50歳で童貞を捨てた僕
「おばあちゃん、スイカ…落としちゃった!!どうしよう…ごめんなさぁい!!」
「あらあら!!大丈夫よ?さ、おばあちゃんが拾ってあげるから…手を洗いに行きましょうね」
「しげるおじさん、ここ…もしかして、王手?」
「うわっ…英之君すごく強いね、次からは二枚落ちにしてくれないと…ダメ?」
「おかーさん!!ヤバイ、酢飯用なのに米が柔らかくなっちゃった!!」
「じゃあ…粉のお酢を使おうか。美玖はヒナちゃんのオムツみてあげて、おかあさん扇いでおくから」
「…ふえっ、グスン、グスン…あー、ああーん!!」
「みっちゃーん、ちょっと早いけどミルクあげてもいい?」
シャワ、シャワシャワシャワシャワ……!!!
ミィーン、ミンミンミン……!!!
八月の、お盆。
僕の家には、賑やかな声とセミの鳴き声がこだましている。
縁側に影を落とす楠の木からは蝉の大合唱が、7DKの築60年の家の中には、さつきさん、僕、母、さつきさんの娘さん、娘さんの娘さんが二人、娘さんの旦那さん、さつきさんの息子さん…総勢8人の声が響いているのだ。
……父の実家であったこの家に越してきた15歳の夏、静まり返る部屋の奥から祖母の怒鳴り声が聞こえてきて…震えあがった日を、思い出す。あの時は…大きな声を聞くのが、怖くてたまらなかったけれど。
「あ~も~!!何やってんのよぅ!!ミルクはすり切りだってば!!」
「ちょっとぐらい多めの方が味が濃くておいしいって!!」
「ちょっとお湯を多めにしたらいいんじゃないかしら?気持ち、ね?」
「マヤちゃん、ねぇちゃ…ママとパパって…いつもこんな感じなの?」
「うん、おもしろいよ!」
「あんぎゃー!!!」
「ごめんなさい、…ちょっと扇ぐの代わってもらっていい?ヒナちゃん抱っこしてくるから」
「じゃあ僕と英之君で酢飯扇いでおくよ」
元気な、大きな声が聞こえてくる、この状況が…たまらなく幸せだ。
我儘で傲慢で嫁いびりの事しか考えていなかった老婆が君臨していて…冷め切っていたこの家に、こんなに幸せな時間が流れるようになるなんて…夢のようだ。
さつきさんと出会って、親交を深め。
僕の告白を、…受け入れてもらって。
お付き合いをさせてもらうようになって。
娘さんと息子さんを紹介してもらって。
―――こちらはね、お母さんが今…お付き合いしている方なの。
―――初めまして。さつきさんとお付き合いをさせてもらっている、立花茂といいます。
―――はじめまして、山崎美玖です。今はT市に住んでるんです!
―――はじめまして、母がお世話になっています、息子の英之です。
娘さんと息子さんは、乱暴でガサツな啓介にずいぶん翻弄されていたようで…おとなしい僕を見て、好印象を持ってくれたようだった。初めて会ったその日に、和気あいあいとした空気が流れて…なんというか、とてもほのぼのとした雰囲気になった。
―――よろしくお願いします、お母さんは…ずっとかわいそうだったの!!あの、思いっきり…甘やかしてあげて下さいね?!
―――母さんがこんなに穏やかに笑えるようになったのは…しげるさんのおかげですね。
天真爛漫な娘さんに、おとなしくて落ち着いた息子さん…美玖ちゃんと英之君は、さつきさん一人をゴミ屋敷に残して家を出たことを後悔している、とてもお母さん思いの優しい人たちだった。
初顔合わせのあと、休みを合わせて一緒に食事に行ったり、テーマパークなどに行ったりして…楽しい時間を過ごすようになって。いろんなことを聞いたり、話したり…お互いがどんな人物でどんな考え方をしているのかだいたい分かったところで、思い切って…自宅に招待をすることにしたのが、二月の事だ。
―――すごい、同じ市内なのに…田舎っぽい!おばあちゃんの家みたい!!
―――おばあちゃんの家だと思って、いつでも遊びにいらっしゃいな!
―――いいんですか?!ありがとう!僕、縁側で将棋を指すの夢だったんですよ…!
春休み、ゴールデンウィーク、夏休みと、僕の家を訪ねるくらい…心を、開いてくれるようになって。母ともずいぶんうちとけて、今ではすっかり仲のいい家族といった感じだ。たまにご馳走のことで喧嘩をするくらい、気を許し合っているのが…地味に、うれしい。
―――娘も、息子も…優しいおばあちゃんという存在を、知らなくて。ごめんなさい、図々しくて…。
―――何言ってるの、さつきちゃん!私は…おばあちゃんにさせてもらえて、本当にうれしいのよ?ありがとうね、ホント…ありがとう!美玖ちゃんも英之君も、一泊や二泊じゃなくて、ずっとここに…住んでもらったっていいんだからね?
―――あはは、じゃあトモ君がこっちに転勤になったら考えようかな?
―――僕ハウスメーカーだから、リフォームも任せてくれれば!!
―――姉ちゃん!トモ君!ずるいよ、僕だって大学はここから通いたいって思ってるのに!
―――いつでもおいでよ、古いけど部屋はたくさん余っているし…。
―――母さんがまだ住んでないのに僕が住むわけには!!
―――もう!!早く一緒に住んじゃえばいいのに!!
