10.心の距離が近づいて
その日から毎日、アウグストは庭園にいるアメリアとほんの少しだけ言葉を交わして「ただいま」と「おやすみ」を返すようになった。縮まった距離はそれだけで、他に何が変わったわけでもない。ただ、彼は時々「今日は何をしていた?」とアメリアに尋ね、アメリアはそれに返事をする。それだけのことだった。それから、彼女には肩にショールをかけている日、かけていない日があり、どうやら気温差に敏感なのだということも理解をした。
アウグストは以前よりは注意深く彼女を見るようになった。本当に少しずつ肉がついていき、僅かに彼女の体がふくよかに――それは相対的な話であり十分すぎるほど細いままではあった――なっていることに気付いた。それから、ほんの少しずつではあるが、自分と話すことに彼女が慣れて来たことにも気付く。
ディルクとリーゼに尋ねたが、彼女が笑みを見せることはほとんどないのだと聞いた。そう思えば、あの日微笑んでくれた彼女の表情を思い出してなんとなく嬉しい。やがて、その場を離れようとする彼に「おやすみなさい」と告げる彼女が、かすかに微笑んでいることにも気付いて、彼は何故かそれに満足をした。
一方、アメリアはアウグストの顔を見て「今日は少しお疲れのようだわ」とか「今日はまだお元気のようね」と判断が出来るようになった。それに、彼が素っ気ない時でも、実はほとんどが仕事のやり過ぎだと薄々わかってきた。それに、彼の気分のむらはいくらかあったが、以前のように苛立ちを彼女にぶつけることをしなくなったのは確かだった。
だからといって彼女には何も出来ないため「今日はごゆっくりお休みくださいね」と声をかけることが精一杯だが、それを聞いた彼が「ああ」と返してくれるようになり、なんだかそれだけでアメリアの胸はいっぱいになる。
時折、アウグストが昼のうちに戻って来て、アメリアと夕食を共にすることも増えた。彼女は、自分が食べられないことが「口に合わない」せいではないとなんとか伝えようとした。そして、そんな彼女にアウグストは「食べられるものを食べられるだけでいい。だが、良いシェフを雇っているので、少しでも多くの種類は食べて欲しい」と告げた。
「あの、本当に美味しいので……もう少しだけ、少ない量で出していただけますと……」
初めて、彼女がアウグストへ要望を口にした。それに対してアウグストは給仕の者に
「そう伝えてくれ。すべて、今の半分でいい」
と伝えた。それまでのアメリアは、一皿を食べ終わるのが精一杯で、スープやサラダを食べて「もういらない」と言っていたが、どれも少量出されることで少しずついろんなものを口にすることが出来た。
アメリアは、過去から今までの人生で食べたことがないものを沢山口にした。だが、それを「そうだ」と彼女はいうことが出来ず、ただ、なんてこの世には美味しいものがあるのだろうかと日々驚き続ける。
勿論、食べ方がわからないものもあった。けれど、それは「ヒルシュ子爵の領地ではそれがないのだ」と言うことで、アウグストも使用人も気にせず食べ方を教える。最初は警戒をしていたアメリアだったが、徐々に人々の好意を素直に受け入れることも出来るようになり、また、それを素直にありがたいと心の中で反芻をする。そうやって、少しずつ少しずつ、彼らは「共に生きる」ことに慣れていった。
ある時、初めて最後のデザートに辿り着くことが出来たため、それを知ったディルクやリーゼは「お祝いをしましょう!」ととんでもないことを言い出した。アウグストはそれを「馬鹿げている」と言ったが、翌日になれば、アメリアは一食も食べられなかったので、それをディルクに聞いて更に「まったく本当に馬鹿げているな」と声を出して笑った。勿論、アメリアはそれを知らなかったが
「アメリア」
お披露目会の5日ほど前に、アウグストはアメリアの部屋に訪れた。
「アウグスト? 何か?」
見れば、彼女はあまり得意ではない刺繍をしているようだった。アウグストの目から見ても、正直なところ「出来が良い」とは言えない拙いものだったが、彼はそれを馬鹿にしたりしない。
アメリアは、少し時間を置いてから「あっ」と、手元の刺繍を隠そうとした。が、アウグストは
