメリアが「何かあった時の休憩用に」と用意をした部屋だ。
「はっ……あっ……」
大きく息を吐き出す。額に脂汗が浮く。それをぐいとぬぐって
「くそ……信じろ。信じろ……」
と呟くアウグスト。思い出すのは、醜悪なヒルシュ子爵の言葉。
――お前もよく結婚まで持ち込んでくれた。よくやったな。さすがわたしの娘だ――
――お前は頑張れる子だ。たった一か月でうまく振る舞えるようになったし、わたしの見込み通りのことをやってくれた――
――今後も侯爵に気に入ってもらえるよう、うまくやるんだぞ。お前があの男に可愛がってもらえるならば、可愛いお前を嫁に出した甲斐があるというものだしな――
そのどれも、彼女は何の反論もせずに聞いていた。だが、反論をしないだけで、彼女はそれに対して賛同もしていなかった。わかっているのだ、本当は。
それでも、彼は彼女を信じきれなくなってしまう。本当はすべてが嘘だったのではないかとすら思う。もしかしたらヒルシュ子爵家で虐げられていたと言うのも「そう見せかける」ためのものだったのでは……そんな風に疑う自分を叱責する。
(落ち着け。落ち着け。彼女は悪くない……だが……)
思い出す記憶。それは過去のものだ。彼が脳内で忘れたいと思っていつでも追いやっていた、あの記憶。
そうだ。まるであの時と同じではないか。父と娘。欲をかいた父が言うように媚びへつらい、自分に気がある素振りをする娘。それへ、心を許した自分を、彼は情けないとも、腹立たしいとも思う。その、己に対する怒りまでもが再びこみあげてくる。
同じなのか。同じことを繰り返しているのか。いや、そうではない……アメリアはそうではない。わかっているのに、それをどこかで信じきれない自分がいる。
「いい加減にしろ、まったく、いい大人が……」
アウグストは呻いた。だが、鼓膜にこびりついたようにヒルシュ子爵の言葉が大きくなっていき、それは記憶の中の「あの」父親の言葉、そして、同じく「あの」彼女の言葉へとすり替わっていく。違うとわかっているのに。それでも彼女をどうしても疑ってしまう。
なんてことだ、と彼は頭を抱えた。
「自分だって……自分だって、彼女を金で買ったんだろうが……!」
呟いたその言葉はあまりに空虚で、彼の心にぽっかりと穴をあけた。そうだ。自分は彼女を金で買ったのだ。わかっている。
自分は弱い。アウグストはそう思い、下唇を嚙み締めた。こんなことで心を揺らしている場合ではないのだ。そのこともわかっている。
だが、わかっていてもどうにもならないことがあるのだ。己の心の内に広がる、疑心暗鬼の黒い闇。それを必死に押し留めようとするが、それらはむくむくと広がっていく。それすら「そうではない」とわかっている。けれども、今の彼にとってはどうにもならないことだったのだ。




