#71 ドキドキの限界
「えーっと、ところでさ。明日はどうする? 風呂」
空気を変えるようにヒナはそう切り出す。
明日以降も一緒に入浴するのか。さっき一度話題に上がったものの、曖昧なまま流れてしまった。
夜宵の美しい水着姿を明日以降も見れるとなればヒナとしても魅力的な話だが、毎日がこれでは心臓が持たないとも思う。
結局彼は決定権を夜宵に委ねることにしたのだ。
湯船の温度のせいか、顔を赤くしながら夜宵は苦笑いを返す。
「あはは、そうだね。毎日こんなことしてたら怒られちゃうし、ほどほどにしておこっか」
「怒られるって、誰に?」
ヒナの純粋な疑問に、夜宵は少し戸惑いながら答えた。
「それは。えーっと、ヒナの彼女、とか?」
自信無さげな夜宵の言葉にヒナは口を挟む。
「彼女なんていないよ。お前だって知ってるだろ」
ヒナのことをリア充爆殺委員会の会長に祭り上げて、絶対にリア充になっちゃダメなんて念を押してきたクセに何を言うのだろうか?
「じゃあ、未来の彼女とかかな。ほら、水零とか、光流ちゃんとか、琥珀ちゃんとかヒナと仲のいい女の子は沢山いるし」
それは夜宵の本心だった。
ヒナは人気者だ。
今の状況をあの三人に知られたらどう思われるか、正直怖い。
しかしそれを聞いたヒナは納得いかなかった。
「なんでだよ」
何故自分の周りの女の子の名前ばかり挙げておきながら――
「なんで、その中にお前はいないんだよ」
静かな問いかけに夜宵は驚く。
「そ、それはだって。みんな可愛いし、それに比べたら私なんて、陰キャだしコミュ障だし」
「夜宵!」
ヒナは語気を強め、彼女の両肩を掴む。
夜宵は驚いて彼の顔を見つめ返した。
怖いくらいに真剣な瞳が夜宵を捉えていた。
「あの三人のことなんて今は関係ないだろ。俺は、お前と一緒にいるだけで目茶苦茶ドキドキしてるんだよ!」
「えっ」
彼の言葉に夜宵は目を瞠る。
――そうなの?
――ヒナは女の子に慣れてて、私なんかじゃドキドキしないんじゃなかったの?
もはや完全に勢いだった。この場の勢いだけでヒナは大事なことを口にしようとする。
「他の誰よりも俺はお前でドキドキしてるんだよ。俺は、お前のことが――」
「ま、待って!」
彼の言わんとすることを察して夜宵はそれを遮る。
その言葉にヒナは動きを止めた。
夜宵は気まずそうに視線を逸らす。
「待ってよ。まだ、早いから」
その言葉の意味をヒナは知っていた。
一ヶ月前にも彼女から言われたことだ。
夜宵はまだまだ子供で、恋もしたことがないから。
自分が『普通』に追いつくまで待って欲しいと。
「私さ」
「うん」
ヒナから顔を逸らしたまま、夜宵はポツリと呟く。
「コミュ障でさ、引きこもりで、人と会話するのが苦手でさ」
「うん」
「男の子とお付き合いするなんて、まだまだできないんだよ。こんな私じゃ、すぐに愛想を尽かされちゃう」
そんなことない、とヒナは言いたかった。
でもそれはエゴだと思った。
ヒナがどれだけ夜宵のことが好きでも、夜宵は夜宵自身のことが好きになれない。自分に自信が持てない。
それは彼女が自分で解決するしかない問題だ。
夜宵は自分を変えようと頑張り始めたばかりで、まだまだ時間が必要で。
だからそれまで待つ。それが友達としてヒナが守るべき約束だった筈だ。
「ごめん」
ヒナは謝る。あの日、公園で交わした約束を破るところだった。
「ううん、私こそ」
夜宵は首を横に振る。
きっと彼は今、一世一代の勇気を振り絞って愛の告白をしようとした筈だ。
それを止めた。告白すら許さない。自分がそれを受け止める勇気がないばかりに。
彼にはとても酷いことをしてるという自覚がある。
「えっと、その」
夜宵は言い淀む。
なんだか気まずい雰囲気になってしまった。
「先に上がるね」
「あっ、おう。どうぞ」
夜宵の肩を掴んでいたヒナの手が緩む。
彼女は湯船から立ち上がり、浴槽の外へ出た。
水を吸った夜宵の髪が背中に張り付くのをヒナは茫然と眺める。
やがて彼女は脱衣所の扉を開けて、その向こうへと姿を消した。
一人になったヒナは湯船に肩まで浸かりながら、後悔の入り混じった言葉を吐き出す。
「ごめんな。それと」
――大好きだよ。夜宵。