「大丈夫だ」
と小さく笑う。すると、アメリアはやはり刺繍をそっと隠す。
「それでも、その、恥ずかしいです……わたし、本当に下手くそで……」
「最初は誰でもそうだろう。君が頑張っていることは知っている」
アメリアにとって、その言葉がどれほど嬉しいことだったのかをアウグストはよく理解をしていない。ただ、本当にそう思ったからそう言っただけだ。だが、アメリアは頬を紅潮させて
「ありがとうございます」
と言いながら、かすかに微笑んだ。
(ああ、たったこれだけのことで、ようやく笑ったな)
彼女は、未だにほとんど笑みを見せない。だが、本当に時折見せる微笑みは少しぎこちない柔らさがある。まるで春が来たばかりの頃、つぼみが膨らんで花開く寸前を思わせる。それほど、彼女は満面の笑みを決して見せない。だが、その少しぎこちなさ、少し申し訳なさそうに微笑む様子も悪くないとアウグストは思う。
「あの、それで、何か……?」
「ああ。君に相談があって……」
「わたしに?」
「お披露目会の日、君用にドリンクを用意したいのだが、君は何が一番好きなんだ?」
「えっ……」
アウグストの言葉にアメリアは驚きの表情を見せる。
「わたしが、一番好きな……?」
「そうだ。見たところ、あまり君は酒が得意ではなさそうだが。果実水ならなんでもいいのか? それとも……」
しばらくアメリアは「ううん」と考え込む。自分が好きなものを選ぶだけで、そんな風に考えなければいけないとは、一体どういうことなのか。そうアウグストが聞こうとすると、彼女は恥ずかしそうに声をあげる。
「あっ、あの……ごめんなさい。実は、お名前がよくわからないのです。時々食卓にあがる……赤黒い、甘酸っぱい果実水が……」
「コケモモの果実水だな。わかった」
「あれが、コケモモの果実水なのですね」
「ああ。では、それを用意させよう」
「ありがとうございます。嬉しいです」
また、かすかな笑み。アウグストは「ふわりと微笑むのだな」……そう言葉にしようと思ったが、寸でのところそれを抑えた。そんな言葉を聞かせたところで何になるというのか。彼女は困るだけだろう。ただの自分の感想だ。
「わかった。あと、今晩わたしは外泊をするので、夜は戻らない」
「あっ……」
一瞬アメリアは何かを言いたそうに口を半開きにしたが、すぐに一度唇を引き結び、返事をする。
「はい。かしこまりました」
それは、夜の庭園にいってもアウグストは来ない、という意味だ。アメリアは小声で頷いた。
「それから、その刺繍、出来たらわたしに見せるがいい」
「えっ!?」
「ただ漠然と縫っているより、誰かに見せる目的があった方が熱も入るだろう。なに、わたしは刺繍のことなぞからきしわからぬし、気にせずに縫えばいい」
言っていることに若干の矛盾はあったが、アウグストはそう言って「ではな」と部屋を退出した。その背に、アメリアが「でも!」と声をかけたが、彼は振り返らなかった。それは、意地悪などではなく、実際彼には時間がなかったからだ。
通路を歩きながら、最後に「でも」と言っていた彼女の声音を思い出す。情けない。情けない声だが、それが少し可愛いと思う。
(わたしも彼女に相当慣れて来たな……)
慣れて来た、なんてものではない。可愛いと思っている時点で、きっとディルクやリーゼには「好きでいらっしゃるのでは?」と言われてしまう案件だ。だが、彼は自身に対して強い警鐘を鳴らす。
どうにも、過去のことが忘れられない。女性のことは信じられない。なんといってもアメリアは身代わりとなってここに来たわけだし……
(だが、それはお互い様だ。こちらも、金を積んだだけの間柄だしな……)
たったそれだけのことが「たった」ではなく、互いの心に何かしらのひっかかりを生んでいる。それをアウグストはわかっていたが、事実は事実で覆らない。
それでも、彼はもう少しでそれを乗り越えられるのでは、と淡い期待を心の中に抱いていた。本当に愛していなくとも、形だけでも、それでも、もしかしたら自分たちは案外うまくやっていけるのではないか……そんな、とても曖昧な願いが、彼の心に生まれる。
