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50歳で童貞を捨てた話  作者: しげる


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8/10

気になる人と僕

「あ、こんにちは…、あの、これ新しい作品です。いつも…本当にありがとうございます。立花さんの書があるから、私の詩も、絵も…本当に美しくなって。歌詠みの会の皆さんにも本当に好評で…個展をやってみないかってお話までいただけるとは、思ってもいませんでした」

「いえいえ、こちらこそ…、僕に趣味を与えて下さって、本当にありがとうございます。奥さ…さ、さつきさんの詩があるから、久しぶりに毎日墨をる習慣がついて…。師匠である母にもずいぶん褒められるようになったんですよ。個展のお手伝い、もちろんさせていただきますからね!」


 十月、月曜日の昼12時。

 僕はいつものように、作品展示コーナーでさつきさんと落ち合っていた。


 さつきさんが詩を生み出し、色紙に絵を描き。月曜に僕が色紙を受け取り、文字を筆で書き加え、翌月曜に墨の入った色紙を手渡す。僕とさつきさん二人がかりで…一つの作品を完成させる、その一連の流れがルーティーンになっているのだ。


 さつきさんというのは……、啓介の、奥さんの事である。


 八月ごろまでは、奥さんと呼んでいたのだが…今は、お名前で呼ばせてもらっている。

 歌詠みの会ではほぼ全員が落款らっかんにちなんだ名前を呼び合っているので、僕もそれに準じたのだ。


 ずっと奥さん呼びでもよかったのだが…そうも言っていられない状況が、あった。

 奥さんと呼び続けるのは……あまりにも、むごいと感じたのだ。


 さつきさんは、結局…啓介と一緒に暮らしていた家を、処分した。

 あの家で、女性が…啓介の伴侶だった人が一人暮らしを続けるのは…無理だったためだ。

 毎日のように訪ねてくる、啓介の知人。遠目でじろじろと観察をする、近隣住民。なまじ通夜と葬式で顔が知れ渡っているので、買い物に行っても声がかかり、通院すらもままならなくなって…20年暮らした家を手放すことになったのである。


 八月の終わりに市の花火大会があった時…さつきさんはその見事な光景を色紙に描いた。その絵に添えられた詩は、夜空に大輪の花を咲かせた花火に心のわだかまりを全てのせ…すべてが散って闇に溶ける事を願い、翌朝に晴れ渡る青空を望みたいという、やや切ないものだった。

 …おそらく、あの時にはもう、家を手放すことを決めていたのだろう。 幸い、息子さんは大学生で一人暮らしをしていて戻るつもりはなく、娘さんもあの家に自分のものは何一つないということで…反対するものは誰もおらず、未練や不都合はなかったようだ。


 新しい生活を生み出す覚悟を決めたさつきさんは、今、一人暮らしをしている。


 ……お母さんが入所しているという施設のそばにアパートを借りて、心機一転、暮らし始めたタイミングで。

 僕は…今さら感もあったものの、思い切って…お願いをしたのだ。


 ―――あの、今後は、さつきさんと…お呼びしてもいいですか?

 ―――ええ、もちろんです。…皆さん、そう呼んでくださってますし。


 女性を下の名前で呼ぶなんて初めての事で……くすぐったいような気持ちもあった。 だが、奥さんと呼び続けることで…いつまでも、啓介の影が付きまとうような気がしてならなかった。啓介を通じて繋がった縁ではあるものの、さつきさんに…これ以上啓介の歴史を背負って欲しくなかったのだ。


 啓介の影が薄まっていくにつれ、さつきさんとの縁も薄くなることを懸念したが…そうは、ならなかった。むしろ、啓介の影が薄くなっていくほど、少しづつ縁が深まっていくような…そんな気もした。


 さつきさんを紹介した縁で、僕も…顔なじみのたくさんいる歌詠みの会に入会する事になり。水曜の夜に歌詠みの会に顔を出し、顔を合わせ。作品展示コーナーの入れ替えの手伝いをするようになり。たまに、市内のあちこちで開かれている小規模展示会を見に行って、会場で顔を合わせる事もある。


 ……しかも。

 僕とさつきさんの縁は、それだけにとどまらなかった。


「お母様のこと、伺いました。スミマセンでした、本当に…何から、何まで。立花さんには、ずっと…お世話になりっぱなしで。感謝しても、しきれません。ありがとうございました。…お母様に、よろしくお伝えください。あの、ご迷惑ではなかったでしょうか…?私、お母様のご厚意に甘えて…図々しい事を……」

「いえいえ、そんな…こちらこそ!母も喜んでいますよ、茶飲み友達ができてうれしいって!まだしばらく退院できないので…引き続きよろしくお願いします!」


 九月に入ってすぐのことだ。

 今年73になる僕の母が、書道教室の生徒さんを見送る際に石段から落ちて、足首の骨をぽっきりやってしまった。高齢という事もあり手術と入院が必要になってしまい、手続きをしたり、家のことをやらなければいけなくなったり…有休をとりながら忙しい日々を送ることになり、非常に余裕のない時期がしばらく続いていた。


 ようやく生活に慣れ余裕が出てきたころ、見舞いに行った僕に…母が珍しくお願いをしてきた。


 ―――あのね、ちょっと…気になってる方がいてね。最近一緒にお茶をしているのだけど…ちょっとお財布の中身が心もとなくなってきてしまったの。いい年して恥ずかしいけど…お小遣いのおねだり、してもいい?

