#54 お泊りのお誘い
「二人とも、お疲れ様ー」
そこで俺達が勉強していたリビングに新たな人物が姿を現す。
穏やかな雰囲気をまとった壮年の女性が麦茶の入ったコップをお盆に載せて運んできた。
「あっ、お母さん」
夜宵の呟き通り、彼女は夜宵の母親である。
おばさんはテーブルにコップを置くと俺の顔を見た。
「日向くんもいつもありがとうね。夜宵に勉強を教えてくれて」
「いえいえそんな。好きでやってることですから」
俺と夜宵はネットの世界で二年以上の付き合いがあるものの、リアルで初めて会ったのはほんのひと月半前だ。
だがその短い間に夜宵の家には数えきれないくらいお邪魔している。
彼女の母親にもすっかり気に入られてしまった。
「でも、日向くんも毎日うちに来るのは大変でしょう? 交通費だってかかるし」
「いや、ここ学校の近くなんで、七月中は通学定期がありますし」
だが来月になったら交通費がかさむのは確かだ。
そう思っていると、夜宵のおばさんはニコニコと嬉しそうに言葉を吐き出した。
「それでね。いつも夜宵の面倒を見てくれる日向くんに何かお礼ができないか考えたの」
お礼? 一体何だろう。
そう思っていた俺の耳に、次の瞬間、爆弾発言が飛び込んできた。
「ねえ、日向くん。今度、ウチに泊まりにこない?」
お泊まり、だと。
咄嗟に夜宵の顔を見る。
彼女もポカンとした様子でおばさんの話を聞いていた。
「日向くんの都合さえ良ければ何日でも居ていいから。ウチに寝泊まりすれば、交通費も移動時間もかからずに夜宵ともっと一緒にいられるでしょ」
それはメチャクチャ魅力的な提案だった。
毎日夜宵と会えるだけで天国なのに、その上彼女とひとつ屋根の下で暮らせるだと。
すぐにでも首を縦に振りたくなる衝動を抑えて俺は冷静になる。
落ち着け俺。
夜宵の家にお泊まりは確かに嬉しいが、あまり下心を表に出すな。
ここは夜宵のご両親に失礼のないよう、礼儀をわきまえてお世話になろう。
ひとつ屋根の下とは言え、別に夜宵と二人っきりなわけではない。
彼女の両親がいるわけだし、漫画みたいなラッキースケベとか、変な間違いとかそんなこと起きる筈がないのだ。
そんな風に考えていると、夜宵のおばさんは言葉を続ける。
「それにお父さんは仕事が忙しくて一週間くらい帰ってこないし、私も夜勤があるから夜は夜宵一人になっちゃうでしょ。
日向くんが一緒にいてくれれば安心だわ」
なん、だと?
夜は夜宵一人? 俺が泊まれば夜宵と二人っきり?
そこに夜宵の不満げな声が飛んでくる。
「お母さん、私だってお留守番くらいできるよ」
「でも夜宵はしょっちゅう戸締まりを忘れたり、抜けてるところがあるからね。やっぱり女の子を夜に一人にするのは心配なのよねえ」
母娘のほのぼのとした会話を聞きながら俺は内心でツッコミを入れる。
いやいや、奥さんそれはマズイですよ。
確かに俺が居れば夜宵にもしものことがあった時、彼女を守れるかもしれない。
しかし俺という狼を家に上げ、あまつさえ夜宵と二人っきりにする危険性を考えないのだろうか?
夜宵と二人っきり。
好きな女の子とひとつ屋根の下で二人っきり。
それが何日も続く。好きなだけ居ていいと言われたんだぞ。
もちろん嬉し過ぎるシチュエーションだが、俺は自分にブレーキをかけられるだろうか?
年頃の男とは例外なく、みな狼なのだ。
だが女親には男がどれだけ危険な生き物なのかわからないのだろう。
しかし男親ならどうだ? 夜宵の親父さんならきっと反対する筈だ。
「そもそも俺を泊めることって、親父さんの許可は取れてるんですか?」
そう訊ねると、おばさんは嬉しそうに答えてくれる。
「もちろんよ。『最近夜宵と仲良くしてくれるヒナちゃんって子がいるから、ウチに泊めていい?』って聞いたら、『ああ、いいんじゃないか』って二つ返事で了承してくれたわ」
「いやいや、それは詐欺ですよ! ヒナちゃんってなんですか! 絶対女友達だと誤解されてるじゃないですか!」
「うふふ、私は嘘は吐いてないし、言質はとったんだからお父さんに文句は言わせないわ」
奥さーん!
外堀は埋められたというわけか。
もちろん俺だって本音はお泊まりにいきたい。
だが現実的に考えて、あちこちから反対の声が上がる可能性はクリアしておくべきだろう。
「夜宵はどうなんだ? 俺が家に泊まるの嫌じゃないのか?」
俺は当人に言葉を向ける。
さっきおばさんがお泊まりの話を出した時、夜宵は驚いた顔をしていた。
つまりこの話は彼女にとっても初耳ということだ。
夜宵も年頃の乙女である。
自分の家に異性を泊めることに抵抗があるのではないか?
「お前は人の頼みとか断るの苦手なところあるからさ、嫌だと思うならちゃんと言った方がいいぞ」
キョトンとした顔の夜宵にそう釘を刺すと、おばさんがウフフと嬉しそうに笑った。
「日向くんって、本当に面倒見がいいというか、世話焼きお兄ちゃんって感じよね。妹さんか弟さん居るの?」
「あー、はい。妹がいますね」
確かに小さい頃から従妹の光流や幼馴染みの琥珀の面倒を見てきたこともあり、大人からはそんな評価を貰うことはあった。
まあそれより今は夜宵の答えを聞くことだ。
「どうなんだ夜宵?」
「えっ、いいよ! ヒナ、泊まりに来なよ!」
一ミリも躊躇うことなく、嬉しそうに誘ってきた。
「折角ヒナと毎日会えるのに勉強ばっかりでつまんなかったかし、ヒナがウチに泊まるなら一緒に遊べる時間も増えるよね。徹ゲーとかもできるよ!」
彼女は純粋に俺と遊ぶことを楽しみにしている様子で無邪気に笑う。
そこに年頃の男子への警戒心など微塵もない。
きっと夜宵は俺とゲームでもして夜通し遊ぶことしか頭にないのだろう。
お互いパジャマ姿で徹ゲーして、もし寝落ちでもして無防備なところを男に見せればどうなるかなんて全く考えもしてないに違いない。
どれだけお子様なんだよ夜宵ちゃん。本当に心配になってくるよ。
ともあれこれで、俺のお泊まりは夜宵一家に満場一致で可決された。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
そう言って俺は頭を下げるのだった。