(お披露目会が終わったら……数日どうにか仕事を休んで、領地内を見せて回ろうか……)
自分が彼女を連れて出かける。そこまで気持ちが高まっていることを、彼は自覚せずにあれこれと考えていたのだった。
さて、アメリアはアウグストが去った室内で、息を整えていた。僅かな時間であったが、彼が彼女の部屋にやってくるのは珍しいことだったし、何より、下手くそな刺繍を見られるのではないかとハラハラして気が動転していたからだ。
(でも……わたしが好きなものを聞いてくださるなんて)
それが、事務的な会話だとしても嬉しいと思う。本当ならば、自分用の飲み物など用意をしてもらわなくとも、何かしらあればそれで良いはずだ。何かは飲めるだろうと思える。だが、そこであえて自分用にと言ってもらえるなんて。
「それに……相談、と言ってくださったわ……」
今でも思い出しただけで胸が高鳴る。自分に相談。そんなことを今まで言ってくれた人間がいただろうか。これまでの人生一度だって、そんな言葉を言われた記憶がない。
それは、彼にとってはなんということもない言葉でも、アメリアにとっては大切なものだった。じんと胸が熱くなる。ああ、たったこれだけのことなのに。なのに、こんなに嬉しいなんて。
(わたしは本当にここでアウグスト様の妻になれるんだろうか……)
未だに、どこか現実感はない。だが、初日にあれだけ冷たく突き放されたことが今では嘘のようだとすら思えてしまうのだから、慣れというものは恐ろしい。けれど、アメリアはどこかで「慣れてはいけない」とも感じていた。
それは、やはり自分はカミラの身代わりでここに来たこと。そして、アウグストに大量の結納金を出させたから結婚をしないわけにはいけないこと、そういったしがらみが彼女の心の中に残っているからだ。
彼らは互いに不自由だ。心のどこかで自分たちの始まりを意識して、己の想いに枷をしているようだった。決して互いに踏み込まないように、一線を置いているのもそのせいなのだろう。
「ああ、でも……」
アメリアは、まったくうまくいかず、縫ってもきちんと揃わない刺繍を見つめた。そう大したステッチは覚えていない。ただ、図案を埋めていくだけのことがこんなにも難しい。そのことを彼女は初めて知った。けれども。
「こんな刺繍でも、あの方は笑わずにいてくださるのかしら……」
アウグストはどこか皮肉屋めいたところはある。しかし、彼はアメリアがテーブルマナーに慣れないことも、会話がうまく続けられないことも、言葉以上のことをうまく深読みできないことも、何もかも、馬鹿にしたりはしていないと彼女はもう気が付いていた。
彼は素っ気ないし、時折ぶっきらぼうだったりもするけれど、決してアメリアのことを笑わない。それは、勿論彼にとって「期待していない」だけかもしれないが、だからといって馬鹿にすることもなかった。だから、少しだけ信じてみたい気持ちが心の中で湧きあがる。それに。
(アウグスト様……)
今晩は庭園に行っても彼は来ないのだ。当然、今までだってそんなことは普通にあった。彼が昼から問題なくバルツァー侯爵家にいたこともあれば、今日のように外泊をしたことだってある。その日、アメリアは庭園で一人でしばらく歩き、それから寝室に戻って眠る。何の問題もなくそう過ごしていた。
だが。不思議なもので、何故か「今日は庭園に行かなくてもいいのだ」と、先ほど彼女はふと感じた。なんということか。それではまるで、アウグストに会うために夜の庭園に自分が通っていたかのようではないか……アメリアは小さくため息をついて、ソファに背を預けた。
「ああ、わたし……」
一体、どうしてしまったのだろう。どこで間違えたのだろうか。いや、間違いではないのかもしれない。ただ、一体何故……ぐるぐると答えのない問いが脳内に繰り返される。
本当の答えはわかっているのに、それと今はうまく向かい合えない。ただ、鼓動がどきどきと高鳴って「心が震えている」と彼女は自分の胸を両手で押さえた。
彼らはそうやって日々を繰り返し、僅かながらに互いの距離が近づいていく。
そして、ついに婚姻式とお披露目会当日となるのだった。




