王子との遭遇
翌日、ミレイユはさっそく貴族街へ飛び出した。
高い塀を飛び越えたその先へ。
猫の体は想像以上に軽く、屋根を伝って塀を簡単に飛び越えることができた。
生まれて初めて見る光景にミレイユの心は揺さぶられる。
華やかで綺麗な町並み、大通りを駆ける立派な馬車。
大きなホールを窓から覗けば、煌びやかな舞踏会が催されていた。
平民のミレイユにとって、貴族の暮らしは雲の上の世界。
風の噂で聞いたことはあったがこんなに豪華だとは。
(こんなにお金があったら……好きなだけ魔法薬の研究ができるんだろうなぁ)
しかし、ミレイユの頭の中は魔法薬の研究で埋め尽くされている。
貴族みたいにお金持ちだったら、生活の質を高めることよりも、まずは研究をすることに全財産を突っ込んでしまいそうなくらい。
街をめぐりながら次はどこへ行こうか……と考えていると。
いつしかさらに高い塀の前に来ていた。
ここは……城の外壁だ。
さすがに城の外壁はひと息に飛び越えられるほど低くはなく、どこかしら抜け道を探す必要がありそうだ。
するりするりと壁の周りを駆け回り、やがて侵入できそうな箇所を発見。
いい感じに塔が接していて、そこから城の中に飛び込めそうだ。
(よし、行こう!)
帰りをどうするかは後で考えるとして。
ミレイユは迷わず城の中へ飛び込んだ。
着地した先は庭のような場所だった。
草木が生い茂っていて、小さな池がひとつ。
赤い屋根の小さな宮殿が庭の中央に見える。
(なんだか……意外と荒れてる?)
庭を歩いて抱いた感想がこれだ。
雑草が人の腰の高さくらいまで伸びているし、池の水は濁っているし。
向こうに見える宮殿も壁が煤けていてツタが這っている。
お城なのだから、もっと綺麗で清潔かと思っていた。
これなら貴族街の建物の方が清潔感がある。
実は王家は金欠だったりするのだろうか。
しっかりと掃除すれば綺麗になりそうだが……。
誰かいるかな、とミレイユは宮殿の方へ向かう。
すると人の声がした。
こっそりと草の陰から様子をうかがい、声の正体を確かめる。
「……貴様、俺の食器を落とすとはどういうつもりだ?」
「い、いえ……も、申し訳ございません!」
ミレイユが覗いた先には美丈夫が見えた。
光を受けて輝く白銀の髪。
佇んでいるだけで覇気のような、威圧感のようなものがある。
そして青年が厳しい顔つきで視線を向けているのは、給仕服を着た男性。
彼は顔を蒼白にして頭をしきりに下げている。
「テ、テオドール殿下に無礼を働くつもりはなく……!」
「ほう? わざと落としたように見えたが?」
「いえ、決してそのようなことは!」
(殿下……ってことは、あの銀髪の人は王子だよね)
そして必死に謝っているのが使用人だと思われる。
話を聞く限り、使用人がうっかり食器を落としてしまったのだろう。
テオドールと呼ばれた王子はすごく険しい顔をしているが、それだけでここまで怒ることはないだろうに……とミレイユは思う。
ドンと拳を壁に叩きつけるテオドール。
使用人の肩がビクリと震えた。
「次、同じようなことをしてみろ。貴様の首を刎ねてやる」
「は、はい! 気をつけます……」
「目障りだ。失せろ」
テオドールがそう言い放つと、使用人は脱兎のごとく駆け出していった。
後に残ったのはため息をつく王子のみ。
(こ、怖ぁ……)
この国の王子テオドールは冷酷だった。
自分が暮らしていた国の王族のことすら、ミレイユは理解していなかった。
実物を見てみると本当に怖い。
あんなに強く当たらなくてもいいのに。
ミレイユはその場から逃げ出そうと、身を翻した。
瞬間、ガサリと草が揺れる。
「……ん、誰かいるのか?」
――マズい。
全力で逃げ出そう……と思ったが、どこへ逃げればいいのか。
周囲は高い塀に囲まれているし、この中庭を逃げ回るしかない。
ミレイユは咄嗟に駆け出し、皇子と距離を取った。
「猫……?」
あの暴君に捕まれば間違いなく殺されてしまう。
殺されるのはマシな方で、生きたまま毛皮を剥がれてしまうかも。
なんだこの汚らしい獣は……と。
テオドールは壁際に追いやられたミレイユをじっと見つめている。
鋭く青い瞳の視線が突き刺さる。
彼は屈みこみ、ミレイユに近づかないまま口を開いた。
「……俺が怖いか?」
怖いです。
……と返事変わりに、ミレイユはにゃあと鳴いた。
「…………そうか」
意図が伝わったのだろうか。
テオドールは落胆したように目を伏した。
彼の表情が銀の髪に隠される。
なんだか哀れみの情を覚えてしまう。
先程まであんなに恐ろしかったのに、今はどこか哀愁が漂っていて。
「…………」
ミレイユは恐るおそる足を動かす。
もしかしたら……動物には優しいタイプの人かもしれないし。
だが捕まって殺されたらどうしよう。
警戒しながら、徐々に間合いを詰めていく。
ミレイユの接近を悟ったのか、テオドールは顔を上げた。
彼はミレイユを迎えるように小さく手を広げる。
ここに飛び込んでもいいものだろうか……と悩んだが。
意を決して彼のそばに歩み寄ってみた。
「……ふっ」
小さく笑う声が頭上から聞こえた。
テオドールは美しく白い手でミレイユの背中を撫でる。
なんだか心地いい。
ゆっくりと優しい手に撫でられ、思わずミレイユはゴロゴロと鳴いた。
「まったく……どこから入り込んだのやら。こんな場所に客人が来るとはな……」
よかった、乱暴なことはされないみたいだ。
人には厳しいが、動物には厳しくなさそう。
「首輪がない……野良猫か? 少し待っていろ」
テオドールは立ち上がり、古びた宮殿に入っていく。
しばし待つと彼は魚の干物を持ってきた。
ミレイユは前に干物を置かれて戸惑う。
(え……餌ってこと!?)
「…………」
なんだか期待したような目でテオドールがこちらを見ている。
猫の姿になっているが、自分の味覚は猫と同じなのだろうか。
まあ魚の干物は人間が食べても問題ないものだし、テオドールの期待を裏切れないし……ミレイユは少し怯えながら魚を食べた。
普通においしい。
「非常食として干物はたくさん保存してある。飯が運ばれてこないときもあるからな」
そう言うと彼は柔らかく笑った。
先程までの過激な態度が嘘のようだ。
魚を食べ終えたミレイユは感謝をこめて鳴いた。
さて、問題はどこから出るかだが……。
宮殿の屋根から外壁を飛び越え、来たときと同様のルートで戻れるかもしれない。
テオドールの手を離れ、ミレイユは一気に跳躍する。
やっぱり猫の体は軽くて動かしやすい。
「……腹が減ったらいつでも来い」
テオドールは去っていく猫を見つめ、少し寂しそうに言う。
彼をちらりと見て、ミレイユは城を去っていった。