―――そうですよ!!ここなら整形外科も近いし、お稽古に通わなくてもいいでしょう?
―――…ッ、そ、そうですね。し、しげるさん…。
―――はは、そんなにみんなで急かしたらダメだよ、さつきさんにはさつきさんの都合が…というか、僕のタイミングもね?!
……さつきさんの左手の薬指に輝く、ごくシンプルな…銀の指輪。
同じデザインのものを、僕も、つけている。
この指輪は…婚約指輪だ。
もうすでに…結婚指輪は、買って、ある。
だが、僕の意気地がないせいで…まだ、渡すことが、できていない。
もうすでに、婚姻届けだって記入してあるというのに。
それを出しに行く、タイミングが……まだ。
―――僕が啓介を越えるものを見つけることができたら、…結婚してもらえませんか。
―――……はい。
僕の中にある、わだかまりが解消するまではと…先送りになってしまっているのだ。
僕のせいで…さつきさんを、待たせてしまって、いるのだ。
……僕の中にも、さつきさんの中にも。
啓介という人間が……、大きく、心に刻まれている。
僕にとって啓介は、自慢の親友だった。
いくらひどい事をしていたとしても、死後に色んなことが露呈するまでは、一番の親友で、一番頼りにしていて、一番憧れていた人物なのだ。
さつきさんにとって啓介は、人生を変えてくれた恩人だ。
色々と振り回されはしたが、今日まで生きることができたのは、まぎれもなく啓介がいてくれたからだった。
啓介の奥さんだった人を…好きになったのは、僕だ。
僕の好きだという気持ちを…さつきさんは、受け入れて、くれた。
啓介の奥さんだった人に……僕の奥さんになってもらう、ためには。
……もらう、ためには。
亡くなった人の残した功績というのは…なかなか塗り替えることが、難しい。
奥さんの中にある、啓介への気持ちを…塗りつぶすまではいかないにしても。
……せめて、隣に並ぶことを許されるくらいの、何かが…なければと、思った。
……僕は、そう、思ってしまったのだ。
僕には啓介のような積極性も、人脈も、力強さも、ユーモアも、何も…ない。
僕には…さつきさんを自分の奥さんにするための自信が、なさ過ぎた。
でも、気持ちだけは伝えたいと、そう思って。
事あるごとに、自分の素直な感情を…伝えて。
―――笑顔が素敵すぎて、見とれてしまいました。
―――一緒にいるとホッとするんです。
―――いつも隣にいてくれるのが心地よくて。
―――ありがとうと言える人がいると、こんなにも世界が輝いて見えるんですね。
―――花を美しいと思う気持ちを分かち合う事が出来て幸せです。
―――なんてことのない平凡を…ずっと一緒に楽しめたらいいなと思うんです。
さつきさんの笑顔は日に日に増えて、明るく笑う事も、かわいく拗ねる事も、意見の違いから怒りの感情を出すことも、涙を見せる事もあった。
―――しげるさん、ありがとう…大好きです。
―――さつきさん、僕の方こそ…大好きです。
お互い、気持ちを伝えあう事も珍しくないようになったというのに。
啓介のインパクトを越えるだけの何かは…いつまでたっても、見つけることが、できなかった。
……そんな僕に、業を煮やしたのか。
さつきさんが…ぽつり、ぽつりと、昔話を、始めた。
―――…啓介は…私の事、本当に大切にしてくれたんです。
―――私を実家から引き離すために…授かり婚をするしかないと言い切って。
―――すぐに子供ができて、無事に生まれて。
―――もう一人子供が欲しいと言われて、またすぐに子供ができて。
―――子供はもういらないと言われて、それっきりで。
六月の終わり…、前日に大雨が降って、ぐっと気温が下がった日のことだった。
―――しげるさん、もし…啓介に、何か、勝てる部分が欲しいと…思うのなら。
―――私を、五回、…五回だけ。…して、もらったら……、勝て、ます、よ?
僕は…さつきさんとは、そういう事をしなくてもいいかと…思って、いた。
年も年だし、性交渉なしでも結婚するカップルは、いると…考えていたのだ。
―――どう、します……?
50年間、一度も、女性と肌を合わせたことが…なくて。
童貞のまま、人生を終えれば、それで、良いと。
……それで、良いと。
赤い顔をして、うつむいてしまった…さつきさんの、肩に、そっと手を置いたら。
……少し潤んだ瞳が、僕を…見上げた。
そして、その日、僕は……、童貞を、捨てたのだ。
今、僕は…啓介と、並んで、いる。
あと一度、身体を、重ねたら。
その時は……。
「さつきさん、今度の休み…ちょっとだけ、遠出…しようか」
「ふふ、いいですね!私…サービスエリアで美味しいもの、食べたいです!」
「いいなあ、ラブラブで!!トモ君、あたしも温泉行きたーい!!」
「ええ?!この前スーパー銭湯行ったばっかなのに!」
「まーちゃんもいくー!」
「あら!!敬老会でもらった優待券あるけど、使う?」
「いいなあ、僕も彼女と行ってこようかな…」
「ブーっ、ぶっぶ―!!」
そうだな、結婚式を、どこかの温泉宿でやるのも…いいかも、知れない。
部長や歌詠みの会のみんなも呼んで、アットホームな式に……。
僕は、少し先の未来を…頭の隅に、思い浮かべて。
愛する人へと、笑顔を向けたのだった。