 ―――お茶?いいけど…コーヒーはブラックにしておきなよ?コレステロールが…はい、これ。


 骨がくっついてきて…もともと好奇心旺盛で出歩きたいタイプという事もあって、母は積極的に車いすや歩行器を使って院内をあちこち巡っていたようだ。ある時、たまたま一番広いロビーに行った時に、壁一面に筆書きの近代詩が貼られているのを発見し…見入ったらしい。一枚一枚、書道を嗜むものとして…一人の暇を持て余した入院患者として作品をチェックしていたのだが、ふと目の端に、一人の女性が入ったそうだ。


 ややもの悲しい、母と子の思い合う詩を見つめて、目元を拭っていたのを見てしまって……思わず。


 ―――あの、大丈夫ですか…?私で良ければ、お話…ききますよ?

 ―――ッ、す、すみません……なんでも、何でもないんで、す……


 母は、55で早期退職するまで…自治体でカウンセラーをやっていた。退職後も地域の傾聴ボランティアをしていたような人物で…いてもたってもおられず、声をかけたのだ。


 ……周りから冷たい言葉ばかりかけられて、変に気遣いをされてばかりで、気が滅入っていたからかもしれないが…その人は、見ず知らずの母に、胸の内を…こぼした。


 母親にひどい事を言われて、凹んでしまった…。いくつになっても母親が怖くてたまらない…。お互いを思いやることができる親子関係が築きたかった…。自分の子どもだけは守ろうと、必死だった…。聞けば聞くほどに、かわいそうに思ってしまい、母はカウンセラーとしての血が騒いでしまったのだ。


 ―――毎日こちらにいらっしゃいな。お母さんに会ったあと、ここで愚痴を言ってスッキリしましょう!

 ―――でも。

 ―――ふふ、私ね、骨が完全にくっつくまでめちゃめちゃ暇だから!!ね、お願い!!


 母が入院しているのは老人ホームや専門病院が多数隣接している大きな病院村のような場所で、コンビニやコーヒーショップなどもある。

 毎日、毎日、15分。ある日は花壇を一緒に見に行き、ある日はコーヒーショップの新作メニューを飲みに行き。

 些細なことに、重い事。悲しかった事に、辛かった事。親を捨てた事、夫との生活、子どもがいてくれたから生きてこれた事。親を捨てきれなかった事、親の言いなりになってしまう事。知らない人と話す方が気が楽な事、人と仲良くなることが怖い事。いろいろと、話をしたらしい。


 母は、カウンセラーだから…詳しい内容を僕には教えてはくれなかった。しかし、見舞いに行くたびに、介護の大変さや親と子の在り方、独立することと束縛されること…色んな問題について、話す事はあった。


 ……そんな、ある日。


 ―――今はね、毎日詩を書くのが楽しみだっておっしゃってるのよ。私もほら…見せていただいたのだけど。ねえ、驚いてしまったわ、これ、あなたの字でしょう?


 さつきさんは、母と…面識があったのだ。


「こんな事って…あるんですね。…さつきさんとは、何か…ご縁があるの、かも、しれないです…」

「……そうですね。とても…驚きました。あの…これからも、よろしくお願い、します。それでは、失礼します……」


 色紙の入った紙袋を交換し、頭を下げながら去っていく…さつきさんを、見送りながら。

 僕は、母と話したことを、思い出していた。


 ―――最近なんだかとてもイキイキしていると思ったら…知らなかったわ?

 ―――…そうだね、なんていうか、取り組むことが増えたから、生きがいができたというか。


 僕は、もう…このまま、平凡に人生を終えるのだと思っていた。


 仕事は平凡で、毎日同じことの繰り返し。

 友人がいて、たまに集まって、騒いで。

 休みの日には、一人でどこかに出かけて、たまに親孝行をして。


 職場の人間関係は良好だが、女性がいないので、出会いはなく。

 街コンに行こうと思えず、マッチングアプリも怪しいとしか思えず。


 一度も女性と付き合った経験がない。

 告白されたこともないし、告白したこともない。

 誰かを好きになったことすら、ない。


 今まで…どこか、他人は他人なんだという意識があった。

 自分は、他人と分かり合いたいと思えない人間なのだと、認識していた。


 もうじき、50歳。

 おそらく…恋愛をすることもないまま、人生を終えるのだろうと思っていた。

 このまま一人で母を見取り、孤独に老いていくのだろうなと思っていた。


 けれど今、僕は。


 ……僕は。


 自分の知らない、心の変化に…戸惑いを覚えている。


 こういうのを……恋と、呼ぶのかも、しれない。


 困惑を口にして、周りに伝えるような…気概はない。

 けれど、この気持ちを伝えずに終わってしまうのは…ダメだと、思う。


 ―――ねえ、茂。さつきさんは傷ついている人よ。あなたに…寄り添う覚悟はあるかしら。今まで生きてきた中で積み重ねられていった、悲しみや苦しみ、喜びや諦め…色んな時間を受け止めて、ただ、横にいる…それができる?ずっと…人と深く関わることを避けてきたあなたに…さつきちゃんの横にいることができるかどうか、少しだけ、心配。


 母は、一度だって…僕に早くお嫁さんをとか、彼女はできたのとか、聞いてきたことがなかった。

 父が亡くなった時だって、気丈に…これからは助け合って生きていきましょうねと言っていた。

 いつだって、僕自身が答えを出すまで見守って、相談した時には一緒に悩んでくれた。

 ああしなさい、こうしなさいという言葉を、聞いたことがない。


 その母が、僕にくれた…言葉が、重い。


 僕が支えるだなんて、そんなおこがましい事は…言えない。

 僕はただ…横に寄り添って。

 横に座って、一緒に平凡な日常を望んで、心が疲れた時に…そっともたれかかってもらうような…それぐらいの。


 ……それぐらいの。


 ―――後悔のないようにね。

 ―――うん。


 後悔をすることなく、平凡で消極的な人生を送ってきた僕は、今。


 ……迷って、いる。

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